号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

論理的思考

論理的思考(ロジカルシンキング

について考えてみました。 

 

確か、MSNで論理的思考問題という本の宣伝があり、アマゾンで売っているので買おうかと、今も悩んでいる。

それはともかく、そこから「論理的思考」とはなにか? と改めて考えたら、結構面白かったので、まとめようと思った次第です。

 

まず「論理」とは?

「議論などを勧めていく時の筋道」とか「思考の法則」などと辞書では出てくるようです。

たぶん「AだからBになる」という「因果関係がはっきりした物」のことだと思います。

数学とか科学とか、決まった物ではなく、「実際の社会にある事象」で言うと、「人をナイフで刺せば死ぬ」というような事です。

 

数学を省くのは、数学の論理は理論で決まっているからです。

そもそも、決まっている物で作られているのが数学だからです。

つまり「決まっているように人によって作られたもの」が数学だからです。

 

科学を省くのは「科学なら、ほぼ、同じ結果になる」からです。

(ほぼ、というのは、調べるにも絶対的な精度があるので、ほぼ同じになっている事しかわからないからです)

 

別に、決まっている答えに問題があるのではなく、今回言いたい事が「実際の社会で起きることの論理的思考問題」の事だからです。

 

逆に言うと、「実際の社会に起きる事象の事」では「絶対的な答えはない」という事です。つまり100%の答えはない。

 

なので今回は「実際の社会で起きる問題」で使う「論理的思考問題」の話です。

 

「実際の社会で起きる問題」とは「売上を上げよう」とか「どういう商売が今後流行るか」とか「どの道を行けば安全か」など、世にあるほとんどの問題の事です。

これら「科学的に計れ、ほぼ同じ結果が毎回だせる問題では、無い物」が、世の問題のほとんどです。

だから今回はこの、絶対的な答えなど出ない「論理的問題」の事を話します。

 

論理的に考える時に大事なのは、元になる「法則」や「実状からの経験」や「考えつく因果関係」が大事になります。

この「元になる法則」を元に、同じような事象の時に重ね、考える事により、その結果を予測するからです。

もしくは、元になる法則から逆算して、原因を突き止めたりします。

 

株を買うときなどはデータを見て「こういう時は上がる」と考えると思います。

これは元になるデータから「多くはこのデータの動きから、上がる可能性が高い」と判断しているのです。

だから「大体あたっているだろう」と思える(つまり実際によく起きた)「昔あった情報」から判断して、その結果を予測してるのです。

 

「人をナイフで刺すと死ぬ」とか「六階から飛び降りれば死ぬ」とか「人が徒歩で10秒後に100メーター先にはいけない」などと言うのも同じです。

過去の経験や情報から「大体あたっている」と「知っている」という物が「元になる法則」である事が多いのです。

 

この「大体あたっているだろう」という情報は「常識」と言うものです。

だから私は「常識が大事だ」といつも言っています。

 

殺人事件で、ナイフで人を刺した人がいて「だから殺そうとしたのだろう」と言っても、「いや、人を刺しても死ぬとは限らないし、死ぬとは思っていなかった」と言う人がいます。

こう言う人と話しても無駄です。常識が無いか、常識を認めない人だからです。

そして、ほぼ全ての常識は、裏をとってはいないからです。

「実際刺した事があるのですか? 論文を見せてください」などという人がいます。でもほとんどの常識を実験して試した人も、論文を探せる人もいないのが現実です。

これは殺人事件だけど、もっと身近で「10万円のラーメンを売ろう」という人に「高くて売れないだろう」といった時に同じことを言う人がいる。「売ったことがあるのですか? 論文はどこですか?」と。

他にも「10秒後に出発の、100メーター離れた駅の電車は間に合わない」ということにも「やった事があるのですか?」という人がいる。

こういう常識問題を全て試した人もいないし、その全てにおいて論文を探せる人はいない。

だからどうしても「常識」という、多くが思っている基本要素を共通で知っているのが、話し合うことの前提になるのです。

 

では「常識を知っている私」は正しいのか?

