映画「フリーガイ」見ました。
感想、考察です。ネタバレです。
面白いですね。よく出来てます。
一般的な感想を見ると好評だったので、良い所は誰かが言ってくれるでしょう。
だから悪い所を言おうかと思います。
後半と言うか、オチと言うか、最後が今一です。
これは何か?
結論から言うと、アメリカンな病気ですね。
たぶんですが「続きは2で!」と言いたいのでしょう。
全てを出しきらず、続きに残すために、ある程度で妥協して終わらせたとしか見えませんでした。
「クルエラ」もそうでしたが、主人公に恋人が出ないで終わるやり方は、たぶんまだ続けたいのだと思っています。
何かが足りないのは、皆分かってると思います。
まず思い描くは「マトリックス」ですね。マトリックスのように世界の真実を隠してミステリー調にする事も出来たでしょう。
しかししない。たぶんそれこそ「それじゃあ、マトリックスになるじゃないか」と思ったのでしょう。だから変えてきた。
そしてライトでポップに変えてきました。まあしょうがない。
ネットの感想では「トゥルーマンショー」を思い描く人もいたようです。
ただこの映画と違う所は「フリーガイ」は「苦悩が少ない」と言う所です。
ここに違和感がありますが、たぶんこれも「それじゃあトゥルーマンショーになるだろ?」と言う考えもあったのかな? と思えます。
ただこれが間違いですね。
脚本の本を見て「物語とは簡単に手に入らないものを手に入れる」と言うような事が書いてあり、その通りだと思います。*1
そしてそれには「努力」が必要だと、個人的には思いました。努力もしないで手に入ったら人は感動しないからです。
しかし「努力」とはなにか? がこの映画「フリーガイ」の足りない所で分かりますね。
「努力」とは、「精神的な努力」の事です。
物理的な努力には、客はあまり感動はしない。なぜなら感情しか伝えられないのが映画だからです。
だから「感情に訴えかける努力」が必要です。それが「精神的な努力」です。
そして細かく言えば「苦悩」とか「苦痛」などの事になるのです。
つまりこの映画の主人公、ガイに足りないのは「苦痛」と「苦悩」です。
世界の謎を明かされ、ちょっとは苦悩するがすぐ立ち直る。
まあこれは良いでしょう。さっきも言ったように「トゥルーマンショー」にしたくなかったのかも知れない。
それにこの映画は「ゲームなどの世界も認める」物語です。
だからあまり苦悩しない。「非現実だとか、そんな事大した事ないだろ」というコンセプトだからです。
ガイの友達に聞いた時に「そんな事どうでも良い」というシーンがこれですね。
「例え非現実な世界でも、それに感動したのなら、その感じた感情は本物だじゃないか」と言うメッセージです。ここは「電脳コイル」と同じですね。*2
これはゲームの事ですが、映画だって非現実じゃないですか。だから映画を作る脚本家や監督のメッセージでもあるのでしょう。
だから簡単に立ち直るのはいいのです。
しかしです。それでも苦悩は必要です。
ではどこに苦悩を入れるべきだったのか?
それはもちろん「好きな女を諦める」時です。
最後ガイは急に、しかも簡単に彼女を諦め、現実の他の男が君を思っていると言います。
あまりにも簡単なので、ここで急に「こいつロボットだな」と思えてならない。「人ではない、あくまで人のために作られたロボットなのだな」と客が覚めるのです。
恋愛要素が必要だから、現実のハッカーと彼女が恋に落ち終わるのは、まあいいでしょう。
ならガイは苦しみ苦悩して、その後に彼女の幸せを願うべきですね。
元々「ガイは人がたのAIになった」そこから更に「ガイは人そのものになったのだ」と言う話だったと思います。
そのきっかけが「恋に落ちた」でした。
ならそこから更に「恋に破れる」を経験して「人間の弱さ、醜さ」を知り、その上でそれを乗り越え「彼女の幸せのため、彼女とハッカーをくっつける」と言う行為をすることにより「素晴らしき人になる」という話になった筈です。
苦悩して悲しみながら行動する所を客に見せれば「人になると言う事は、どういう事か?」を客に見せれるし、客の共感を呼ぶ事が出来たでしょう。
その上最後に、恋に破れ悲しみながらはにかむ顔を見せれたら、客は「かわいそうだ。彼が幸せになる続きが見たい」と思わす事が出来た事でしょう。
そうすれば完璧だっと思いますけど、どうでしょうか?
