号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

そこに樹が見えるか?

映画「ツリー・オブ・ライフ」考察です。

 

初めに旧約聖書のヨブ記の一節から始まります。

「私が大地を据えたとき、お前はどこにいたのか」

これは、神を信じたのに不幸な目にあったヨブが、なぜこのような目に合うのかを神に聞いたときに、神が答えたとされる言葉です。

 

落ち度もないのに不幸に合う人は、「私が不幸にあってるとき、助けもせず、神はどこにいたのか?」と思うものです。

それに対する答えです。

神は言うのです。「じゃあお前は私が苦労して世界を構築してるとき、どこにいたのだ?」と。

「お前だって何もしてないじゃないか」と言うのです。

 

しかしこれは理不尽に聞こえます。

神はすごい力を持っているのじゃないのか? 我々とは違うのじゃないのか? と。

でも「それは本当か?」と、問うのです。

それを気持ちに分からせるために、長々家族の話をする物語です。

表向きは……。

 

これを聞くだけで、「ヨブ記をやるんだな」と思うわけです。

 

次に母が話す。

「人生には2つの道があると教わった。自然(Nature)に従い、本能のまま生きるか。神の恩寵(Grace)を信じ生きるか」(意味はこういう感じですが、直訳ではないです)

本能のまま自分勝手に生きるのを表しているのが、物語の中の父(ブラット・ピット)です。

自分を捨てて、神を信じ生きているのが母です。

 

始めに「ヨブ記をやる」と言い、その後この話が出てくるのなら「母が正しかった」という話にするように思えますが、そうなっていましたか?

 

前後するが、この前に大人になった長男(ショーン・ペン)の声で、「弟と母が、あなたの元へと導いた」とあります。

「亡くなった弟への思いと、神を信じる母の思いがあって、私(長男)が最後、神の元へと導かれることが出来た」と聞こえるセリフです。

確かに、そうも見えるように構築はされている。

 

でも、何かが、おかしい。

まず、物理的にキリスト教でもユダヤ教でも、亡くなった人に会えたり神の世界に行けたりはしない。

しかしそこも誤魔化しがあって、最後のあたりのシーンで世界の終わりを示唆してるように見える。つまり最後の審判のあと、亡くなった人たちとも会え、楽園に行けることを表していると思えば、最後のシーンも間違ってはいないように見える。

ただ、それは最後の審判の後であり、ショーン・ペンが生きていて戻ってくる(エレベーターから降りてくる)のがおかしい。

おかしいが、これもまだ見方があって「最後の審判を頭で思い描くことが出来たから、最後救われた話」だと見ることも出来る。

つまりこれだけだと、「ちょっと、おかしいようにも見えるが、まあ、なくもないない演出」だとも言える。

 

でも、戻ります。では、「母は正しかった」という話だったのか?

もっと言えば、なら、「父は間違っていた」という話だったのか?

これも一見、父は最後失敗するから、そうなっているようにも見えるが、よく考えたらそうでもないでしょ? 「父は間違ってもいたが、正しくもあったし、愛情もあった」という話に見えませんでしたか?

つまり、何かがおかしいのです。

 

ヨブ記をするのならキリスト教かユダヤ教でしょう(イスラム教ではないでしょう。これはただアメリカ映画だからですが、差別があると言うわけではなく、直接関係が少ないから、ないだけの話です)。

ではキリスト教ぽかったのか?

子供時代の田舎では、植物が多く出てきます。植物ってキリスト教っぽくない。あまり関係がない。

そこから、そもそも題名の「ツリー・オブ・ライフ」(生命の樹)もキリスト教っぽくないのです。

いや、反論したいことは分かります。エデンの園に植えられていた二本の木が、「知恵の樹」と「生命の樹」です。だから意味があると言いたいでしょう。

でもそこだけです。

いや、でも、まだ言いたいことでしょう。新約聖書ならヨハネの黙示録で「最後の審判の後、生命の樹を得られる」(つまり永遠の命ももらえ、幸せに生きていける)ような記述があるようです。

だから、この映画では最後、「それを夢見ることが出来たので、長男が救われた話」とも取れる。

 

