号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

青森新宿

映画「田園に死す」補足をまとめました。

 

今見ると、昔より色々分かってきたので、書いておきます。

 

サーカス団は、左翼活動家や学生運動家の事ですね(ヒッピーもかな?)。

面白いのは、彼らは白塗りなので、実は「政治的信念などない奴ら」だ言うことです。多くはあってるでしょう。

大人の主人公に手紙が来る。たぶん亡くなった母からなので、あの世から手紙が来てるのです。

そのあの世の方向に(右方向に)向かい、このサーカス団の面々が走っていき、主人公が見ると消えてるのです。

彼らが実際死んだと言うより、結局彼らは最後右方向(つまり右翼方向)に向かい、運動家として死んだ、と言うことでしょう。

多くの学生運動家は、70年安保の後、憑き物が取れたかのように(名が犬神だし)、何事もなかったかのように「さあ働こう」と働き始めた事を表している。

これで、このサーカス団を最後主人公が、けげんそうに見てたのが分かります。

学生運動家などただの興行もしないサーカス団の寄せ集めであり、心情も何もない奴らだ、と言う苦言でした。

 

主人公の呼び名が「しんちゃん」だったのは「新ちゃん」の事ですね。

元々、「右翼は、古い価値観を大事にするグループ」の事であり「左翼は、新しい価値観を大事にするグループ」の事です。

だから「新ちゃん」は左翼の暗喩です。

もちろん正確には最後の赤い女に襲われたシーンで、赤化された事の暗喩になるので、未来に左翼になるのが「しんちゃん」と言うことです(だから大人の主人公は白塗りではない)。

同じく、右翼が古い価値観を大事にする事から、古い人が右翼の化身であり、しんちゃんの「母」が右翼の事です。

ただ母も白塗りなので、右翼でも「政治的信念がある訳では無い」と言うことでもあるのでしょう。

 

将棋をしてるシーンは、「昔の自分との対話」なのは、普通に見てても分かると思います。

ただ昔の自分への葛藤でもあるのでしょう。だから将棋で戦っているのです。

実際、最終的に、昔の自分の思い出から母を殺せなかったのです。

これは本当の母の事だけではく、暗喩的にも「自分が生まれ育った右翼の世界を、全否定できなかった左翼」と言うラストだったと言う事です。

「右翼と左翼要素、どっちも持ったままこれからは生きて行こうと決めたラスト」だったのです。

 

細かなことで、将棋のシーなどに出て来る手は「左手」でしたね。左翼の事でしょう。

トンカチはソ連の旗の事。

床屋のくるくる回る看板は、左向きの矢印に見えます。

ただ色で言えば、赤と青半分ずつなので、バランスが良いと言う事であり、この床屋の店員も客も白塗りでしたね。

そしてこの客は若い奴から老人になってました(二人目の女の子も大人になっていた)。

結局、赤青バランスが良いノンポリが、普通に生きて行けると同時に、年を取るまで生き残れる、と言うことです。

逆にこの将棋のシーンの裏で歩いてる人達は左手に戦争に向かい、死んで右に戻ってきます(左翼を目指したが諦めて右翼化したこの頃の人の事)。

その後も左に多くが向かうし、最後はお葬式でしょう。左に向かった左翼は死んだと言うラストです(これもこの頃は左翼運動家が減っていなくなって来てる頃だからでしょう)。

鏡は青い空を写しているので右翼か?

最期、鏡の周りに白黒の風車がありますが、風車が子供が亡くなった時に飾るものだし、白黒もお葬式でしょう。右翼もまた多くの子供を殺したと言う事です(ベトナム戦争などの事でしょう)。

 

なぜ田園なのだろう? と思っていて、思い付く理由を前にも書きましたが、まだ他にも理由がありそうだとは思っていました。

今更ながら、田園の「緑」から「ヒッピーなどの事か」と、気が付きました。

 

ただ「田園に死す」の題名は1965年の寺山の詩集が元です。

この題名は塚本邦雄が決定したそうです。

この頃はまだヒッピーは盛んに出てなかったらしいので(1967年頃だそうです。日本でもアメリカでも)、この時にヒッピーなどを頭に浮かんで付けたのではないと思います(たぶん)。

だけど映画版の「田園に死す」は1974年なので、この時はヒッピーなどの暗喩と言う意味でも使ったのだと思うのです。

 