細かく流れを言うと、彼女とあって話しているガイは、彼女がハッカーの事をすぐ話に出す事に気がつく。しかしガイはそれがなんなのかが分からない。彼女自身も自分でそれが何なのか分かっていない。
だからガイが誰かに相談する。あの途中で自我に目覚めた胸の大きい彼女とかに聞く。そうすると「ああガイ。言いにくいのだけどそれは……」と理由を教えてくれる。
それで苦悩をする。
しかしその後のハッカーの気持ちにも気が付き、彼が良いやつなのにも気がつく。
それで自分は身を引き、彼女の幸せのために戦う。
そこにはハッカーと彼女の幸せな未来が待っている。
自分がいない世界での、自分がいない幸せが待っているとしりながら。
と言うのでどうでしょうか?
さて他の事ですが、今言った終りに関係してます。
まずあの最後の銃もいらない楽園。楽園ですか?
皆刺激がない世界が嫌でゲームにいるのです。
つまんない現実でも銃は撃たなくて、ゲームで銃を撃つ。健全じゃないですか? 何が悪いのか?
そこを全否定します。これが間違っていますね。
ただ、まあ現実社会の影響も考え「ゲーム内でも銃はやめよう」と言うのは、百歩譲ったとしても、それでも「刺激がない」のはどうでしょうか? 誰も望んではいない。
例えば、スポーツでも良いのです。カーレースでも良い。何かしらの刺激があってもいいでしょ? なのに何もない非現実なんて意味がない。
「何もない穏やかな日々」をしたいのなら、それは現実に作るべきなのです。現実に作れなくて、非現実でしか「穏やかな日々」を作れないのなら、その方が問題なのです。
だから何かしらの刺激は必要でしょう。そこが間違ってましたね。
設定も古臭い。
ゲームが一つのサーバー上内の事、になっている事などです。
インターネットが世界に繋がっていることや、はやりのブロックチェーンとかNFTもそうですが、一つに中央集権させなくて、グローバルに広がっている世界内の非現実を構築するべきだったのではないでしょうか? この映画のコンセプトとしてね。
もしそうなると、ガイのあり方も少し変わってきます。
つまり一つ閉じられたサーバーの中の世界ではなく、世界中に貼り巡られた電脳世界の住人になるからです。
これは漫画「甲殻機動隊」の素子ですね。もはや閉じられた世界ではないばかりか、義体を通じ現実世界まで現れることさえ出来る。つまりバーチャルを超え、人も超えた種族になる。
この映画ではガイはどこまでも閉じられた世界の中の作られた人であり、人の下の存在でしか無い。それは最後のイメージで語ってますね。デュードとか雑でバカな奴がいる世界が、ガイの世界です。結局はバカにしてますね。
バーチャルを認める内容だった筈なのに、最後どうもバカにしてるように見えてしまう、残念な最後でした。
だから素子のような存在でも良かったと思います。
甲殻機動隊自体がかなり昔の漫画なのに、それすらたどり着いてないのがこの映画でした。古くさ過ぎます。
個人的に途中で思ったのは、最後は彼女を2つに分けるのかな? と思っていました。
現実の彼女と、バーチャルの彼女にです。
バーチャルの彼女は自我を持ち始め、一つの存在になっていき、それがガイと結ばれるのかな? と思っていましたが、違いましたね。
せめてこの位はしても良かったかな? と思いますが「それは2で!」と言うことかも知れませんね。
という訳で2が出たらもっと色々出来るでしょう。
だからもっと弾けてほしいですね。
最後のおまけに、私の個人的な例です。
例えばガイは義体に乗り移れて現実に出てくるとか。
しかし何かの設定により、ガイはゲーム内で死ぬとゲームオーバーになり、復活できない。
現実のハッカーはゲーム内だと死んでもチートで復活できる。しかしもちろん現実で撃たれたりすると死んで終わり。
現実でいくら壊されても復活するガイと、ゲーム内では無敵のハッカーが、逆だと双方死んでしまう。
もはや現実とバーチャルが、どっちがどっちか分からないごちゃまぜで物語を作ってくれないかな?
テーマは「現実も非現実も違うものだが、未来において、どっちも大事な対等な物になって行くだろう」です。
まあ、そんなこった複雑なのは嫌いなのでしょうけどね。