でもなら、最初と最後でいいのです。ずっと植物を出す意味はない。

キリスト教もユダヤ教も、植物はあまり関係がない宗教です。

しかし、生命の樹も「世界樹」と訳せば世界中にそういう宗教観があるようです。北欧のユグドラシルとかが有名だが、中国とかアメリカにも独自にあるようです。

 

そもそも始めに「自然(Nature)」のことを「本能に生きる動物的な者」で例えていて、「神の側ではない者」の例えで言ってるじゃないですか。

自然や野生は、本能で生きる、動物的で原始的なものと言う感じが、キリスト教にはあるのです。

 

犬もそうです。わざわざ出している。

キリスト教において「犬」は本能で生きる野蛮で無知なものの象徴です。

(ドンウィンズロウの「犬の力」という小説があるが、キリスト教から来ていて、悪い力を犬の力で表しているし、リュックベッソンの映画「ドッグマン」では、キリスト教では犬を悪い意味で使われるから、犬好きな監督が、わざと天使的に使ってましたね)

それが少年らの家にいて、最後もわざわざ犬とともに車で家から去って行きました。

 

では、不自然な恐竜は?

あれは慈悲を見せている様にも見えます。

しかし犬以上に人から離れた畜生です。それが人と同じく慈悲を見せているって、キリスト教などの否定に見えませんか?

(肉食の恐竜が慈悲を見せたりはしない。考えられるのは腹いっぱいだったので止めたってことです。ただ、無意味に殺したりはしないと言うことで、そこは人以上だと思いませんかね?)

そもそもなぜ恐竜を出す意味があるのか?

旧約聖書の通りだとすると、世界は数千年前に神によって作られたとされます。

しかし恐竜は6600万年前には絶滅したとされている(鳥類は除く)。

つまり恐竜を出すのもまた、聖書は間違っていると言いたいのでしょう。

(もちろんこれは科学を信じればってことですが、そもそも誰も見たことも無い恐竜がいたと言うことを信じるのは、科学を信じているからです。そして科学を信じれば数千年前よりずっと前に恐竜がいたことになり、だから聖書が間違っている象徴として、恐竜を出したのでしょう)

 

つまり、変なのです。

本当にキリスト教、もしくはユダヤ教、賛美映画なのか?

 

この映画は、一見すると、キリスト教賛美映画に見える。

もしくは、「現代に合うように、キリスト教の教えを、再定義して見せている」映画に見えます。

 

でも、よくよく考えながら見ると、おかしい。

実は影では、キリスト教などの否定映画ではないのか? とも見えるのです。

 

この話は、植物もよく出てくるが、水もよく出てきます。

これはキリスト教映画ではよくある物です。

水は清める物ですので(洗礼のとき水をかけますが映画内でもしてました)、「水に浸かることで清められる」もしくは「水で鍛錬される」ことをよく表します(元はユダヤ教からでしょうが、ユダヤ教にも沐浴があります)。

なのにこの映画では死人が出ます。溺れ死ぬ子供です。

清めるはずの水で死ぬ子供など、キリスト教賛美映画で出て来るわけがないので、これもおかしい。

キリスト教を信じてないことの現れではないのか?

 

なぜ、三兄弟なのか?

この話上、兄と弟だけでいいじゃないか。

でも三人必要なのです。

三人の神の子供、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の暗喩だからです。

 

だとすれば、父と母が神ですが、それと同時にアダムとイブでもあります(二重かけです)。

神ではあるが、もっと正確に言えば、神の2つの要素の暗喩です。

愛情もあるが、厳格で命令口調、しかし支離滅裂であり、ときに不幸すらばらまくのが、旧約聖書の神です。これを父で表しています。

それと同時に、ただ恩寵を与える、我らが望む神の姿を、母で表している。

この2つの要素を持つのが神であり、それはまさしく父と母の要素を両方を持っているかのような存在です。

そしてこの両親が子供らを生み育ててきた存在であり、だから神そのものの暗喩で通るのです。

 

だとしたら、次男が亡くなったのはなぜか?

