アニメ映画「アリスとテレスのまぼろし工場」、感想です。文句多めです。
何度か言ってるけど、大事なので書いておきます。
「物語とは、コミュニケーションである」という事です。
誰かと話をするとする。
その時、自分の事ばかり話し、相手がつまらなそうでも気にしないのは、コミュニケーション失敗です。
だからと言って、相手にばかり合わせ、自分の言いたい事をまるっきり言わないのも、失敗です。
つまり、バランスです。
どれだけ相手を見て、相手の感じを考え、しかし自分の言いたいことも言う、それがコミュニケーションなのです。
これが、物語の大前提です。
物語とは、誰かに見せるために作るのだから、その「誰か」が大事じゃない訳がないでしょ?
「誰か」が感じられない作家の話は、独り言でしかない。
この映画、スタジオMAPPAが「監督の岡田さんの作りたい世界を追求したい」と思い、頼んだのだそうです。
これに近い話を聞いたことがあります。細田守監督の話です。
プロデューサーか何かが、ずっと使っていた脚本家を外し、細田脚本で作り始めた事に対して言ってた話です。
「細田さん要素100%の作品をみたい」だかなんだか言ってました(ちょっとうろ覚えだが、このような内容だった、という話です)。
そしてその後の細田作品がどうなったのか?
毎回客に「脚本家、戻せよ」と言われる事になるのは、みんな知っての事ですね。
つまり、100%監督が出てくると、駄目だと言うことです。
そしてそれは「アリスとテレスのまぼろし工場」にも、あてはまりました。
監督というものは、始めは力がない。
だからどうしても世に受けるものを作ろうとする。うけないとそこで監督業が終わるからです。
もしくは、信頼もないので、脚本家を置かれるか、原作ありの物をやらされます。
どっちであっても、他人の意見が入るし、客うけを意識した物になる。
でも、だからこそ良い作品になるのです。
宮崎駿、富野由悠季、押井守、みんなそうでしたね。始めの時はうける作品を出せる。
しかしその後、名が売れ、力が付き、自分がやりたい事をやれるようになる。
で、どうなるか? つまらない物を作り始めるのです。
そもそも、これらの個性ある監督は放っといても自分を出してきます。
だから必要なのは、自分を少し封じ、世間受けを考え、バランスを取ることなのです。
狙ったわけではないでしょうが、それでこれらコミュニケーション能力がない人らが、コミュニケーション優れた作品を描けるのです。
もちろん、自分で自制出来て、一人でコミュニケーションの力がある人なら、自分一人でバランスを取れる。
でも、そんな優れた人など、あまりいないのです。
ちなみに、ピンドラの頃のイクニさんは出来てます。だから素晴らしいと言っているのです。
勘違いしている人が多すぎる。
「自分を出すことが、作家性がある作品だ、などと思っている」
「自分を見せることがアーティストだ、と思っている」
どれもただの中二病です。
金がかかり、スポンサーがいて、多くの人が関わり、多くの人を食べさせ、だから最低限は稼げないとやって行けない物語制作で、自分100%を出す人は、ただの馬鹿です。
(芸術作品をやりたいのなら、ただで世に出せばいい。金取っている時点で仕事です。仕事なのに、好きかってやりたいと言うのは、子供のわがままです)
ちなみに「君たちはどう生きるか」は鈴木さんが「元を取れないだろう」と思い、スポンサーもつけなかった。
だからあれはいいのです。自分のお金で全てやり通すのなら構わない。
なので、それが出来ない、ほぼすべてのアニメ制作者は、それでは駄目なのです。
(だから、君たちはどう生きるか、もコミュニケーションは破綻してます。なので今一褒める気にはなれない。宮崎駿のオスカー作品でさえ、完璧ではないと言う事です)
映画の話に戻ります。
この映画、始めから終わりまで、私にはとても鬱陶しい。
始めは「歳をとった私には、学生の頃の楽しい思い出なんか、今やどうでもよく、だから乗れないのだな」と思ってました。
ただ自分が合わないだけだと思っていたのです。
しかし段々「そうでもないな」と思えてきました。
この話、メタ的に「過去の学生時代の思い出に縛られ、そこから抜け出せない人達」の話です。