まず自分は常識だと思っているが、それが違う時があるので注意です。

年寄りが「若者にはこんな物が売れるだろう」と思っても、外れることが結構あるでしょう。「男」が「女物」を売る時や、「日本人」が「外国人」に売る時なども同じです。

 

ではそれが常識なのはあってるとして、その内容自体が、どこでも、いつでも、常識だとも限らない。

キリスト教徒が多い国だと、キリスト教の教えが正しい事(常識である時)が多いでしょう。

でも他の宗教徒が多い国だと、同じ事でも、常識から外れることになるのです。

 

「論理的思考」とは「前提になる元の法則」が必要で、その多くは「常識」が担うことになる。

しかし、その常識自体が、論理的思考の「前提」になるので、逆に論理的思考から前提を定めることは出来ないか、難しい。

つまり、論理的思考を駆使しても、そもそもその「前提の法則」、「常識」が違えば、話にはならないのです。

あくまで前提の法則(多くの場合、常識)があっている事が前提であり、それが間違っていたら、論理的に考えた所で当たることは無いのです。

 

他人と話をする時「1+1=2」だと自分が言っても、あいては「1+1=3」だと言う人とは、どこまで行っても話が合わないのです。

だから常識がない人とは、私は話しません。

 

さっきも言ったように、だからといって「自分の常識の方が正しい」とは限らない。

ただ、自分の常識が正しくても、相手の常識が正しくても、どっちであっても話が通じないことには変わりはないので、話すだけ無駄なのです。

 

そもそも反論する人に多いのが「それは絶対じゃないだろ? だから間違っている」という人です。

つまり「100%あってない」=「間違っている」と思っている人が多すぎます。

これは学校教育の弊害です。世の中には100%のものなど無く、その上で考えていくことを教えてこなかった事の、この国の教育の間違いです。

科学でない多くの問題は確率の問題なのです。絶対ではなく確率から判断する問題なのです。

 

ただ面白いことに量子論が出てきて、確率で考えるのが流行ってきた事です。

科学すらも確率で考える事が、一般化して来ましたね。それを頭に浮かべましょう。

 

例えば「食べ物屋をするとしたら、何屋が流行るか?」と考え、更に「ならどこに店を出す必要があるか?」と考え、更に「その規模はどうしようか?」と考える。

「何屋が流行るか?」がまず間違っているかもしれない。それはどこまで行っても外れる時ある。

でも大体当たりそうだと思い、やってみようとする。

では渋谷に出すか? 六本木か? 田舎のロードウェイか? と考える。

まず売れそうだと思うが、100%ではない。ならお金をかけて試すのはもったいないと思う。なら家賃が高い所は避けて、一度試そうと思う。

更に、それでもまだ確率が低いのだから、規模を大きくしても意味がない。だから「小規模でやろう」と思う。

これが始めから確率が高いのなら「他店より先立って目立つ都心に出すか」というのもあるし「これは世間に受ける」と分かれば、始めから大きな店を出してもいい。

全ては、始めの「何屋をやるか?」の時の「当たる確率」と「どの程度流行るか?」の確率を吟味して考える必要があるのです。

すなわち「当たるか?」「外れるか?」問題ではなく、「どの程度の確率なのか?」を弾き出す必要がある。

 

これは、実際の社会にある全ての問題を、論理的に考える時の大前提です。

100%の事などまずなく、その可能性から変わる状態を頭に入れて、今後の行動をする必要があるのです。

 

ロジカルシンキング(論理的思考)が昔に流行りました。

そのせいか、逆に「デメリット」も多く知れ渡っているようです。

(今回ネットで「ロジカルシンキング デメリット」などと検索したら、かなり面白かったですね。メリットよりずっと面白いので、よかったら自分で検索してください)

デメリットに関する事を書きます。

 

論理的思考をするには、まず物事を「単純化」します。

本当は多くに原因から結果が出るが、全てを予測も観測もできないので、分かる範囲で単純化するのです。

「あの人は、こういう時に、こう行動するだろう」とか「こんな色の服が流行るだろう」などの事です。

もちろん実際は分からない。だから確率になる。

「この人は80%でこう行動をする」とか「青が30%、緑が40%売れるだろう」などの事です。

そして、そもそもこの確率だって、大体は裏を取れないことが多い。「そうだろうと勝手に自分が予測する可能性」でしかない時が多いのです。

もちろん裏を取るときもある。売れる色などは、前もって大体知べる事も出来る。

しかし人の行動や、国の行動などは、大体無理です。

だから外れる可能性が、結構あるのです。

 

「単純化して、それを元に論理的に考える」とは「シミュレートする」という事です。

「シミュレートする」という言葉自体で、そもそも「当たらない可能性もあるよな?」と感じませんか?