それは、次男、つまりキリスト教は死んだ、という内容だったのです。

確かに割合で言えばユダヤ教徒は敬虔な信者が多そうですし、イスラム教もそうです。

しかしキリスト教は違う。ずっと昔から腐敗していて、割合で言えば今や心からは信じてはいない人のほうがずっと多いでしょう。

この「宗教の死」を暗喩で示せば、「次男だけ死んだ」という内容になるのです。

 

次男だけ死んだのだから、キリスト教賛美映画にはなりません。

でも、これでもまだキリスト教徒向け映画にも見える所が、流石としか言いようがない。

これは「信仰がなくなったキリスト教徒に対する戒めの映画」とも取れるからです。

最後弟も出てきます。そして最後の審判の後を示唆するからこそ、その後の復活すら示唆することになる。

だから、いつかキリスト教も復活するとも取れるので、そう思いたい人には、そう見える映画になっているのです。

 

そう、この映画は、「見方によって、見え方が違う」を表すと共に、「人には、見たいように見える」ことすら表わしているのです。

この映画を「キリスト教を現代的に定義する、キリスト教徒のための映画」とみたいに人にはそう見える映画だと言うことです。

他にも、ユダヤ教徒にはユダヤ教映画に見えることでしょう。長男が生き残る話ですからね。

他にも、違う宗教の人にも、宗教を超えた「信仰を考え直す映画」としても見れるようにしてるところも流石です。

これらは、「見たいと思ってる様に、見える」と言うことだが、「そもそも、宗教などはそういうものだ」と言うことなのだが、これは主題ではないので、この辺にしておきます。

 

途中、モルダウが流れます(スメタナの「わが祖国」という曲の第ニ曲だそうです。今聞くと、いい曲ですね)。

なぜモルダウなのか?

モルダウの語源は「野生の水」だそうです。そう、野生であり、キリスト教的恩寵の反対のはずの自然のことです。

モルダウは上流の方で二つの源流が合わさる川だそうで、これは父と母を表し、それと同時に神の二つの要素が合わさって出来たのが人々だと言うことでしょう(それと同時に人々の基本は野生だと言いたいのかもしれません。しかしこれは、だからこそ動物的な本能から離れ、神に近づくように努力するのが人の道、ということかもしれないけど)

この川はやがて「ヨハネの急流」と呼ばれるところで、勢いを増し渦を巻くのだそうです。

ヨハネは聖ヨハネという人がいたらしく、そこから取ったようだが、もちろんヨハネの黙示録のヨハネではない。しかし後年の聖人は昔の有名人から名を取るからヨハネの黙示録のヨハネからとったのかな? と思っています。

しかし暗喩的にはヨハネの黙示録を表しているのでしょう。

つまり、この人々を表す川は、いずれヨハネの黙示録にたどり着く。つまり最後の審判で渦を巻くような大混乱が訪れるのです。

しかしその後は緩やかな川になり、その後も流れて行きます。つまり最後の審判で終わりではなく、その後も人の世が続くということです。

このモルダウの曲が流れることで、この話はキリスト教を表し、最後の審判まで向かう話、のように見せているのでしょう。

だからこそ、最後の長男がみんなと会えたときには、地球の終わりの時ようなシーンが流れ(いつの日か、太陽が膨張して地球が飲み込まれるシーンかな?)、それは最後の審判を表すとしているのでしょう。

最後の審判の後だからこそ、皆が蘇り、神を信じる者たちはまた会うことが出来る。

だからそれを信じることが出来た長男の心が救われた終わりに見えるようになっていたのです。

(見えるようになっていた、というのは、そうも見えるが、違うようにも見えるということです)

 

モルダウを聞かせ、キリスト教の現代風再定義映画だと思わせ、しかし違うようにも見える。

では監督が言いたいのは、どっちなのか? キリスト教おしか、否定か?

 

この監督、テレンス・マリックは哲学を学んでいるようで、哲学の本を書いていたり、大学で教えたりもしてるようです。つまり哲学者であり、神学者ではない。

ブラット・ピットも撮影中この監督とよく話したようだが、彼が言うには、監督はキリスト教と言う一つの宗教ではなく、もっと俯瞰的にみて考えているようだったそうです。

 

だとすれば、キリスト教やユダヤ教のためか? もしくはそう見せて否定的なのか? などの白黒、マルバツ、正解不正解、などというくだらない二元論では考えていない気がするのです。

宗教には良い面と、間違った面があるという、ごく単純な答えを表している気がするのです。

答えは単純だが、それを混ぜて、しかも伏せて、映像で表し、しかもそれを感情に訴えるように描くのは、まさに哲学者ならではの芸の細かさだと思います。

 

