号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

来たぜ、小津安二郎!

「鎌倉で安らかに眠らさねえからな!」

 

映画「秋刀魚の味」考察です。

 

謎のハイテンションでお送りしております。

 

しかし小津安二郎は1903年生まれ。「天井桟敷の人々」のマルセル・カルネ(1906年生まれ)や、フェリーニ(1920年生まれ)よりも年上です。

寺山の「書を捨てよ、町へ出よう」の9年前に、世界に名だたる古き日本人、小津がこのような作品を世に残したと知ったならば、テンションが高くなるのはしょうがないのです。

 

なぜ、秋刀魚が出て来ないのか?

なぜ、軍艦マーチなのか?

なぜ、サッポロビールなのか?

 

偉そうな口上で始めましたが、実は私もヒントをもらっています。

そのヒントがなければ、気が付かず、流して見てしまったと思っています。

 

youtubeを見ていて、面白い考察をしている方がいました。

その人が言うには、この作品の途中にバーに行く時、外の看板が映るのですが、そこに「泉」と言う看板があります。この看板の横に、他の看板が映っていて、それが黄色だと言うのです。

そして「黄」と「泉」で「黄泉」を表しているのだろう、と言う事でした。

他にも、このバーのママが、笠智衆の役の死んだ妻そっくりだと言う事。

笠智衆が乗っていた朝風と言う駆逐艦は、戦争中に沈んでいる事。

などから、「このバーは黄泉を表している」と言うのです。

あっているでしょう。

ただ残念なのは、ここから広げて無い事です。

これは明らかに小津は仕掛けてきてるので、ここから探れば、真実にたどり着けたのに、おしいね。

 

なので、勝手に私がバトンを引き継ぎ、答えを出そうと思います。

まあ、助けあいが必要ですからね。

 

まず、これとは別に聞いたのが、小津の作品は、白黒からカラー作品になってから、よく赤色を差し色に使うようです。

しかし「赤」ですよ。この時代に赤色とくれば「あやしい」と思わなければならない。

 

実際「秋刀魚の味を」見てみたら赤色が出て来るばかりか、サッポロビールがよく出て来ます。しつこいくらいです。最後のシーンまでマークが出て来るくらいです。

なので確信しました。「これは、来たな」と。

 

「赤色」とは「東側」、つまり「共産主義」「社会主義」の事です。

この当時のサッポロビールのマークは、今と同じ星マークですが、この頃は「赤い星」マークなのです。

赤い星とは? もちろんソ連の国旗の事です。

 

赤があちらこちらと、差し色で出て来る。

これは、世間が赤化していると言う暗喩です。

ここで大事なのは、笠智衆の娘、岩下志麻のスカートが赤だと言う事です。

岩下志麻、私の年では、この頃の顔見ても分からないなあ。ただ横顔とかで一瞬私の知ってる岩下志麻に見えるけど)

 

そしてこの映画が1962年です。

実は見る前から、この年代から、小津がやるだろう事は予測してました。

71年の「書を捨てよ、町へでよう」が70年安保なら、62年のこの作品は60年安保ですね。

 

笠智衆の子供、佐田啓二にゴルフのクラブを売る男、吉田輝雄(役命は三浦)の場面、いらないと思いませんか?

吉田輝雄岩下志麻の思い人だった、と言う事だが、その吉田がなんでクラブを売るシーンが必要なのか?

「意味が分からない所に暗喩あり」これが暗喩を理解する基本です。

佐田啓二中井貴一の父親ですね。言われてみたら面影がある)

 

吉田が売るクラブ、四本です。

あれが北方領土の事です。

すなわち、吉田がソ連なのです。

 

1956年の日ソ共同宣言で、歯舞群島色丹島は平和条約締結後、日本に返す予定でした。

しかし1960年に「日本から全外国軍が撤退しないと返さない」と言い出し、結局帰って来てません。

だから、映画は事実とは違うのですが、この頃はまだ「落ち着いたらいつか帰ってくるだろう」位に、楽観的に思っていたのかもしれませんね。

「いつか自分の物になるだろう」が「クラブをローンで買う」で表していたのです。

 

だから赤いスカートをはいた岩下志麻は、赤に半分染まった子供達の事であり、彼女はソ連と一緒になる事を望んだ、と言うのを「思い人」と言う事で表したのです。

 

面白いのは、ソ連アメリカ、確かにどっちかとしか一緒にはなれない。

その事を結婚で表したのです。

岩下志麻が結婚したのが、親が進めた相手、すなわちこの頃の権力者が進めた相手、アメリカの事です。

これが60年安保の暗喩だったのです。

(結婚相手、なぜまるっきり出て来ない? と言われてます。不自然でしょ? 実は暗喩が分かれば、後はどうでもいいからです)

 

恩師「ひょうたん」事、東野英治郎は何か?