「過去のバブルの頃の思い出」「田舎の思い出」「学生時代の思い出」など、もう無くなった思い出にいつまでも縛られ、そこから気持ちが抜け出せない、現実の人の心を象徴的に描いていたのです。
最後、そこから子供が抜け出す。あれも「生まれ変わり、新たな自分が現実の世界に戻る」ことの象徴です(産道を抜け、泣いて生まれる赤ちゃんの暗喩でしたね)。
つまりこれも「ビューティフルドリーマー」だったのです。
「ビューティフルドリーマー」は、素晴らしい終わらない毎日、からの脱出でした。
終わらない素晴らしい毎日が、うる星やつらの世界のことだし、オタクの思い描く妄想のアニメ世界の事です。
その素晴らしい妄想世界を描き、最後そこからの脱出を描いたのがあの話です。
ちなみに、ハルヒも同じです。
「アリスとテレス」も同じで、だから学生時代を、しつこく、そして素晴らしく描く。いつまでも続く、終わらない、素晴らしい青春、という事です。
でも、だとしたら、そこからの脱出を描く必要がある。
いや、描いてはいるのだが、中途半端です。夢の世界が残るからです。
もちろん、シンエヴァの最後みたいに描きたかった可能性もある。「妄想の世界からの脱出ではなく、いい感じで現実と妄想の両方、バランスをとって生きていく」としたかったかもしれない。
しかし、これも上手くないのです。
で、気になったのは、
たぶん監督は「みんなのことを描いた」と言うと思うのだが、実際は「自分のことを描いているのだろう」と思われる所です。
この世界「すばらしき学生の青春」から抜け出せないのは、監督の事だと思えてしょうがない。
始め思ったのが「あの歳で学生青春物を、よく描けるな」という事です。
上手いとも言えるのだが、ちょっと怖さがある(ごめんなさい。嘘言いたくないので正直に書きます)。
ここまでいくと、たぶん「いつまでも、学生時代に取り憑かれているのが、監督自身だろう」と思えてきたのです。
この監督、wikiによると、あまり学校に行かなかった人ですね。
だから、抜け出せないのでしょう。素晴らしい学校時代の青春の妄想から、抜け出せないのです。体験してないからです。
抜け出せる人とは?
一つは、素晴らしい青春を送った人。
もしくは、素晴らしくない学校生活を送り、大して面白い物でもないと知っている人。
どっちであっても、体験した人だけが抜け出せる。
前にも言ったけど、ガンダムが素晴らしいのは、アムロには両親がいる所です。しかもあまり良くない両親がいる。
だから親離れが出来る。「逆シャア」では元だとアムロに子供が出来るはずでしたね。スポンサーに止められ実現してませんが。だからアムロは親離れが出来ている。
しかしシャアは違う。彼は素晴らしい親がいて、しかし子供の時に亡くなってしまった。だから親離れが出来ず、いつまでも復習を止めれない。しかも子供も出来ず嫁もいない。親離れが出来てないからです。
もちろん、ガンダムはフィクションです。でもこのへんは正しい描き方でした。
子供の頃に素晴らしい父がいる人は、ファザコンになりやすい。
しかし、父がいないと、かなり年上と結婚したりします。存在しなかった父親の幻想から抜け出せないのです。
明石家さんまも小さい時、母を亡くしている。だからか、大竹しのぶにさえ「女の趣味が悪い」と言われるのでしょう。女に幻想があるからです。
逆に、女兄弟がいる男は、女に幻想がない。男兄弟がいる女も男に幻想がない。どっちも知っているからです。大した事もないのだと。
私は東京生まれなので、地方から来た人に「東京生まれなんて、いいな」と言われることがある。私には兄弟がいるので、兄弟がいない人に「いいな」と言われる。
しかし彼らは、いい東京育ち、いい兄弟を妄想し、言ってるだけです。
底辺の東京育ちより、普通の地方育ちのほうがマシです。だから「五月蝿い」と私はいつも思います。
知らないのが、一番幻想から離れられないのです。
(ちなみに、だからカズはサッカーを止めれない。ワールドカップに行けなかったからです)
たぶんこの監督は、学校に行かなかったから、学校青春ものから逃れられないのでしょう。