ヒッピーもまた細かく分類があるようですが、大雑把で言うと、反政府(反右翼)であるが、共産主義社会主義などの左翼ではない人達だそうです。

ドラッグやセックスに溺れ、反政府的に生きて行きたい人達だそうです。

その中でも、考えてない、やる気も信念もない、どうしようもない奴らがいたようで、それらは日本ではフーテン族などと呼ばれていたようです(フーテンの寅さんも68年なので、流行ってた時にその名を付けたのでしょう)。

この頃のアメリカなどに対しての反政府なので、反科学や反宗教(キリスト教)等も含まれていたようです。なのでスピリチュアルな事や反キリスト教で仏教などの東洋宗教に浸透する人もいたようです。なので自然崇拝も含まれます。

映画内の緑がヒッピーなどの事です。

始めにしんちゃんが八千草薫と逃げようとした時が緑でした。八千草薫は白塗りではないので左翼です。「それと手を取り、ヒッピーなどに逃げようとした」のは偽物だった、と言う話です。

 

恐山なのは死んだ人が集まるからだけど、死んだ人とは?

それは右翼も左翼もヒッピーも、本当に死んだ人もそうだが、運動家として死んだ人も集まる場所として、恐山を選んだのでしょう。

恐山が青森なのも選んだ理由です。

一つが寺山の故郷だからですが、それはおまけです。

青森の「青」が右翼、森が「ヒッピー」の事で、それらの死んだ亡霊が集まる場所が舞台だと言う事です。

そこに道を失った左翼こと主人公が、彷徨い歩いていく話です。

 

最期青森だった筈の所から、新宿になり終わります。

まず前に言った事から言うと、母とご飯を食べるのは右翼と一緒に生きて行こうと決めた主人公、ということです。

もう一つが、新宿は都会ですね。森でもなく自然でもなく科学の賜物で出来ていて、理路整然と作られていて政府が管理してるのが分かる場面です。

つまり反ヒッピーでもあると言う事です。

ただ正確には、反政府や自然回帰ではなく、科学や政府とも仲良く一緒に生きて行こうと決めた、と言うラストだったのですね。

 

日本のヒッピーの聖地が新宿だったようです(風月堂)。

それに68年に過激な左翼の暴動の「新宿騒乱」があり、始め東口に集まったようなので、あの映像のあたりでしょう。

つまり過激な左翼とヒッピーなどを象徴する場所が、あの最後の場所なのです。

「新」が新しい価値観から左翼を表すと言いましたが、新宿だと左翼が集まる宿場の暗喩になりますね。

新しい価値観を、社会主義や共産主義だけでなく、反政府主義も含まれると考えれば、新宿で左翼やヒッピーが集まる場所と言う暗喩が通るのは、面白いですね。

映画の時の1974年には、左翼は右翼や化学や政府とも手を取り合って一緒に生きて行こうとしているし、たぶんそれが正解だと言う最後だったのでしょう。

「新宿区新宿字恐山」で、両方が合わさり、しかも亡くなった(無くなった)人や価値観までも含め一緒に生きて行こうとなるので、良く出来てます。

 

等々、ガッツリ左翼の暗喩満載な映画だったのですね。

本当によく出来てました。

 

そしてだからこそカラーの「シン、シリーズ」は名前からも「左翼暗喩シリーズ」であるのでしょう。

 

 

26年7月23日 やはり書き忘れてた事など

 

八千草薫と原田がいた小屋の壁もないのは「彼らがいる場所は、偽物」と言う暗喩です。

ろくな場所ではないと言うことであり、まともな活動家拠点では無いと言う事。

そうか、八千草に原田、どっちも草などの「緑」ですね。

彼らが左翼運動からヒッピーやフーテンになった運動家だと言う事。

運動家としての死でした。

 

空気女はバブル……ですが、流石に経済のバブルはまだまだ早すぎる。

ただ、たまたま同じ暗喩だと思います。考える事は皆大体一緒ですね。

「大きく無いのに、空気を入れ(誤魔化し)、大きく見せている活動家」の事でしょう。

それがどのグループかは流石に分かりません。その時代を生きて来た人しか分からないでしょう(こう言う所が、その時代を見てない人の考察の限界ですね)。

(追加、もっと単純に風船からフーテンのダジャレかもしれないと思えてきました)

 

最後のシーン、マクドナルドのある所が、後にアルタが立てられる場所ですね。

その新宿アルタも壊され、先日見たら無くなってました。

諸行無常です。