『感情から書く脚本術』 カール・イグレシアス著
物語の脚本の本です。
ハリウッド映画が基本ですが、他の物語制作にも役立つ事でしょう。
これを元に、岡田斗司夫さんが言っていた「感動」について書きます。
本の中に「感情を売るビジネス、それがハリウッド」とあります。
この本の肝であり、多くの物語の基本にもなります。
結局普通の物語とは、感情を与えるものです。
「楽しい」「面白い」「怖い」「泣ける」「感動した」等はもちろん、「なんとなくほのぼのする」とか「ちょっとポカポカする」等のなんとなくの感情も含め、感情を与えるものです。
(なんでも少数の例外はあります。例えば「漫画で教える歴史」等は何一つ感情に訴えなくても良いものです。ただこれを物語と呼ぶかの問題はありますけど)
この本で分かりやすく、よくある映画評論家のコメントが書いてあります。
「最後まで心臓をつかんで離さない」「予測不能」「心に響く」等です。
宣伝文句も同じような所があります。「感動の大作」「全米が泣いた」。
ただ他にも「興行収益ナンバーワン」「アカデミー賞受賞」「アクション大作」等もあるし、宣伝の絵象だとCG満載なのを見せたり、エロいのを連想させたりなどの感情そのままのではないけど、感情に訴えかけているのは分かると思います。
つまり人が気にしている事は「感情」だと言う事です。
映画だと、自分にどのような感情を与えてくれるのかを、気にしてると言う事です。
つまり「どのような感情を客に与えるのか?」が物語には大事であるし、忘れてはいけないと言う事です。
「こったミステリー」とか「芸術的映像作品」とか「人生」とか「戦う女子高生」とか、やりたい事見せたい事があり、それが先行してしまい、客に感情を与える事を忘れている作家がいますから、注意だと言う事です。
ただ細かな事を言うと「最終的に客の感情を忘れてないか、考えて調整する」でも良いとは思います。始めから「客の感情」から入るとそれに縛られてしまい、作れない種類の物語もある事でしょうから、です。
この本で物語には3種類の感情があると言います。
英語の頭文字から3Ⅴと言われているようですが、日本語に訳すと「見たい、わかる、感じる」だと言う事です。
「見たい」は、知りたい、この続きを見たいと思わせる事です。
「わかる」は、客に共感させて「わかるわかる」と思わせる事だそうです。この後の「感じる」に似てる所もありますが、こちらはどっちかと言うと頭で考えても分かると思えるものでしょう。
「感じる」は、単純に分からなくても感情が盛り上がる事です。アクションとかホラーです。動物ものや恋愛ものとかエロ作品もそうですね。
ではどうすればこれらの感情に訴えれるのか? の実際のやり方のヒントが書かれているのがこの本です。
ここで一つ注意が書いてあります。
キャラクターの感情と読者の感情は違うと言う事です。
当たり前だけど、気にして無いとごっちゃになる人がいるから大事ですね。
キャラが泣いていても、見てる客はしらけてる事もあると言う事です。
人は共感力がある為、もらい泣きをさそえるので、とにかくキャラを泣かせれば良いとやる人がいますが違うと言う事です。
「同じじゃないか」と言う人もいるでしょうけど違います。まるめこんだものは、いつか冷めるのです。バレるのです。
例えば本当の人が泣きながら体験談を話したとします。それでその時は泣けたとしても「冷静に考えたらあいつの行動がおかしいだけじゃ無いのか?」と後で思えたのなら、それは偽物です。そして偽物だと気が付いた時に、その話の価値は下がる事になります。話した人の価値も下がります。押し売りで何かを今売って儲けよう、と言うのでもなければこれは良く無い事です。誰にとってもです。
あとあるのが、キャラが困った状態でも客は面白がったりします。それでもあまり深刻に困ってたら笑えません。大事なのは客がどう感じるかだと言う事です。
キャラの感情ではなく、客の感情をいつも考えろと言う事です。
この本の後の「物語」の章の所で書いてる事です。
物語とは「簡単に手に入らない何かを求めるキャラクターがいる」と書いてあります。
これも基本なので大事です。
なぜこれをここで行ったかと言うと「簡単に手に入らない」と言う事が、感情に訴えるのに大事だと言う事です。
つまり「当たり前で、あるのが普通だ」とダメだと言う事です。
当たり前は心に響かないと言う事です。
つまり感情は相対的だと言う事です。
私は昔から「食べ物で美味い物は皆感動するけど、普通に手に入る物でも十分感動できるくらい美味い物もあるよな」と思っています。ただの炊き立てのご飯にスクランブルエッグでも、焼いた食パンにバターだけでも、美味さレベルは値段が高い食べ物と同じだと思います。
ただ同じ物は飽きてくるのが人です。だから「食べた事のない」美味い食べ物に感動するのです。食べた事の無い物だから、値段が高い物になるのです。
人は、無い物が得られた時に感動するのです。
そして今は無い物でも、簡単にコンビニで買えるのなら感動はしない。なかなか手に入らない物で感動する。
しかもそれが努力の末でなくてはいけない。そこに頑張った歴史が感じられるからです。「魔王をたまたま倒せた」より「努力のすえ得れた皆の協力があり魔王を倒せた」の方が感動するでしょ?