父と母が神の二つの要素の暗喩だと言いました。

この父が分かりやすいですね。彼の行動はまるで旧約聖書の神のようです。

高圧的で命令的で、だからと言って全てを助けるほど万能ではない。ストレスにもなるし、みなを傷つける。

しかし愛情もあるし、強く育てようともする。

最後のほう子供がぐれて悪い事をしだすが、その時は父が不在でした。強くて絶対的な父(神)がいないと、人は動物的で本能的な愚かな行動をすると言う意味です。つまり高圧的な父(神)も必要だということです。

そう、まるで世の中の高圧的な父と、神は似てるのです。

(私は無宗教なので、神は作られた存在だと思ってますが、だとすれば誰かの父の立場の人達が構築したのが宗教だということになるので、父と神が似て来るのは当然です)

 

この父を見ると神の行動が理解出来るし、ヨブ記が納得できる。

父は問題があるし嘘も言うが、概ね必要です。

しかし自分の次男が死ぬ時助けられませんでした。もちろん大きくなった子供をずっと見てられるわけはないので、助けられないのはしょうがないと思う事でしょう。

そこにヨブ記が係ってきます。ヨブも「なぜ助けてくれなかった? 今までどこにいた?」などと神に対して思うのだが、神もずっと全ての人を見てるわけでは無い。それにやる事(世界を作ったり)があり、もしかしたら目を向けられる余裕がないかもしれない。しかし神の事情は、人には分からない。

映画では父も頑張り、傷つき、最期には非を認めるが、家からは追放される。絶対的で完璧な強さを持つように見える父もそうではなく、色々あったんだなと子供にも分かるシーンです。

神も同じく、子供の立場の人々(ヨブも含む)には分からない事情があり、全ての人を救っている暇がなかったかもしれない、と言うのです。

物語上次男が亡くなった時、父は近くにいなかったように描いているのだが(大きくなった子供と父が一緒にいることは少ないのが普通なので、そう描いた)、他の子供が溺れて亡くなった時、近くにいて助けようとはしてました。これは近くにいたら次男を助けてくれただろうと言う事を表しているのです。父も神も見ていたら、助けない訳ではないということです。

父は問題もあったが、愛情もあった。

この父を認める事が出来たなら、神が助けてくれないのも理解できるだろう、と言う話です。ヨブ記の説明なのです。

 

何かを伝えたいのなら、単純に言葉で言うべきです。その方が早いし、正確です。

では物語にする理由は? それは物語には、言葉で言うより優位性があるからです。

では物語の優位性は? それは感情に訴えられるからです。

最後は「なんとなく納得した」と言う状態になって、人は始めて分かった気になるのです(もちろん分かった気になってるだけで、間違ってる時もありますが)。

だから物語で描き、感情的に分かるようにする。

長々昔のアメリカの家庭の話をすることにより、子供の頃の自分や、父親の事を思い出す(アメリカの映画だからです。日本だと少し違いますけどね)。

そして子供の頃の、親の事や事情などよく分かって無かった自分を思い出し、この父親を許す事が出来たなら、認める事が出来たなら、ここで初めて同じような神の行動も理解し、認め、許す事も出来るようになる。

だから、感情的に訴えかける為に、この長い昔話が必要なのです。

この映画は、作り上、何も間違ってはいない。

(ただ、間違ってはいないが、退屈で見てるのが辛いのは否定できないけど。間違って無くても辛い物は辛い)

 

 

さて、では最後のあたりのシーンの説明に入ります。

ここでは、二つの可能性の話をします。

 

一つが、この映画はキリスト教やユダヤ教を、現代の科学を信じる世界の人々にも合うように、再定義してみせているとします。

これは、宗教は映画内の父のように嘘をつくのも認め、間違ってることは間違っていると表し、しかし大体は正しいのだと、現代人にも分かるように再定義してみせた、ということです。

 

地球は科学の通りに作られ、人々も泡の様な物から増殖しだし、自然と出来たのだとする。ただそうであっても、それが神の恩寵で作られたと考えてもいいのではないのか?

