号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

能力主義が問題ではない。差が問題なのです。

マイケル サンデル著「実力も運のうち~能力主義は正義か?」

と言う本の解説を、Youtube岡田斗司夫さんがしてました。

その事について気になった所を言います。本は読んでません。

 

法律の前に憲法がある様に、物事を考える時には、基本になる事があります。

この本はその事について書かれているらしいので、とても意味がある物です。

逆に、漠然としてでもこの本の内容も分かって無いとしたら、社会の問題など分かりっこないと言うのが私の意見です。

 

この事を岡田斗司夫さんが言う。

この人は上手く装えば「上級国民」側にいれるのに、「能力主義」の問題を伝えようとする。

私はちょっとなめてましたね。岡田斗司夫さんは私が思ってたより素晴らしい人かもしれない。

皆が知っている必要がある大事な事実を、伝えようとするからです。

 

私はこの本の様な事は思ってましたが、私みたいな敗者が言った所で誰も聞いてはくれない。

だからハーバード大学教授のサンデルさんが言う事に意味があるし、岡田斗司夫さんが言う事が大事なのです。

敗者の私は、岡田斗司夫さんが言ってた事に賛同した方が良いのですが、少し違うと思っています。

自分の不利益になる事を、まるっきり言わないのは嘘になるので、少し反論も含め言います。

 

能力主義者は能力の差で差別をするし、差別意識すらない」と言ってました。

「能力が無い人は努力が足りないのだから、能力が無い人が虐げれても自業自得」と思っているからですね。

しかし「能力は生まれつきだし、努力する遺伝子も生まれつきだし、生まれ育った家や場所で能力など変わる」ので全ては「運」だと言うのです。

この意見は間違ってはいないと思います。

成功者は自分の努力と才能のおかげだと思いたいのです。

ただ、思ったよりは「運」が大きい事が、分かって無いのです。

 

ただ本当に遺伝だけか? は分からないのは意識しておいた方が良い。

例えば「A」さんは遺伝的に、1時間勉強するのは楽だが、2時間勉強するのは辛い、とします。

「B」さんは遺伝的に、2時間勉強するのは楽だが、3時間は辛い、だったとします。

それで「A」は2時間頑張り、「B」は3時間頑張った、としてどっちも辛さは同じなのに「B」が成功した、としたら「生まれつきで成功したのじゃ無いか」と言われてもしょうがない。

しかし「A」は1時間楽に勉強して「B」は3時間辛い思いをして勉強して成功したかもしれず、そうなると「B」が成功したのは彼の頑張りのおかげだと言う事になる。

これはどっちかは分からないと言う事です。

 

では遺伝的に頑張れる人じゃない方を気にする必要があるのか? 問題です。

生まれつき顔が良い方がモデルになれる。身長が高い方がバスケットボールプレイヤーになれる。それはしょうがない。

だから遺伝的であっても結果を出せた方が優れている、それは間違いがないのです。

ただ「上手く行かなかった、その人のせいではない(かもしれない)」事は意識しておくべきです。

もしバスケットボールプレイヤーしか職業が無い世界だとしたら、身長が低い人には生まれつき可能性が無いと言う事です。そうだとしたら、それで良いと思うのか? を考える必要があると言う事です。

それに問題あると思った方は、バスケットボールプレイヤーを会社員に置き代え、身長を努力する遺伝子に置き代えると、どう思うのか? と言う事です。

 

生まれつきの影響が大きい事で差別をしているのが、能力主義者の人では無いのか? と言う事です。

ここで問題なのは「差別」だと言う事で、「区別」では無いと言う事です。

 

私はさっき言った様に能力の差があるのはしょうがないと思っているし、能力が高い方が優遇されるべきだ、と思っています。生まれつきでもです。

問題は「差別」になってる所です。

つまり「差」が大きすぎる所です。

なぜ何倍もの給料の差が必要なのか? を考えて下さい。

差は必要です。しかしそこまでも差が必要なのか?

「能力が高い人が、低い人の2倍の給料をもらう」でなぜいけないのでしょう?

騙されてはいけません。差は必要ですが、今あるその「大きな差は必要が無い」のです。

必要のない「差」は「差別」です。「区別」では無いのです。

 

他の事で岡田斗司夫さんは「アメリカ国で能力のある人を採用したら、つぶし合いや誤魔化し合いをし始めるので良くなかった」と言う様な事を言ってました。

私はそもそもその人達は「能力が高くない」のだと思います。

全体の勝利を目指すべき所で、それを目指さない人は「能力が無い」のです。

スポーツの団体競技がまさにそうですね。自分の結果のみを考える人は、どんなに個人の能力が高くても団体から外すべきなのは、最近は分かってますよね?