私は、面白くもなんとも無かったですが、学校に行ってはいた。だから幻想がないのでしょう。
この映画は「いつまでも続く、昔の学校の妄想から逃げれない人」の話です。
それは、監督の事なのです。
そして100%監督から作ったから、ただの彼女の妄想日記の中に迷い込んだような話なのです。
気持ちを綴った日記です。映画の中にあったのと同じです。
日記は、誰かに見せる物ではない。だからこの映画も「誰か」への意識が低いのでしょう。
なので、コミュニケーションが成立してないのです。
だから、物語としたら失敗です。
気になったのは、あの妄想の世界が壊れてはいないことです。
やはり単純に壊れたほうが良かったと思います。
そして現実の世界に戻ったあの子が、絵でも書き始めた方が良かったと思います。
そうすれば、妄想、つまり作り話を否定はしない、となった気がします。
シンエヴァみたく「妄想と現実のバランスを取る」というより「妄想を壊すことが出来なかった話」に、私には見えてしまいました。
最後、あの世界から抜け出したように見えて、実はまださまよっている気がしてならないのです。
誰が? 監督がです。
最後、あの工場に戻ります。
だいたいは壊れているが、まだ一部、妄想世界を守る工場が残っている。
だから、まだ、さまよっているのです。心がです。
シンエヴァは最後、他人が作り上げた他人の象徴、マリがシンジを連れていきます。現実世界にです。
流石は、庵野さんが死にかけ、何十年もかけてたどり着いた最後です。
そこまではまだたどり着いてない。
まだですよ。
最後、よく見てください。そこではまだ、抜け出せてはいないのです。
実はまだ、工場の中に閉じ込められている子供である事に、気が付きましょう。
3月27日 恒例のちょっと追加
町からいなくなる人は「町が嫌になった人」です。
いい事でもないが、いやになれば出て行けるのも事実です。
それが本当の田舎であっても、アニメ世界であっても同じです。
ただそこに「逃げていく人への肯定感」が見られなかったですね。
つまり監督はこの世界、妄想のアニメ世界、肯定なのです。
妄想に対しての肯定はいい。しかし逃げていく人への肯定感が無いのが気になる。
今回もまた、この監督恒例の、父不在物語です。
父がいないのは、監督に父がいなかったからでしょう。
いないのに、出さないのは、幻想がないのでしょう。
つまり、トラウマが無いし、どうでも良いのです。
無い物に対し、幻想を持ち抜け出せなくなるか、どうでもいい物になるかは、紙一重ですね。
それは、紙一重の状況により変わるものだからです。
(追加、ごめんなさい。少し違うかも? 少女にとったら主人公が父なのか。だとしたらどうでも良くはないかもしれない。では主人公の方の父を出さないのはなぜか? 単純に描き方が分からないからかな?)
無い物の幻想に捕らわれてしまうよりは、どうでもいい方が、その人には幸せだったりします。
しかし、この良くない「何かに捕らわれてしまう」事から、作家性が生まれるのもまた事実です。
だからと言って、その作家性が良いとは限らない。
世の中には、不完全から生まれた少年の叫びの様な物を、美化する傾向がある。
私はそれが嫌いです。
何かに捕らわれ死んでしまった芥川龍之介や太宰治を、美化する傾向がある。
そこに作家性が生まれ、それがどんなに魅力的にみえても、私は決して美化はしない。
作品としてはいい。しかし作家自身や考えや思いがダメなら、ダメなのです。そこは別なのです。
最後に、やはり母と娘というのは、相変わらず良く出来ている。
監督が良く分かっているからですね。
最後の睦美と少女は、母と娘です。
だから、最後は彼女らのお別れで終わる。
睦美は、父は私の物だから、お前は出て行けと言う。
あれは本音であっても、そうじゃ無くても、娘を外に出す言葉です。
子供を独り立ちさせる為、外に放り出す。これも親には必要な事です。
だけど睦美の言葉がね? どうも上手くない。
上手くないのだけど、そこもどこかリアルなんだよね。
何か、監督の精神分析みたくなったのは勘弁です。
分かりずらい物語の作りを理解する為には、最後には作り手の思いが分からないといけないので、そこは勘弁です。