彼は漢文の先生です。そして過去は恩師だった相手であり、今はラーメン屋のおやじです。

すなわち「中国」の事です。

Wikiによると、ひょうたんは中国で縁起物らしく、いまでも吊るされて売られているようです。

中国に戦争に行ってた小津は、その光景を見ていたのかもしれませんね。

東野英治郎は初代黄門さまですね。この人だけは私の世代でもこの印象のままです)

 

東野英治郎は鱧を食べます。

この時分かりやすく説明をする「魚変に豊と書いて鱧か」と。

すなわち、豊かさに目がくらんでいる中国の事でしょう。

日本にとったら、中国からは漢字も来てるし、文明も来ていて、ずっと日本より先進国でした。

それがここ数百年だけダメでした。その事をこの恩師で表しているのです。

 

1960年頃の中国は、ソ連とも仲が悪くなってる頃です。だから「一人ぼっちだ」と言うのです。

そして、だから娘が泣くのです。

笠智衆の娘が嫁に行くのが60年安保だと言うのなら、ソ連と仲が悪くなった事を、娘が嫁に行けなかった事で表しているのでしょう。

 

その上この頃中国は飢饉であり、数千万人も死亡者を出します。

だから東野英治郎はがむしゃらに食べるし飲むのです。

 

「中国の様になってはいけない。自分らの子供には誰か守ってくれる人が必要だ。だからアメリカとくっつこう」と言うのが、60年安保だったと言う事でしょう。

 

なんで秋刀魚は出て来ないのか?

それは「秋刀魚の事を言いたいのではない」と言うヒントです。

 

刀は日本の武器です。古い武器です。

それに海にいる魚をかけて、海軍の事です。

 

秋とは? これから冬に向かうかも知れないと言う事です。「危ういぞ」と言う事でしょう。

それと「海軍はもう駄目だ。お終いだ」と言う事でもあるのでしょう。

 

これはあのバーの事と同じです。

あのバーで軍艦マーチが流れる。

黄泉を表しているバーで軍艦マーチが流れるのだから、これも海軍は終わりだと言う事です。

昔の勇ましい海軍はもういない。死んだ。と言いたいのでしょう。

これは60年安保で「守ってもらえないと、生きてはいけない」と言ってるからです。

 

ちなみにこのバーで海軍式の敬礼を見せますね。海軍は狭い所で敬礼をするので、ひじを横に伸ばさないのが基本です。

しかしこの敬礼、流石に不自然でしょ? 手が頭ではなく、顔の前に来ている。

これは「南無さん」と言う死んだ者にする手の仕草ですね。これも海軍が死んだ事を表しているのです。

 

ではなぜ海軍なのか?

それは軍艦マーチを使うからです。軍艦マーチを使いたいが為に海軍にしてるのです。

「守もるも攻むるも黒鐵の 浮かべる城ぞ頼みなる」と言う歌詞が大事なのです。

この映画の暗喩で言えば「浮かべる城ぞ」とは日本の事です。

80年代に不沈空母と言ったとか言わなかったとか問題になりますが、中国やソ連に対する近くにいる浮かんでいる不沈空母、日本がアメリカにとっての「浮かべる城」だと言いたいのです。

この日本が不沈空母扱いにされるのに、戦争で生き残った権力者は、もはや死んだようなものだ、と言いたいのでしょう。

 

最後、良かれと思い娘を嫁に出した。すなわち60年安保を通した。

しかし「本当に、よかったのか?」と思っているのが最後のシーンです。

上にサッポロビールの赤い星が見えますね。あれが北にあるソ連の事です。

ソ連の事を鑑みて、日本自体がアメリカの「浮かべる城」になってしまったのは、本当に良かったのか? と言うシーンです。

 

面白いのは、しかし「嫁にやったのは正解だった」とも取れるように「アメリカとの60年安保も正解だ」とも取れる事です。

この辺の公平さは小津の良さですね。

良い悪いと決めつけない。

ただ、思いと悩みと感情と、そして事実だけが残る。

あとは、後世にならないと「良かったのか? 悪かったのか?」は分からない。

ここが結婚自体と同じなのが、また良く出来ていたのです。

 

 

小津も暗喩物語を作っていました。

もちろん、物語とは暗喩が全てではない。

しかしそもそも小津は、それ以外で既に喝采を浴びてます。

それに加え、「それだけではない」と言う事です。

小津は、やはりこの時代、世界でも飛びぬけた監督の一人だったのは、間違いがなかったのでしょう。

 

 

さて、おまけです。

1903年生まれの小津安二郎は、1963年に60歳で亡くなりました。

2023年現在から60年前です。

1971年に寺山の「書を捨てよ、町へ出よう」公開です。

すなわち、小津があと10年長く生きていたら、寺山と会って話したかもしれないのです。もしそうなら世界が変わっていたかもしれない。

小津がなくなり、次の年1964年に、幾原邦彦が生まれます。

1983年、すなわち今から40年前に、寺山が亡くなるのです。

この時幾原さんは、だいたい19歳です。

つまり、寺山があと10年長く生きていたら、幾原邦彦とあっていたでしょう。

そうであったなら、世界が変わっていた事でしょう。

 

しかしその世界が必ずいい世界とは限らない。

寺山と幾原があっていたら、ピンドラは生まれなかった筈なのです。

だとしたら、私にとったら、良かったのかもしれませんね。

 

これは小津と寺山が会わなかったのも同じです。

会って話していたら、寺山の人生が変わり、田園に死すなど出て来なかったかもしれないのです。

 

ネットで見ると、不思議なくらい寺山と小津の関連性が見えて来ません。

寺山が語った映画にも、小津の映画は無いようです。

だとしたら、寺山は小津に気が付いてなかったのかもしれない(私が知らないだけかもしれないけど)。

小津の最後の作品「秋刀魚の味」の暗喩に気が付いていたなら、寺山の人生は変わって無かっただろうか?

 

結局、起きなかった事は誰にも分からない。

だからこそ、起きた奇跡を喜ぼうかと思います。

宮崎駿富野由悠季押井守庵野秀明、そして幾原邦彦

これらが同じ時代を闊歩している事実を、奇跡と思い、喜ぼうかと思うのです。