号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

レゴだとしても価値はある。

Youtube岡田斗司夫さんの切り抜き動画が出てます。

その中で「論理はレゴだ」と言うのが出てました。この事を書きます。

 

目の付け所は流石ですね。他人が言わない問題点を追求する所も流石です。

岡田さんが言うには「論理はレゴの様な物だ」と言います。このレゴで表す比喩も良く出来ています。

 

この事に対し、私の考えも含めながら言います。

論理的に考える為には、物事を人が頭で理解できる形にする必要があります。

これは複雑な物を単純化にするようなものです。

つまりまずは複数の物をまとめる。

しかも人が頭で分かる形にまとめるので「四角くブロック化」するようなものです。

「ブロック化」の事を岡田さんはレゴで表します。まあブロックなのでレゴと言うのはそのままなので、分かりやすい訳です。

 

岡田さんは「レゴで作った車はどこまで行っても本当の車にはならない」と言います。もちろんそうです。

例えば、家の地下の車の駐車場で高さが低い時に、レゴで作った車を作り、それで車庫に入るかシミュレートするとする。

「レゴだとギリギリ入るけど、リアルな車で試したら入り口で天井に少しすった」なんて事もある事でしょう。「逆にレゴだと入らない」場合もあるでしょう。

つまり似てるけど本物ではないと言う事です。当たり前ですね。

そこでレゴを細かくして数を増やし、それで車を作れば元の車に似てくる。似てきたらシミュレーションの性能が上がる事でしょう。

ただ結局似て来るだけであり、車その物にはならない。それこそ分子の大きさ位にレゴを小さくしないと、ほぼ完ぺきなシミュレートは出来ない。そうは言っても、分子の大きさは無理なので、ギリギリまで小さくする。それでもレゴは膨大な数になり、とても現実的ではないと言う事です。

ちなみに逆に単純化していくとどうなるか? 最後は一個の四角いレゴで「これは車だ」と言う事になる。これだと駐車場に入るのか? のシミュレーションだと「雑だな」とやらないでも分かるでしょう。もちろんそれでもやらないよりは意味がありますが。

 

これはつまり、精度の問題ですね。

細かくすれば精度は上がる、けど限界がある。

論理的に考える事と言うのは、人が頭で理解できるレベルの複雑さにする必要がある。

だからかなり単純化しないと頭で理解できないので、かなり大雑把なシミュレートになるだろう、と言う事です。

だから岡田さんは「どこまで行っても単純化したシミュレートなので、正確ではない。なので結果は結構はずれるから、注意が必要」だと言いたいのでしょう。その通りだと思います。

 

人の脳の中身など複雑で誰にも分からない。

だから人の行動など誰にも完璧な予測は出来ないのです。

だから人が一人係わってきた問題だけで、外れる可能性がかなり上がる事は意識して置くべきです。

例えば一人暮らしをしたい大学生が、親に「していいか?」を聞く場合。

夜に聞いたら「ダメだ」と言われたが、朝に聞いたら「良い」と言われる、なんて事もありますよね?

親が「夜に見たドラマの事を寝る前に考えていたら、子供を独り立ちさせるためには一人暮らしが良いだろうと思えてきた」なんて事もあるでしょう。

一人の単純な決定でも、時間によってさえ変わるのだから、人の動きまで含めた完璧な予測など無理で、だから論理的に考えた所で当てるのは難しいのです。

 

物事もそうです。例えば山道で道が二つに分かれている。天候が怪しく、小雨が降ってきた。道に迷いどっちの道が行きたい方向かは分からない。ではどっちに行くべきか?

右は山の上の方に向かっている。上の方は道の横が崖なので、雨が降り土砂崩れがあったらいやだな、と思う。

左の道は下に行ってるが、遠くを見るとどうやら川を越えている。橋は無い。しかし水がちょろちょろ流れる程度なので、渡れそうだ。しかし雨で増水してつく頃には危ないかもしれない。さてどうするか?