物語のキャラは見てる人からは他人です。他人が成功するのに「運で成功するのか?」「努力で成功するのか?」と考えたら、「努力の上で簡単に手に入らない物を手に入れた」のを見せられた方が感動するのは分かると思います。
さてYoutubeで岡田斗司夫さんがゲーム「プリンスセスメーカー」の話をしてました。
ここで昔ガイナックス時代「どうやったら人を感動させられるか?」を考え、実践してたようです。そんな昔にそんな事をやってたのはすごいと思いますが、今一理解してない様に聞こえました。
なので私の意見を書きますが、まず前提として私は素人です。だから私の意見も疑って下さい。皆さんがこれらを下敷きに、自分で答えを出す事が良いでしょう。
岡田さんがハインラインが書いた小説の中のキャラの事を話してました。
このキャラが言うには(つまりハインラインが言うには)「笑いと言うのは攻撃か、攻撃の裏返しでしかない」だそうです。
たぶん違います。
これはハインラインも岡田さんも、同じく出て来る他の要素が必須条件だと勘違いしたのだと思います。
例えば料理をする。これは「能動的に手を使い行動する」事だと思う。これは大抵あってますが足を使っても料理は出来る。
では能動的にはどうか? 未来においてボタンを押すだけで料理が出来る。これだと能動的行動に見える。しかしその時は作らないで「腹が減った」と機械が心を感知した時に、自動で料理を作るしたら。それがボタンを押してから10年後なら。これなら、料理とは能動的にやる行為だと言えるのだろうか?
つまり料理とは「能動的に手を使い行動する」が大体あっていたとしても、実は必須条件では無いと言う事です。
体験からあってるからと言って、正解だとは限らないと言う事です。
つまり笑いが「攻撃か、その裏返し」が大抵あっていたとしても、そうでもないかもしれないと言う事です。そして私は違うと思っています。
有名な話で、桂枝雀さんと言う落語家が笑いを研究して出した答えがあります。
笑いとは「緊張の緩和だ」と言うのです。
私は今回考えてみて、やはりこれが正解だと思いました。
後は何を緊張と思えるのか? 何を緩和だと思えるのか? の話になるだけだと思います。
笑いを理解する為に「そもそも動物としての人にとって笑いがなぜ必要だったのか?」を考える事が大事だと思います。
まだ人類が言葉を話せない時に必要な物だった事でしょう。
そしてたぶん何かしらの緊張状態があり「しかしこれは大丈夫だよ」と仲間に伝える情報伝達手段だったと思います(何度も言うけど素人考えです)。
だから緊張の緩和の時に笑い声をあげるのです。仲間への「大丈夫」の合図です。
緊張は人には不快です。だから緊張の緩和は不快からの緩和になるので皆喜ぶのです。
(例えば、昔々、村に向かい槍を持った男が歩いて近づいてくるのが見える。村人は緊張して、強い村人達が同じく槍を持ってその男に近づいて行く事でしょう。近づいて行き、近づいた村人達は笑い声をあげる。実は近くの村に移り住んだ兄妹だったと分かったからです。近づいた村人が笑い声をあげたのを見て、残った村人にも「これは大丈夫な事だ」と伝わった事でしょう)
ここで大事なのは「どうなるか分からない緊張状態」であると言う事です。
それが「予測できない解決策」で急に解決する。だから急激に知らせる必要があるのです。
予測できる解決策は、皆も予測してるので急に知らせる事も無いのです。だから成功するのか? どうなるのか? の緊張状態が成功で終わった時に笑う人はいません。サッカーのピーケーのゴールシーン等です。これは喜ぶだけです。
貧乏人が転んでも笑えない。人は格好つけている金持ちが転ぶと笑うのです。
格好つけてる金持ちの存在は、普通の人には緊張なのです。それが転ぶ程度の事をするのは「緊張する事もない程度の人だ」と思える。
それに自分が下に思えてた事も少し緩むのです。金持ちの立場がちょっと下に落ちたのが、緩和なのです。
そして急に転ぶのは予測が出来ない事です。転ばなそうな格好を付けた人ほどいいでしょう。
しかし金持ちが車に引かれるでは笑えません。それは緩和にならないからです。だから転ぶで笑うのです。
等の事からお笑いの人がするのは「緊張状態を作る」その後「予測できない緩和をする」必要があります。予測できないオチを付けなければならないから、難しいのです。