恐竜はいた。神の創造より前にもっと過去もあった。しかし神の創造の前に世界があっても良いのでは無いのか? だから恐竜絶滅を描く。世界が一度終わり、その後神が数千年前に神に似た人を作ったとしても、通るのでは無いのか?(今度は失敗しないように自分に似せて作った、などと言う理由で)

そしてさっき言った様にヨブ記の説明です。神は助けてはくれないが、それは父と同じではないのか? 父は子供を愛していても、必ずしも命を救う事は出来ない。それと同じではないのか?

父は高圧的だった。でもあの高圧的態度も必要だったのでは無いのか? いないと人々は悪さをするのだから。

父は問題もあった。しかし大人になると分かるが、愛情もあり、彼なりの事情もあった。なら神もそうでは無いのか?

自然とは野蛮な本能的を表すが、実は良い所もあったのではないのか? 自然な物を表す知恵の樹とか生命の樹を作るのだから、神は自然を否定はしてないだろう。

水は清める物であり(だから洗礼のシーンも入れる)、自分らを鍛錬するものでもある(だから泳ぐ)。しかしそれらに頼って、おごって、溺れることもある。溺れることは死である。だから注意が必要です。

母は恩寵の象徴です。しかしただ信じ、自分を守る事をおろそかにすると不幸を呼ぶ。子供に対しても時には強さが必要だし、自分にかかる火の粉を払うことも必要です。

 

最期、年をとった長男はビルにいます。

これは自然(Nature)では無いですね。

では(Grace)なのです。Graceは「恩寵」も表すが、「飾り付ける」とか「優雅」とかも表します。だから飾り付けられた(つまり人の手によって作られた)優雅な建物でGraceであり、そこから恩寵を暗喩的に表しています。

長男は弟の死を考え、エレベーターで上に向かいます。つまり気持ちが天に向かう。

恩寵を受けた神を信じた男が、神の世界(天)に気持ちが行くのです。

神を信じたので、天国には弟がいると信じられる。

神を信じたので、いつの日か、最後の審判の後で(だから地球最後のシーンみたいのが流れる)神を信じた人々が復活して、弟や親にまた会える事を信じられる。

そして死んではいないのだから、長男の気持ちが戻って来る(だから地に降りる)。

戻って来るのは、あくまで気持ちだけが天国に行ったことを表し、それは単に天国や神を信じられたことを表しているに過ぎない。天国と言う場所が本当にあるとは言ってない(無いとも言ってない)。

ただそうであっても、信じれば気持ちは救われる。

だから最後長男(ショーン・ペン)は救われた気持ちになれたのです。

現代の宗教とは、心のより所であり、「信じれば救われる」ものです。

宗教とは、決して科学的な物と、相反するものはでは無いのです。

建築家の長男は、今や気持ちの橋を作った。

だからいつでも橋を越えて、向こうに見える森、すなわち失われたエデン、つまりみなで住んでいた昔の家にも、気持ちは戻る事が出来る、と言う最後です。

神を信じれば、気持ちは楽園にいつでも行ける、ということです。

 

 

二つ目が、やはり宗教の否定です。

ただ、単に完全否定ではなく、宗教にも良い要素(気持ちが救われる)があると認めてはいる、というのは前提だと思っています(じゃないと、始めから全否定話にすれば良いだけだからです)。

しかし哲学者の監督が、わざわざ入れて来るこっちの要素の方が、彼にとっては本題だとは思います。

宗教も良い要素があることを求めるが、それより大事なことがある(哲学的な考えのこと)と言いたかったのだと思うのです。

 

最期、年をとった長男はビルにいます。

これは自然(Nature)では無いですね。

これは、人々が長い年月で代々培われて積まれてきた知識を駆使し、自分らの力で作られた結晶です。

これはバベルの塔です。

とうとう人は神の邪魔をものともせず、神の精神世界まで通じる塔を作り上げたのです。

バベルの語源の一つは「神の門」だそうです。神へとつながる門です。

だから登った長男は門をくぐり進んだのです。

神が神話で作った世界に、人間が作ったものでたどり着くとは、暗喩として、科学や哲学により神話の精神世界にもたどり着いた、ということです。

 

世界が自然に作られた。偶然生物が出来た。

そこに、もし神の力が加わっているとしても、神の力がなかったにしても、どっちであっても同じ現象を証明出来るのなら、それは存在しないと思って良いのでは無いのか?(水を沸騰させて水蒸気になり無くなったとして、それが科学で証明出来るのなら、そこには神の力が加わっていると考える必要が人には無いと言う事です。どこにも証拠がない神の力を信じるのなら、それは悪魔の力であっても、ドラえもんの力でもよく、それは無限に考えられるのだから、その他の力を考える意味がなくなるのです)

 

弟の死は無駄だったのか? 死んだのだから意味が無く、いなくても良かったのか?

