号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

境界線

1983年のアンドレイ・タルコフスキーの映画「ノスタルジア」見ました。

他人の知らない土地の田舎の思いなど聞かされても、眠いだけですね。

国境線がまだ、世界の境界線だった頃の、話です。

 

正直、良く分からないのは言っときます。

絵画の様なので、たぶん絵画風な意味が含めれてはいると思いますが、良く分かりません。

 

山田五郎さんがyoutubeで絵画の説明をしています。

見ても何も感じないし、分からない絵であっても「この木はキリスト教で出て来る何々」とか「この時代のこの地方の影響がある」とか聞いてみると、「なるほど」と言う意味が入っているのが分かります。

ただ、本当にその書かれた時代の、その地方の、その人の置かれた状況が関係しているので、一般人だと分かる訳が無い物です。

その分かる意味が無い物を、分かる気も起きないので、あまり山田さんの動画は見ません。

 

ノスタルジア」もたぶん、そのような物も入っていると思いますが、分からないし、分かる気も起きませんね。

 

ただ、全体的に入っていると分かるのが「キリスト教」と「ソ連」と「故郷」と「死」ですね。これらが強く影響してるのは、間違いが無い。

 

それらに対する私の考えを言う前に、

この映画の演出について書いておきます。

 

この演出をする人っていますよね。

否定はしません。要素要素で使うには効果があり、良いでしょう。

ただ全体的に使う人は嫌いです。幼稚さが見える。

 

人は、小さい頃に好きになる食べ物がある。お菓子とか、唐揚げとか、コーラとか。

そして大人になると良さが分かって来る食べ物もある。納豆、おしんこ、魚、ワサビなどですが、珍味と呼ばれる物もそうです。

だから単純に唐揚げとコーラは子供っぽい食べものであり、大人になって分かる食べ物こそが高貴だと思っている謎の人達がいます。

 

他にも、大人になると分かる物で、お酒と煙草があります。

これもなぜか、大人のたしなみだと思っている、あっぱらぱーがいますが、本当に幼稚です。

お酒も煙草も、別に子供でも分かるし、拒まなければハマる子供もいます。

ただ体や精神に良くないから遠ざけていて、だから大人になるとハマるだけであり、別に「大人の象徴」でも何でもないのに、そう思っている頭の悪い大人が、昔から沢山います。

私は高校生の時、まわりが煙草を持ち歩いていたので、煙草など子供のおもちゃにしか見えない。火のついたおしゃぶりにしか見えません。

外国のニュースで、子供が酒のハマっている映像が昔ありましたが、子供でもハマれるし、何も素晴らしい事が無いのは言う事もないですね。

なのに、大人が摂取している物だから、大人のたしなみだと思っている、物を考えれない人がいるのが、昔から嫌いです。

 

初めに言った、食べ物もそうで、子供の頃好きだったものは、大人になるとダメになるのではないし、大人になれば分かる物の方が素晴らしい物でもない。優劣ではなく、ただ子供が好きか大人が好きか、の違いなだけです。

私は唐揚げもコーラも、子供の頃好きでも何でもなかったのですが、今頃食べて飲むようにまりました。逆に子供の頃あまり接して無かったので(好きでも無かったので)今は新鮮なのでしょう。

ただそうは言っても、未熟な子供だからこそ好きな、味がかなり偏った「駄菓子」があるのも事実です。ただそれと唐揚げやコーラが同じかどうかは考える必要があると言う事です。

 

さて、やっと話が映画に戻ります。

この映画は「なんとなく興味がわく、雰囲気ある映像」と言うのをやっているのでしょう。

これはアクション映画等とは違い、分かるのには時間がかかる。

だから若い監督より、歳いった監督がやれるものであり、だから高貴で高尚だと思っている馬鹿がいるのが嫌いなのです。

これはあくまで「より歳が行くと分かる良い物」でしかなく、それが上でも下でもないと言う事です。

だから、あくまで「映画を面白くする要素」として使うには良いですが、これが高尚だと思っている馬鹿は、これだけで作ろうとする。

その行為がまだ「幼稚」なのだと分かってない人がよくやる事です。

ちょっと分かってきた人がおちいる、中二病だと言う事です。

 

