号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

小津の考察

小津安二郎の考察です。

 

カメラアングルについて。

イマジナリーラインについて。

そこから「ゴジラー1.0」の事に付いて、また文句も。

おまけで「お早よう」を見たので、その簡単な考察。

 

カメラの事です。Wikiによると、「小津の特徴として、ローアングルと言われるが、あれはローポジションの事である」だそうです。

ローアングルとは、下からのあおった撮り方、つまり見上げた撮り方の事である。

しかし小津の作品はカメラ位置が低いだけで、カメラはほぼ水平なので、ローアングルではない。だからあれはローポジションである。

と言う事らしいです。

これをきいて「なるほど!」と私は感心したのですが、実際映画を見てみるとローアングルでしたね。あれ?

ただ「少しカメラを上にしてるだけで、大体水平だ」と言いたいのかもしれませんが。

(パースの消失点が画面真ん中ではなく、画面下三分に一くらいでしたね)

 

このローアングルを使う一つの理由は「能の影響じゃないか?」みたいな事を山田玲司さんは言ってました。たぶんあってはいる。

この時、奥野君が「歌舞伎の高さじゃないのか?」みたいな事を言っていて、これもあっている可能性があります。種類があるようですが、能より歌舞伎の方が舞台が低いので(低いと33センチの高さだそうです)こっちの方が小津のカメラ目線に近いですね。

 

では、なぜ舞台は席より高いのか?

それは単純に見やすいからです。

でもそれだけではない。

 

誰が言ってたか忘れましたが「少し高い場所、特殊な場所でやるから、演劇や芸は見れるのだ」と聞いた事があります。

これは、例えば歩行者天国でパントマイムなどをやるのを見た事がある人は分かると思いますが、同じ高さにいると、大した事が無いように見えるのです。

ちょっと高い所にいて、「自分らとは違う世界」であり「自分らより上の立場」と見せる事により、精神的に見てられるようになるのです。

「見せれる芸が出来る人」だと、始めに精神的に客に教えておくと言う事です。

もちろん「演劇者や芸人として上の立場」でしかなく、それ以上偉そうなら客が頭に来るから、勘違をしてはいけないけど。

(芸ではなく違う事でもそうだと言う事です。学校の教壇や、演説の為の舞台なども、高い場所にしとく事が大事だと言う事です)

これの影響から映画でも、ちょっと上に見上げる風景にする事により「見る価値がある芸である」と、精神的にうったえれるのは覚えておきましょう。

ただ、見上げすぎると偉そうすぎるので、「カメラをちょっと上に向ける」程度が正解です。

 

映画のカメラアングルとかの本で書いてあったのですが「人を強そうに見せるには、あおりの絵にする(見上げた絵にする)」逆に「弱そうにするなら、少し上から見下げた絵にする」とありました。

(おまけとして他にも、強そうな人は大きく描く、画面の真ん中に描く。逆に弱そうなら小さく、画面のはじに描く、とも書いてありました)

 

ただ、一番自然に見えるのは、人の顔の高さにカメラをすえる事です。人はその高さでいつも物を見てるからです。

 

人を映す時、大体は体も入れます、バストショットとか足まで映すとかです。

なんでもいいので人が映っている映像を見てもらえば分かりますが、普通は、顔が画面の真ん中より上に位置します。

カメラを顔の高さにすえて、体も映し、しかし顔が画面の上の方に位置する普通の絵を撮ろうとしたら、どうするのか?

それは「カメラを下に向ける」のです。それしかない。

つまり、カメラを顔の高さにすえたら、ほとんどの絵が下向きの絵になるのです。

 

もちろん、顔はカメラの高さだから、上から見下げた弱弱しい絵には見えないでしょう。

だけど、体は見下げた絵になる。

それにカメラを下に向けてるから、背景への目線が地面に向く事になるのです。

 

たぶん、一回くらいなら「ちょっと下向きのカメラに映る背景」など気が付かないでしょう。

ただ、ずっとそれで撮ると、暗い感じ、もしくは狭い感じに目に映る事でしょう。

 