だから「この人は能力がある」と決めた人自体が、能力が無かったのです。

 

他にも「上級国民はサークルを作り、守り合う」と言う様な事も言ってました。その通りだと思います。

実はここに「能力主義のまやかし」が含まれています。

なぜ仲間内で守り合おうとするのか? です。

それは能力主義ではないからです。代わりなどいくらでもいるからこそ、自分らでまとまって守る必要があるのです。

例えば全盛期のイチローや今の大谷翔平などは代わりがいません。だから守る必要が無い。例え全盛期で急に球団がつぶれても、いくらでも他に明日から行けるからです。

 

では会社員はどうでしょうか?

会社員でも役員でも今日首になり、来月には同じ給料を他の会社でもらう事が出来る人が、果たしてどの位いるのか?

まずいない事は、皆分かる事かと思います。

つまり能力主義だと言いながら、能力主義では無いのです。

能力だけでその地位にいるのなら、他の会社で同じ給料で雇ってくれるはずだからです。

ただ「その会社にいた方が高い給料をもらえる」事自体は間違いではないかもしれない。そうしておけば他の会社に行かないからです。

ただそうだとしたら、この会社にいた方が「少し」給料が高い、で良い筈です。

つまり他の会社なら800万だが、今の会社なら1000万もらえる位ならまだ分かる。

しかしそうなってるでしょうか? 例えば3000万もらってる人が2500万で来月から雇う会社がありますか? 800万なら700万で雇うのか? たぶん多くの人が他の会社に行ったのなら、もっと安くなる筈です。

つまり能力主義などでは無いのです。

上級国民から会社員までみな幻に守られているのに「その場所にいるのは自分の能力の賜物だ」と勘違いしてるのです。

そして上級国民だけではなく、日本人の多くの人が幻に守られているので、サークルを作り守り合う国から脱却できないのです。

 

能力主義とは「今」その能力があるべきですよね?

それを「能力が昔あったので、今何もしなくてもここにいる」と言う状態が日本なのです。

そして「今」は何も出来ないか、しない奴がいるので、いつまでも国の効率が悪く、働いても働いても安月給の人がいるのです。働いてない高給取りがいるせいです。

 

貴族社会は多くの国で滅んできましたね。世代を超えた何もしない金持ちはおかしいと多くの国で気が付いたからです。

では現在は?

現在は「世代を越えない、一世代の貴族は認めよう」と言う事になってる事に気が付くべきです。

金持ちがたいして何もしなくても、金を稼げるのが今の世界です。

その人は「自分の努力の賜物」と言うのでしょうけど、それなら「貴族は自分の親の努力の賜物」と言ってるのと同じです。それを国として認めるのか? は考えるべきです。

私は、スポーツ選手と同じで、一年か数年の実際の能力、結果で判断するのが正解だと思っています。

「10年前に頑張ったので、これから一生高給取り」と言うので良いのかは、皆が考えるべきですね。

(ちなみに、実際は世代を超えたプチ貴族制度が残っているのは知っています。ただ前ほど極端ではなくなったと言う事です。)

 

ここも問題なのは量の問題です。騙されてはいけない。質の問題ではない。

「昔の頑張りを認めよう」と多くの人は思う事でしょう。

しかしここまでの「差」が必要なのか? と言う事です。差が大きいのは「差別」だからです。

 

ちなみにこの国は民主主義ですからね。

高給取りより安月給の人の方が極端に多くなった時、何が起きるかは考えているのでしょうか?

その時はまた昔の貴族みたく、金持ちが引きずり落とされますよ。しかも合法的にね。

 

サンデルさんは最後に「上級国民を孤立させない。もっと大きな枠組みにいる事を自覚させるべき」と言う様な事を書いたそうです。

これは綺麗事です。この考えでは何も変わらない。

「皆が正義を通せば、世界は平和」と言ってるのと変わらない。

サンデルさんは結局上流組なので周りに気を使い、知ってるが誤魔化す為に言ったのか? それとも分かって無かったのか?

 

私は単純に上級国民が一般人の何倍もの給料をもらい、それを維持できる世の中なのが間違いだと思っています。

「差」は必要です。生まれつきだろうが何だろうが、結果を出した人が多くの金を、その時のみ、貰うべきです。

しかしここまでの「差」は必要が無いのです。騙されてはいけない。

もう一度言います。大事なのは質の問題ではない。量の問題なのです。