人は普通じゃない要素に引っかかります。

ちょっと意味ありげで、考え事をたどたそしく言っている時などです。

これがスラスラ言っていれば、何も感じない。政治家の演説が何も感じないのと同じで、あれはお経と同じです。それが分かってない人がやっているだけの、効果が無い物です。

逆に、ちょっと引っかかったり、どもったりする方が、人には注意が行くのです。

 

昔コマーシャルで上戸彩が出ていたビールの宣伝覚えてますか? あのCMでやっていた事です。たどたどしくしゃべる方が気が行く。

他にも、ハッとして気が行く事の羅列があのCMでした。

例えばスーパーで何かを品物を取ろうとしたら、横のおばさんがサッとそれを取った時などで、ハッと驚き手を引きおばさんを見る、と言うのを上戸彩はやっていましたね。

あれを実際にスーパーなどで見たら、普通の人は目が行くのです。気になる。その、気になる事を分かっている人が、それを羅列したのが、あのCMでした。

ちなみに、効果があるのは分かりますが、それだけを並べて来るあのCMも幼稚だったので鬱陶しかったですね。製作者の「どや顔」が見えるようで気持ち悪いCMでした。

 

この「ちょっと普通じゃない物に、人は目が行く」と言うのを延々やっているのが「ノスタルジア」です。だから鬱陶しいし幼稚なのです。

段々見ていると分かってきて、通訳の女性が男の元から去ろうとした時、手紙をドアに置いて行こうかとするシーン、覚えてますか? あのシーン見てる時「絶対このまま手紙をただ置いて、女が去ろうとはしない」と分かりましたが、本当にそうでした。

つまり皆が「こうするだろう」と思う行為を、そのまましないで、ちょっとずらすのです。

物語もアイテムも行動もそうですが、そこにあるべきものがあり、まっすぐ歩き、それをやり、不自然さが無くしゃべる、と言う行為は決してしません。

人は本能的に不自然さに気が行くのです。それは危ない予兆だからです。

この映画は、ちょっと目が行く不自然さの、羅列映画でしたね。

 

それの良さや面白さに気が付いたのは良いですが、だからと言ってそれだけをやって来る人は「中二病」であり「幼稚」です。だから鬱陶しい映画でした。

 

もう一回言っておきますが、あくまで「要素として使おう」と言う事です。

ワサビの良さが大人になり分かったら、全てワサビ味にして来たような映画を作ってはいけないと言う事です。

 

さて内容の事です。

監督のアンドレイ・タルコフスキーが、この映画製作の後、ソ連から西側に亡命したようです。

「この事を描いたのがこの映画であり、主人公アンドレイ・ゴルチャコフと自分を重ねているのだろう」と言うのが一般的な解釈なのだそうです。まあ、あっているとは思います。

 

ただ気になるのが、この映画、フェリーニが使っていた脚本家が使われているのだそうです。何かありそうでしょ?

 

主人公がアンドレイ・ゴルチャコフです。

監督と同じアンドレイにみな気が行くようですが、ゴルチャコフには気が行かないのはなぜなのでろうか?

普通に考えれば、ゴルチャコフはゴルバチョフでしょう。

 

水や温泉があり、霧に覆われ、廃墟も出て来る。

これは死後の世界だと思われますね。ソ連の死か? もしくは単純に死後の世界か?

 

ゴルバチョフだとしてら、それに世界を救う運命を預けた男、ドメニコはブレジネフかなあ?

ブレジネフは83年には死んでるので、死後の世界にいると言う事です。

廃墟に住んでいるのは、ソ連はもう廃墟状態だと言いたいのでしょう。

「家族を閉じ込めた」とは、ソ連を世界から閉じ込めた状態にして、それで救おうとしたと言う事かな?