結局、車の通ったタイヤ跡が左にしか行ってないと気付く。なら右の道は危ないか、行き止まりかもしれないので、左に行こうと決める。

これは論理的に考えた事です。

では左に行けば必ず正解か? と言うと、もちろん違う。

もし左の道が安全さで言うと正解であってても、左に行けば小石につまずき怪我をする時もある。しかし右だと険しいけど頂上まで怪我無く付ける、場合もある。

小石につまずく未来など誰にも分からない。小石さえも含めた複雑な現実を理解して考える事など出来ない。

現実の複雑さは誰にもシミュレート出来ない、と言う事です。

 

では確実性がないから意味が無いのか? と言うと、もちろん違う。

論理的に考えなければ、道が二つに分かれていて正解が一つある場合、正解を選ぶ可能性は50%です。つまりランダムですね。

しかし論理的に考えれば可能性があがります。60%とか70%に出来る。だから意味はあるのです。

 

多くの人の勘違いとして、100%の答えがあると思っている時点で間違っていますが、これは勉強とテストとゲームの弊害ですね。なんでも確かな答えがあると教えている教育の間違いです。

全ての物や事で100%の物など無い。どの問題を考えてみても、何処まで行っても可能性を上げるだけしかないのは、理解しておきましょう。

(そう言うと「1+1は2だろ」と言う人がいますが、これだって100%ではない。ただ限りなく100%に近いだけです。これは精度の問題です。あっている可能性の小数点一の位を四捨五入するか? 小数点二をするか? 等の問題です。1+1は2、ではかなり小数点以下を下がって行って四捨五入しても100%になるので、100パーセントと思ってかまわないだけです。まあこれが外れる状態はもはやSFに思える時だろうから無視しても結構、と言う事でもあります)

 

それに、例えば明らかに右の道が危ないのが分かる時もあります。右は細く険しく滑りそうで端が崩れかけている道で、左がしっかりしてる道なら皆左に行く事でしょう。

この「誰が見ても明らかに左の道が正解」だとしても、その時左を選ぶと言う事は、論理的に考えている証拠です。

実は、人はいつも論理的に考えているのです。

あとはそれで、複雑に考えようとしているか? もっと単純な物しか論理的に考えて無いのか? の違いでしかないのです。

 

岡田さんが言ってるのは「100%ではないので注意しろ」と言う事ですし「世の中は複雑なので、結構はずれるよ」と言う事です。

別に意味が無いとは言ってません。だからよく話を聞いて下さい。

 

ちなみにですが、この事でYoutubeの皆のコメントで、ひろゆきさんの事を言ってる人が結構いましたね。

ひろゆきさん自信は、この事は分かっているでしょう。だから自分で「相談が来て文では分からない所は、勝手にこうだと決めつけて答えを出しているだけだ」と前に言ってましたね。

それに彼が上手いのは酒を飲みながらやってる所です。

だから初めから「その程度の事だ」と暗に言っているのです。だから嘘にならない。

彼は始めから外れている可能性を知っていて、しかも嘘にならない様に、酒を飲んでいる奴がただの文章からの相談の答えを言ってるだけだ、と映像で伝えているのです。

だから、ひろゆきさんの答えの事を今更どうのこうのと言ってる人に、私が言いたい事は「いや、そもそも鵜呑みにしてはいけないだろう」と言う事ですし「参考程度にしましょう」と言う事です。

 

さて、岡田さんのネット動画の方では、この時より更に数年前に岡田さんが言った事も同時にのせてました。その言ってた事に対しての反論です。

「大人は電車は線路に沿って走るのが面白いと思う」「子供にとっては電車は線路に沿ってなくてもよく、空を飛んでもいいし、その方が面白い」と言ってましたね。

これは論理的に考えれているのか? の問題よりは、常識の問題です。

つまり論理的に考える時には、常識が必要だと言う事でもあります。

論理的に考える前の段階の、常識が無いのが子供です。

大人は常識に沿って無い事など、考えても意味が無いと分かっているので、面白くはないのです。

例えばサッカーでたまにボールを手で取って、友達にぶつける事をしても大人はつまらないのです。逆に限られた事しか出来ないルールの中で、何かをなり遂げる価値(感情的な価値も含め)が分かっているから、それを面白いと思うのです。