純化してシミュレートした時点で、元の多くの情報は失われている。

だから決して100%にはならないのです。

 

さっきも言ったように、前提条件が大体「常識」だといいました。

それは「自分が知っている世界の中の情報」が前提だという事です。

だから自分の知識、経験、などが浅いと、狭い世界からの限られた情報を前提にするので、外れることが多くなるのです。

何度も使って悪いけど、芸能人のパックンがトランプが大統領になった時の言葉が印象的でした。彼はトランプが大統領にならないと言っていたらしく、外れてみんなに誤っていました。その時「周りが誰もトランプに入れないと言ってた」と言ってたのが印象的でした。

たぶん今まではそれであっていたのでしょう。彼の周りの割合で、大体大統領選挙の結果が分かったのでしょう。

しかしトランプの時は違った。彼らのコミュニティーと、他のコミュニティーで大きく押す大統領が違う、珍しい選挙だったのでしょう。

でも、トランプの時は、学識のある人達でない人が多く押すのは、予測出来たはずです。学のあるパックンの周りも同じような人の集まりなのだろうから、トランプの時は違うと気がつくべきでしたね。

パックンは自分の経験を元に、論理的に考え、予測したのです。だから論理的思考を使った、とも言える。

しかし間違えた。

それは「元になる情報が狭い世界の情報だった」のと「元の情報の性質を理解してなかった」事で起こった間違いです。

 

つまり、「論理的思考で考えても、元の情報が間違っていたら正解はない」

「元の情報の内容があっていても、今回でも同じなるか考えて置かないと、間違える」

という事です。

それにさっき言ったように、元になる情報が、そもそも100%であってはいない。

などの事から「外れる可能性がある」と、いつも思ってないといけません。

 

この事を考えず、「必ず当たると思ってしまう人がいることが、ロジカルシンキングの問題点だ」とネットで言っている人がいます。

いや、そもそも「100%は当たらない」と思ってない事自体が、論理的に考えられて無いのです。

つまり「ロジカルシンキングの問題点」ではなく、論理的思考が出来てないだけです。

 

岡田斗司夫さんなどは「論理的思考などあまり役に立たない」と思っているようです。

私は「意味はある」と思っています。

ただ「あまり」役に立たないと言われれば、そうかも知れませんが。

 

山道が二手に分かれていたとして「どっちの道が安全か?」と思ったとする。

論理的に考え無ければ、ランダムです。2分の1で正解です。

でもみんな普通は考えるでしょ? 道の遠くを見て「こっちのほうが安全そうだ」と無意識のうちでも考えます。

なぜみんな考えるのか? それは人生経験から、考えたほうが当たる可能性が高まるのを知っているからです。

すなわり、考えれば50%が60%になったりして、可能性が高まるのです。だから考える。

他にも「どの会社に入ろう?」とか「どの人と結婚しよう?」とか「どこに住もう?」などと考える。これらをサイコロで決めたりはしない。

その行動は、すでに論理的思考です。

そしてそれは、可能性が高まることを知っているからするのです。

だから意味があるのです。

 

ではなぜ意味がないと思ってしまうのか?

それは、人生で回数が少ないものだと、利点が分からないからでしょう。

人生で一回しか無いものだと、50%が60%に上がったとしても、気がつく人はいない(もっと極端に、10%しか当たらない物だと、考えても12%にしか上がらない、などと言う事も普通にあります)。

だから、あくまで数多く論理的思考を使う時に、結果として差に気がつくのです。

差に気が付かなくても、可能性に違いが出てるのだから、考えたほうがいいというのが私の意見です。

 

ただ、詐欺や勝負事などで、わざとロジカルシンキングを逆手に取る事もあるので、注意です。

普通の人はこう考えると言う事を逆手に取り、論理的に考えたら間違えるように仕向けるのが詐欺であり、勝負事(スポーツとか)です。

 

ちなみに、自然界でも逆に見える時もありますが、それは無視していいでしょう。

「道が二手の分かれていて、たまたま自然に、安全に見える道の方が危険だった」という事は、たまにあります。

しかし自然に出来たことなら「危険な方が安全に見える」事と「安全な方がより安全に見える」事も、同じ確率で発生するのだから、気にしても無駄です。

ただ「たまたま違うように見える事がある」事は頭に入れておいたほうがいいと思いますが、これは論理的に「たまたま違うように見える事も、たまに発生する」と知っていればいいだけのことだと思います。

つまりこれも「安全に見える道が、安全である確率は、70%位だろう」などと知っていて、判断する事が大事なのです(これも同じような経験を積めば、常識が増え、確率が上がるのは分かると思います)。

 