いや違う。長男の昔の記憶に弟はいる。

弟の存在や、亡くなった人の存在。昔の父や母の存在が、記憶に残っている。

その記憶が今の長男を作っているのだ。意味がなかったのではない。

死んだとしても、いなくても同じだったのではない。

哲学の力を使い、それに気が付き、救われる。

それは神の力ではない。神の力には頼らずに、過去から神が与えてくれていた心の安らぎを得らるようになったのです。

それこそが、人々が神の力を借りず自分らで作り上げ、神の領域まで達する事が出来たバベルの塔だったのです。

 

神とは、まるで父と母を合わせたものの象徴のように見える。

では、神はいるのか? 父と母と言う存在するもので同じだと言うのなら、神はいらないのでは無いのか?

 

神は祈っても助けてはくれない。信じる者も、正しき者も不幸になる。

では神を信じる意味は? いなくても同じでは無いのか?

エデンは子供の頃の田舎の家の生活のようだ。ならエデンは必要か? 実際の田舎でよくないか?

 

見え無い物を信じるより、存在が分かる物を信じ、愛した方がよくないか?

それが自然であり、過去の思い出であり、人々の思い出である。

だから長男は上った世界でそれらと出会う。神に出会うのではない。

見た事もない神に会ってどうする?

自分が会いたいのは、話したいのは、家族たち愛する者だからだ。

行きたいのも、見た事もない楽園でも天国でもない。

実際にある、素晴らしい自然で十分なのだ。それは現世に実際あり、そして実際いける。

 

そのことに気が付き、長男の気持は晴れて、現実世界に戻る。

そこは人々によって作られた建物と、人々により植えられた木々がある場所であり、それはNatureとGraceがバランスよくまじあった世界であり、これこそが人の世界だ。

Natureの父と、Graceの母から両方の要素を持って生まれ、育った次の世代の自分が作ったバランスのよい、人の世界なのだ。

 

最期、橋がある。

これは神ではなく、人々が知恵で作った代物、つまり哲学のことだ。

もう水に入る必要はない。神の洗礼をうける必要もなく、溺れる心配をしながら鍛錬する必要もない。

神に頼る事も無く、自分らで、もう精神はあちら側の森にいける。

エデンでも、昔の田舎にも、気持ちはいつでも行ける。

哲学をもってすれば、神学に頼らなくても、もう人々はどこにでもいけるのです。

 

 

家系図はツリー状なので、ツリーと言う言葉で表したりします。

ツリー・オブ・ライフ、永遠の命を得れると言う生命の樹。

知恵の実を食べた人は、神に永遠の命を得ない様に、生命の樹から離されるように、エデンを追放されます。

そんな扱いを受けたのに、まだ、いつか神から永遠の命を得らるのを待つのですか?

代々、人々は数も増え、知識も増え、まるでツリー状に大きな存在になりました。

これをツリー・オブ・ライフとみたて、先祖からの人々全体で大きな樹として考え、もはや人々は永遠の命を得ていると、思えないでしょうか?

葉は枝が無いと成り立たない。枝は幹が無いと成り立たない。下の方の幹は過去の人々の事です。過去の人々がいるから、その先の人もいる。

家系図的に連なっていて、過去のもういない人も無駄ではない。

それら、もういない人も含め見た時、永遠を表す樹が見えてこないですか?

 

どう見るかは各々が決める事です。

光の中に神が見えるのか?

光はただの光として見えるのか?

それは、あなたが見たいと思う方に見える事でしょう。

神はいたとしても、あなたの中にいるのです。

 

 

最後に感想です。

まあ、よくやった作品です。流石、哲学者か。

私の書いた内容も、どう見るかはあなた次第です。

間違ってると思うもよし、正しいと思うもよし。どっちでも無いと思うもよし。

正解はあなたが決めるのです。