子供はルールに沿った事をする事の価値や面白さが分かってないので、どうでも良いのです。価値や面白さを知らないのは知識が無いからであり、つまり常識が無いのです。

つまりこの例で「論理的に考えない方が面白い」と言う例えだとしたら、間違っています。

子供は論理的に考えない事が面白いのでは無く、ただ常識が無いのです。

常識がない世界だったら、サッカーでボールを手で持って友達に投げつけるのも面白いでしょうね。

 

この時に「論理的に考えるのが嫌いなので、感覚的に行動したい」みたいな質問がありました。

大人なのに論理的に考えない方が良いと思う人は、考えるとつかれるからです。そしてカロリーを使うからです。面倒くさいのです。ただそれだけです。

岡田さんは「感覚的だと他人に伝わらないのでダメだろう」と言ってました。そうだと思います。

 

では感覚的と言う事は何か?

これは経験にそったもので判断していると言う事です。

しかもその経験からの情報を頭では理解してない事です。

頭では理解して無いから、どう効いているのかが自分でも分からない。

分からないが、経験からの感覚や感情が頭には記憶されていて、それに沿って出て来るのが感覚的なものでしょう。まあ生まれつきの情報も関係あるかも知れませんけどね。

人にとって経験から学ぶのは限度があります。だから「愚者は経験から学ぶ。賢人は歴史に学ぶ」と言いますね。他人の人生さえも参考にする方が良いに決まっているのです。

 

しかし経験からの感覚が役に立つ時もあります。

一つは、多くの細かな感覚からの答えの時、です。多くの細かな感覚は自分では意識してないけど、実は頭に記憶されていたりします。それが意識をしてなくても出てきて、何かの感覚を自分に訴えかける時もあります。

例えば、来た事もない村なのに、なんとなく懐かしい風景などです。音や色や匂いなどの多くの情報から、昔味わった田舎の感覚が呼び戻されているのでしょう。

もう一つは、経験からなので、何度も似た経験が前にある事です。逆に過去に一回だけあった経験から呼び出される感覚なら、大してあてになりません。

これらがあっても、論理的に考えるより役に立つ時と言うのは、あまりありませんが、たまにはあります。

例えば初めて会った人の事をどう思うのか? の時です。

「何かうさん臭いな?」「どこか気に知らないか?」などを感じたの時の事です。

実は、これは過去の経験からの情報から出て来る気持ちなのです。

経験から過去に会った事のある嘘つきや、嫌いな性格の人の特徴を覚えているから、なんとなく出て来る物なのです。

その情報が結構細かな情報なので頭では理解してないのです。相手の言葉使いや仕草や格好や目線などから、答えを出しているのでしょう。

ちなみに、生まれつきの情報も関係があるかも? とさっき言ったのは本能の事です。例えば娘は父親のにおいが嫌いだそうです。これは人がまだ動物の様に話せなかった時は大事だった事でしょう。近親相姦を防ぐために。沢山の他人の家族と住んでいたら、どれが親子か分からなくなった事でしょうからね。

 

感覚的と言う事をよく理解していて、それを論理的に考えられる人が正解ですね。

どのような時に感覚的な事が大事になるのか? または感覚的でも良いのか? を知っている人が正解です。

論理的に考えるのが嫌いで、感覚的に生きて行きたいなんて言う人は、サルと同じです。じゃあ山で暮らしましょう。

それに人は日々論理的に考えて生きてます。信号が赤で止まるのは論理的に考えているからです。

それは常識の方じゃ無いのか? と思った方は、まだセンスがあります。

しかし赤で止まるが、見通しが良く明らかに車なんか見えない時は赤でも渡るでしょ? なら常識にそって止まってるのでは無く、論理的に考えているのです。

論理的に日々考えれるのに、論理的に考えるのが嫌だと言う人は「考える事を放棄したい」と言う事です。なら山で一人で暮らしましょう。

 

まとめると

論理的に考えるとは、(大体は)単純化しシミュレーションをする事です。

だから100%ではないが、当たる可能性を高めます。

その良し悪しを踏まえ、道具として使っていく事が良いのでしょうね。