yahooニュースで、ひろゆきさんの話が最近はよくのっています。
その中で読解力の事を言っていた文がありましたので、個人的に思った事を書きます。
ちょっと前に、youtubeの岡田斗司夫さんの切り抜き動画で「バカの壁は存在するのか?」と言うのを見ました。
この時も読解力の事を言っていて、そこで一回引っかかっていたのですが、ひろゆきさんのも出て来たので、まとめようと思った次第です。
ただ岡田斗司夫さんが言いたかった事は、読解力の方ではなく「バカの壁」と「鈍感の壁」があると言う事を言いたかったようです。
論理的に考える事が出来るが、相手の感情を理解できない人は、論理的に考えれない人を見た時に「バカの壁」が見える。
感情的には理解できるが論理的に考えれない人は、論理的にだけ考える人を見た時「鈍感の壁」が見える。
と言う事を、岡田さんは言いたいようです。
私も概ねそうだとは思います。
人の行動や考えは「論理的に考える事」と「相手の感情を読み取る」事の両方が必要です。
片方しか見えてないと言う事は、人と言う物の半分しか見えてないと言う事です。
ほとんどの人は、論理的な考えより、感情の方が強いです。
だから論理的ではない行動に走ります。
飲み過ぎたり、食べ過ぎたり、夜遊びしたり、浮気したり、犯罪を犯したりします。
それをやり、後で後悔した人は論理的より感情的に走ったと言う事です。
後で後悔しない人に対しても、本人は気が付いてないが、「それをしない方が幸せなのにな」と他人の方が気が付く事もありますね。
ただ本人は認めないでしょうけどね。「自分はその結果がどうなろうとかまわないからやったのだ」と言い切る事でしょう。
だけど、そもそも論理的に考えれない人の言葉なんてあてには出来ないのだから、本人が「かまわない」と言った所で、何も意味が無い言葉ですけどね。
感情がある人相手の事だと、感情を考慮する事が大事です。
例えば「犯罪を犯す奴が悪いのだ」等と言ってても犯罪は減らない。犯罪者の気持も考えて減らそうとするべきですね。
別に「犯罪者にも優しく」と言う事ではなく「自分らの為にも相手の感情を理解しよう」と言う事です。
岡田さん言ってる事で面白いのは「そもそも理解出来な人は元々いたのだが、スマフォなどでのツールでやりやすくなって来て、文を書く人が表に出て来たから、読解力が無いのが他人に分かりやすくなっただけ」みたいな事(も)言ってた事です。そうだと思います。
そもそも他人の話など理解できない人、話が通じない人、なんて昔から多くいるのです。
それが今は文字で読み、文字で見せるツールが流行ったので、その理解できない人が表に浮かび上がってきただけの気がします。
「みたいな事(も)」と、(も)を強調したのは意味があります。
岡田さんは、そうは言っても「文字で理解できない年齢の層がある」と言うような事も言ってます。
つまり「若い世代は文字で感情は伝えるが、その代わり読解力が無い人が増えている」とも思っているようです。
これはあってるかは私には分かりません。
もしかしたら増えてる事はあってるかもしれないのと、さっき言った様に元々理解できない層が文字で伝える文化に入って来たのかは、どちらかは分からないからです。
岡田さんのこの辺の話の問題点は「日本人の読解力が低くなっている」と言う質問に対しての答えとして、この「バカと鈍感の壁」の話をしていた事です。
辞書を見ると、読解力とは読んで文の内容を理解する事だそうです。
しかし岡田さんが言ってる事は、理解力の方ですね。似てるけど違う。
ただ岡田さんの言いたい事は分かる。読解力とは、理解力の読むバージョンでしかないので、大事なのは理解力の方だと思い、理解力の事を言ったのだと思います。私もそう思います。
だから岡田さんは「国語力」つまり「読解力」を鍛えるのは難しい、と言います。その逆もあり、低くする事も難しいと言います。
これが単純な読む能力の事なら勉強すれば(努力すれば)上がる筈ですが、そもそもが理解力の事なので、勉強の仕方が普通の学校教育の物とは違うので、難しいのです。
理解力は、学校教育の様に覚える事では難しく、自分で考える事自体を鍛える必要があるので、違うやり方が必要だと言う事です。
細かく言うと「理解力」と「読む能力」の両方が合わさったのが「読解力」です。
だから「本を読め」と言うのは間違いでもない。
ただそれ(でだけ)で鍛えられているのは「単純に読む力」の方です。
読書でのみ鍛えられるのは、「読む力」だけだと言う事です。
ここで(でだけ)と言ったのも意味があります。
本を読めば(単純に読む力だけではなく)、考える力が付きやすいのも事実だからです。
ただこれは似てるから間違いやすいけど、本でなくても良いのです。
つまりテレビなどの映像物でドキュメンタリーで見てもかまわない。
それを見ながら考えれば同じです。それに見終わった後も考える事で、更に本に近づきます。
「近づく」と言ったのは、やはり本だと止まり止まり読めるので、考えるのに適してます。逆に映像だと流れて行ってしまうので、気を付けないと考える余裕がないまま終わってしまう。
だから本の方が適しているのは間違いがないが、適しているだけです。映像でも他人の話であっても、それを考える事の方が、本当に大事な事なのです。
だから「本を読め」と言うひろゆきさんのコメントは、間違ってないけど、そのやる内容を理解してるのかな? と言うのが私の感想です。
「読解力」で必要なのは「理解力」です。
それを得る為には「本を読む」のが適しているのは間違いがない。
しかし大事なのは「本を読む」事ではなく「日々なんでも考える事」です。
似ているけど、はき違えてはいけない。
「考えないで本を読む人」も多いからです。ただ読んで分かった気になっている人が多いのです。
この事を堀江さんも言ってましたね。「本を読んでいるけど、内容を理解している人は少ない」と言う事をです。そうだと思います。皆さんは気を付けましょう。
ちなみに私は若い頃はほとんど本は読んでません。
若い頃は勉強する気もないので知識もないけど、理解力はあったと思います。
それは日々考えて来たからです。
(ひろゆきさんも岡田さんも堀江さんも、本を読んで育った事でしょう。だから分からないのだろうけど、私は読んで来なかったので分かるのです。読解力に必要なのは読書よりも理解力を付ける事だ、と言う事がです。ちなみに、小さい頃からちゃんと本を読んでいるこの人らの方が、生き方としたら正解だとは言っておきます)
それには考える元のネタが必要です。
それは日々の生活の中での事でも良いのですが、得られる情報の幅に限界があります。
そこで思い起こしてみると、意外と良かったと思えたのが「テレビ」です。
逆に今の様に、ネットで見たい物だけをいくらでも見れる世の中の方が心配です。
「テレビ」も見たい物を見るけど限界が近いですね。だからあまり見たくない物も見る。
そんな暇あったら勉強するか他の事をしろ、という人がいますが、まあそうですね。
でも今思うと意外と無駄では無かった気がします。これも「ほどほどなら」と言う事なので、見たくもないテレビばかり見てるのも間違っていますけどね。
私は今や「テレビ」はほぼ見ないけど、大人より子供の方が「テレビ」を見る価値があると思っています。意外と侮れないですよ。
ただそれも「考えるネタ」としてとらえ、日々考える事が大事です。
日々考える事でしか、鍛えられないのです。