少なくとも、映画などの芸術作品が豊富な西側からみれば、ソ連は閉じこもったように見えますね(ソ連が最先端なら閉じこまったようには見えないでしょうけど、映画等で言えばそうじゃ無かったでしょう)。

 

聖カテリーナが訪れた温泉だと言う事でした。

ブレジネフはエスカリノスラフ県出身だそうです(今のウクライナのドンバス地方の事で、激戦区です。ブレジネフ、生きていたらどう思ったのか?)

Wikiによると、エカチェリーナ2世の頃に作られた地域だそうです。たぶんこの名前、エスカリノスラフ県はエカチェリーナ2世から取ったのだと思えます(たぶん)。

映画に戻ると、カテリーナも来た温泉、とブレジネフが生まれた故郷、エスカリノスラフ県を重ねているのだと思います。

 

Wikiによると、主人公が追っている作曲家サフノフスキーは、ロシアに帰ると濃奴になると分かりながら、帰った人だそうです。

ゴルバチョフもまた、元は農民の子であり、貧しかったようです。

 

亡命したが、祖国ロシアに帰り自殺したサフノフスキーと、この映画の主人公と、監督のタルクフスキーを重ねている、と言うのが、一般の意見です。

私はこれに、ゴルバチョフも重ねていると思うのです。

 

ゴルバチョフに、消えそうな火を保ち、達成して、滅びそうな祖国ソ連(ロシア)を救え、と言っている物語に見えるのです。

 

通訳の女は誰か? これは分からない。

ただ宗教関連なのは間違いがなく、宗教自体などの象徴的存在か? サッチャーなどの実在の人物の事か?

つまりゴルバチョフについて行き「宗教でソ連を立て直す事を願っている、誰かか、何か」の事かな? と思っています。

 

だとすれば、ドメニコ事ブレジネフに蝋燭を貰い、それで救えと言われた主人公に対し怒る理由が分かります。

結局、ゴルバチョフはブレジネフなどから権力を貰い、それでソ連を救おうとしている事に腹を立てて出て行ったのが、宗教関連の象徴的存在である、通訳の女の事かもしれません。

 

最後のシーンは、なんでしょうか?

壊れた教会の元に、田舎がイメージとしてだけ残っているのか?

タルコフスキーにとって、死んだ祖国、無くなった昔、そんな状態だと思えたのが1983年なのかもしれません。

死んだ世界と、生きた現世との境界線、それと同等のように思えたのが、この頃の国境線です。

だから、死の境界線と国境線、両方を描いていたのでしょう。

 

1985年にゴルバチョフは党書記長に就任します。

そのゴルバチョフにて、タルコフスキーは名誉回復を宣言され、祖国に帰る事をゆるされます。

しかし帰ることなく、タルコフスキーは1986年に亡くなってしまうのです。

その後の1988年からソ連の解体が始まり、1991年には分裂する事になるのです。

 

この時代、この感覚、それらを細かく知ってないと、この映画は分かりません。

だから、細かくは分からないと、私は諦めました。

これは「君たちはどう生きるか」と同じですね。あの映画の事が分かる外国人はいないでしょう。

これらの作りがあっているのかは、ちょっと微妙だと思っています。

 

ただ、祖国の話をする為に、祖国を知っている人に対した話、だとすれば、それらの人以外に分からない物語も、あま、狙った通りなのかも知れませんね。

そして「君たちはどう生きるか」もまた、宮崎駿の心の祖国のノスタルジックな思い出と希望の話だった、と言う事でしょう。

 

23年9月1日 追加

 

見切り発車で書くから、必ず書き忘れが出ます。ごめんなさい。

 