そして「緩和」なので緊張させてもダメです。ひくようなオチは笑えないです。
男が女装をする、変なメークをする、タライが頭に当たる。これらも緩和です。良い歳の大人が自分を下に見せる事で、客は安心する。緊張する事もない大丈夫な大人だと思えるのす。
これは会社で社長が女装してきたら笑えません。タライが頭に当たるのも子供なら笑えません。そしてオネエが女装しても笑いません。
つまりは笑いとは「予測できない緊張の緩和」なのです。
さて岡田さんは「怒る」についても話してますが、これも反論します。
岡田さんは「自分がどうする事もできない状態になり人は怒る」と言います。
これもさっき言った様に、状況から「同じタイミングで出て来る為、必須条件を勘違いした」のだと思います。
「怒る」も動物としての人類が、アドレナリンを分泌させ、血を回し、痛さをあまり感じさせない様にする。戦う必要がある状況での、体の準備ですね。
だから完全に負けた状況では怒らないのが人です。
怒りながら逃げる奴も「今は逃げるけど後で見てろよ」と思い逃げます。気持ちは逃げて無いのです。
岡田さんが言ったのは「どうにかする事が出来る時は怒らない」と言う事です。
戦う時は危ない時です。どうにかできる時は戦うのではなく、対処するように頑張るのみです。戦う必要がないから怒らない。
「戦う準備」が「怒る」だと思います。
戦わなければならない位ひっ迫していると思っていて、しかも勝てると思っている時が怒る時です。
そしてやっと本題「感動」に対しての岡田さんの話です。
ここでもまた必須条件を勘違いしたと思っています。
ここでカール・イグレシアスさんの本「感情から書く脚本術」の「物語とは」が今一度大事になります。
物語とは「簡単に手に入らない何かを求めるキャラクターがいる」と言う事です。
そしてこの本では「感情(つまり感動)を売るのが物語だ」と言う内容です。
まとめると「感動とは簡単に手に入れないもが手に入った時」と言う事になります。
「手に入らないもの」とは「生きがい」「自分が生きてきた意味」「誰かの幸せ」「トラウマの解決」「他人からの承認」などの目に見えない感情に訴えるものです。
もちろん物理的な物も含まれますが、それ自体よりもそれを得た事により得れる感情が大事です。そもそも映画は感情しか客は得れないのだから、そっちの方が大事なのです。
つまり生きて行く土地や町が得れた事よりも、それから得れる感情「安心」「幸せ」が本当に欲しいものだと言う事です。お金もそうですし、友も嫁もそうです。それ自体が得れた事よりも、そこから得れる感情の方に感動するのです。
そしてここでも大事なのは、物語のキャラは他人です。他人なので「努力の上で手に入る」事が大事です。自分なら急に大金持ちになっても感動するかも知れませんけど、他人なら無理です。
人は共感力があるので「自分がそこにいて、それほど手に入らない物が手に入ったら感動するだろう」と思えるから、感動するのです。
だから自分が分かる感情でないと感動しにくいです。孫の幸せは年を取らないと分からない幸せです。なので多くの人が自分と重なる部分を増やす方が、多くの人を感動させられます。
努力は報われてほしい、と言う思いから努力が必要なのですが、これも努力の大変さを知っているので「自分の努力は報われてほしい」が前提とあり、そこで共感力が働いた時に「他人の努力も報われてほしい」となるのです。
そして他人が得れた事に感動する為に、その他人、つまりキャラクターが好きでないといけません。嫌いな奴の成功は喜べないのです。
それと物語自体に感動する事もあります。簡単には手には入れない素晴らしい物語自体が得れた事に、感動するのです。
岡田さんが言うには「トップをねらえ」の時に庵野さんは「人は奇跡に感動する」と言ってたようです。
これも分かりにくくする間違いです。
これも「努力の上で神が奇跡的な物をくれる」事に感動してるだけです。
あくまで努力が実り、それを物語には出て来ない神が認めてくれ、奇跡を与えられるから感動するのです。
感動させる物語を描きましょう。
感動とは「好感の持てるキャラが、簡単に手に入らないもが手に入った」時に湧いてくるのだと思います。
そして好感の持てるキャラが自分自身の時は「簡単に手に入らないすばらしき物語」が手に入った時に、物語自体に感動するのです。