面白いことがネットで書いてあって「考えず、行動したほうが良い時がある」という事です。

「取り返しが付き、考えても確率があまり上がらないのなら、行動したほうがいい」というのです。その通りですね。

これは「考えた労力や時間のマイナス点と、行動した時に失敗した時の可能性とマイナス点を比べて、考えろ」という事です。

ちなみに、これすらも論理的思考であるので、これが出来てない人も論理的思考が出来てないだけの話です。

 

ちなみに、私は優柔不断で、子供の時、食べ物屋のメニューとかすぐ決めれない人でした。

なぜなら、どう考えても最適解が浮かばないからですが、今思えば最適解など分からないのが正解でしたね。

ある時、その考えるマイナス点よりも、パッと決めてしまって失敗するマイナス点の方が少ないと気が付き、今はあまり考えないでメニューを決めるようになりました。

この事ですね。

 

論理的に考えるとは「元になる情報と照らし合わせる」と言いました(元になる情報からの法則、と言っても良いけど、長いので短く言っておきます)。

だから元が無いものには通用しない。それが論理的思考(ロジカルシンキング)の弱点だ、とネットで書いてあります。そうだと思います。

つまり、新しいことには対処が出来ない。

それと同時に新しいものを作る時には、あまり役に立たない。という事です。

ただまるっきり意味がないわけではない。

なにか新しい物を作る為のやり方の参考にはなる時がある。

 

漫画家の山田玲司さんがよく言ってるのが、「漫画家になりたければ、自分の周りの事をまずかけ」という事です。

「自分が知っている世界のことをまずかけ」という事であり、自分がやってきた仕事、趣味、知っている世界、土地などをかけとう事です。

知っているから細かくかけるし、その内容も、そこから生まれる感情も描けるし、趣味などでは情熱がそもそも入っているから、情熱を込めて描けるからです。

このように、新たな物を生み出しやすい事を、論理的に考える事は出来ます。

まあ、あくまで「より生まれやすくする」という程度ではありますが。

 

新しい事は無理だと言いましたが、まるっきり新しい事などほぼない。

だから、もっと細かく根本的な物まで分解すれば、考える事は出来る。プーチンウクライナ侵攻の事などです。

考えなければ0%です。

しかし考えれば可能性が出て来ます。それがたとえ10%であっても、可能性が出てきたら、その対処法も考えられるのです。

それら、新しく可能性が低い正解しか分からなくても、それが大事な事なら考え予測する事が必要だと思います。

 

そもそも論もあります。

「論理的に答えを出そうとしてるが、そもそも、その答えを出す事自体があっているのか?」という事です。

例えば「この詐欺をどうやったら成功させれるか?」とロジカルシンキングで考えたとする。

しかし「そもそも、詐欺以外のもっと儲かり安全な犯罪があるのではないのか?」と思う。

しかし「そもそも、犯罪以外の金儲けのほうがいいのでは無いのか?」と思う。

しかし「そもそも、なんでお金がほしいのか? そうか、家族の為だ」と気がつく。

しかし「そもそも、家族を幸せにするのにお金が必要か?」と思う。

しかし「そもそも、家族の幸せがなんでいるのか? そうか、それが俺の幸せだからだ」と気がつく。

しかし「俺の幸せに家族は必要か?」と考える。

などの事です。

「そもそも、その問題提示自体があっているのか?」と考えよう、と言うことです。

 

 

さて、まとめです。

 

論理的思考(ロジカルシンキング)は、元になる情報と照らし合わせて考える、シミュレーションである。

科学的な答えがはっきり出るもの以外は、元になる情報の正確性は疑わしい。「男は青色を好む」などの事です。

そもそも元になる情報の、全ての裏を取ることは出来ない。

だから人の常識に訴える事が多くなり、その一人一人個人の常識というのも怪しい。

論理的に考えるために、人が理解出来る形に物事を単純化する。なので精度も落ちる。

つまり100%の一個の答えが出る事などない。

 

完璧な元になる情報からの法則や、考えるべき事象が、100%正確ではないが、そもそも、それらも確率で考えるべきである。

Aになるのが50%、Bが30%、Cが20%などと。

その計算からだと、答えも何種類もでるし、それぞれ確率も違う。

それぞれのリスクも、それぞれ違う。

どれになったとしても、それのリスクも含め「それでも、行動する価値がるのか?」を考える。

 

そもそも、その問い自体も、間違ってないのか? と答えを出す問題自体もあってるか考える。

 

しかし、大体は考える方が可能性が上がるのだから、考える事自体は無駄ではない事の方が多い。

 

 

実際の社会問題の時の「論理的思考」など、ある確率を出すものでしか無い。

そういう性質なのだと理解して、使用しましょう。