キリスト教において、水は清められる物、鍛錬される物、等の意味を持ち、洗礼の時や儀式の時に水を頭にかけるとか、水に浸かるとかするようです。

そもそも聖水と言う物自体があるし、水が特別な意味を持つ事が多いようです。

他にも、水に浸かる事で死を、水から上がる事で復活を表している、等とも言われるようです。

 

だから、温泉が出て来た時点で、死の世界か? 清められる聖なる世界かな? とは思いました。

 

最後、主人公が温泉に行くと、水が無く、だから歩く事が出来、なのでロウソクを端から端へ持って歩くと言う行為が成功したのです。

ドメニコの時は、水があり、それで失敗したのだと思います。

 

主人公がゴルバチョフなら、「今は昔と違い、困難が少なくなっているのだから、今なら成功するだろう」と言う監督の思いでしょう。

 

宗教的には、モーゼみたく水がなくなった事は、神が後押ししている時だ、と言う意味でもあると思います。

 

しかし主人公は水に入りません。なぜか?

それは、その前に廃墟で水に入ってましたね。あれで清められ、鍛錬されたのを表しているのでしょう。

 

最初に行った教会で、主人公は入りませんでした。

あの教会に会ったのが「マドンナ・デル・パルトの聖母画」だそうです。キリストをはらんだマリアの絵です。

つまり、キリストが生まれるのを望んでなかったのが主人公だと言う事です。

キリスト教による、新たな世界の誕生を、拒んだゴルバチョフ」と言う事かと思います。

 

あそこであったシーンが、マリア像(だと思うのだけど)の腹から鳥が飛び出します。

あれが「自由を生む」と言う象徴です。

そしてそれを主人公は拒んだと言う事です。

 

実は妊娠はその後にも出て来ますね。

なぞの女性が妊娠しているシーンです(主人公の妻か?)

ただこれも「新たな世界が生まれる前」と言う事ですし、それがどんな奴かはまだ分からない、と言う事です。

そして「これは、キリストではない」と言う事かとも思います。つまりキリスト教世界の復活では無い、と言う事でしょうか?

もしくは、「また、新たなキリストが生まれる」と言う方かもしれません。

 

幻の田舎のシーンで、皆が振り返ると、太陽が薄っすら見えるシーンがあります。

あれも「新たな世界の夜明けが上る予兆」だと言う事ですし、それを見てるのがゴルバチョフ、と言う事でしょう(幻の妊娠を見てるのもゴルバチョフで、意味は同じです)。

 

面白かったのが、最後ドメニコが演説してる所が、マルクス・アウレリウス像の上なのだそうです。

このアウレリウスは関係がないと思っています。

問題は、やはり、マルクスの方です。

つまり、マルクス主義に乗っかって演説してる(たぶん)ブレジネフ。

言ってる事は意味不明で、聞いてる人も「何言ってるんだ?」と関心もない。

そして、頑張って演説するが、誰にも共感されず死んでしまった事を表しているのかと思います。

つまり「ソ連を不幸にして死んだ奴」と言う、タルコフスキーの嫌味でしょう(だからこそ、亡命したのですから)。

 

この事からも、ダジャレ的に名前を使っているのが分かります。

だから主人公がゴルバチョフなのです。

 

最後のシーンは、教会でしょうけど、朽ちた教会です。

あれは教会はもう朽ちて力がない、と言う事でしょうか?

それは宗教自体の力が亡くなった事の文句か? もしくはロシア正教への文句でしょう。

今現在は、ロシア正教プーチンとべったりなようなので、その当時から問題が多かったのかもしれませんね。

だとしたら、最後のシーンは朽ちた教会、その下で死んだ故郷の思い出、と言う事かと思います。

 

さて、宗教自体に嫌気がさしたのか?

もしくは、その頃のロシア正教か、カトリックに文句があるのか?

は分かりません。

「天上桟敷の人々」のように、正義をうたっているのに、世界を救おうとしないキリスト教に文句があったのかもしれません。

だからカトリックの大本、イタリアでの撮影だったのかもしれませんね。