ただ、この「下向きの見た目」と言うのは、さっき言った様に実は自然です。

人は、大体は水平より下を見て生きてます。それは歩いていて、つまずかない為です。他にも、食べるにも、文字を書くにも、本を読むにも下を向いているでしょ? だから下向きは自然なのです。

しかしこれは「実際の世界では」と言う事です。映像にすると、意味が付いてしまい、違う物になるのです。

実際「映像にすると、意味が強くなります」

 

今は便利ですね。みなスマフォを持っている。だから写真は誰でもすぐに撮れます。

外に出て、例えば分かりやすいように道に沿って写真を撮ってみて下さい。まず水平で撮ってみて、次に同じ場所を少し下向きで撮り、もう一回少し上向きで撮ってみて下さい。

そして比べてみて下さい。

たぶん下向きは暗く、狭い印象になると思います。水平はもっと明るく、上向きは更にハッピーに見えませんか?

 

人は、下向きの道を見てるのがほとんであり、だから下向きこそが自然なのだが、絵にすると暗くなる。つまり印象が強くなるのです。

これは、他の事を写真で撮っても分かります。ちょっと気になった所を撮ってみて下さい。電信柱でも、自動販売機でも、人ごみでも、ビルでも、なんでもいいです。

それを写真で見ると、印象が違いませんか? 意味が強くなりませんか? 明るく見えたり、暗く見えたり、意味ありげに見えませんか?

写真や映像にして切り取ってしまうと、印象が強くなるのが分かってくれたでしょうか?

(人は一か所ばかり見てる訳ではい。一分その場所を凝視したとしても、一時間の60分の1でしかない。現実世界と言う同じ世界の中の一瞬だから、印象が少ないのです。写真にすると、精神的に、その世界内で見ている物の全てになるし、周りが見えないから意識が他にはいかない。だから写真にすると印象が強くなるのです)

 

つまり、暗くならないように、下向きで地面の面積が多くなる絵を避けたい時は、カメラを水平にするか、少し上にするしかない。

水平にして、顔が画面の上に位置するバストショットを撮ろうとしたら、カメラの位置を顔より下にすえるしかないのです。

そして日本らしく、畳に座って生きている日本人を撮ろうと思ったら、かなり低い位置にカメラをすえるのは、もはや当たり前の事なのです。それをやったのが小津です。

(小津も、畳の部屋ではなく椅子の時はカメラをもっと上にすえるようであり、あくまで相対的に少し上目線になる様にしただけのようです)

(逆に、暗い映画や、狭い所に閉じこまれた感じの映画を撮りたかったら、カメラを比較的高い位置にすえるのが良いと言う事ですね)

 

ただ、小津の場合は違う可能性もある。

小津は細かい人だそうです。細かな配置や絵のずれが気になるひとらしい。

たぶんこれは生まれつきでしょう。ちょっとしたアンバランスが気になるのは、みんな多かれ少なかれあるのですが、たまに強く気にする人もいますよね?

カメラをほぼ水平にすえた方が、左右上下バランスがいい絵が作りやすいでしょう。だからバランスの為に、下にカメラをすえた気もしますけどね。

 

どうも今の他の作品でも、カメラを顔より下にすえる事はするようです。

そうすると、明るめに絵になるし、見る気が起きる(舞台の様な)上目線の絵になるし、良い事ずくめだからそうなるのでしょう。

 

ちなみに、たぶん小津がそう思って作ってないと思うのですが、私が気が付いた事も書いときます。

この絵、どこか懐かしい気がしたんだよね。

なぜだろう? と思っていたら、これは「子供の目線」だったからです。

小学生に上がる前くらいの子供が座ってみる絵が、丁度この位です。

日本人にとったら、この絵は懐かしい絵に見えて当たり前だったのです。

 

他の事です。

「カメラがイマジナリーラインを超えてはならない」と言うのが定石だそうです。

二人の人が向かい合って話す時、アップの絵でAさんが右を向いて話していたら、Bさんは左を向いたアップで撮るのが定石だ、と言う事です。

で、これを無視する事があるのが小津だったようです。

小津は「別に始めに位置関係を見せておけば、別に気にしなくてもいいだろ」と言う様な事を言っていたようです。

そうだと思いますが、このイマジナリーラインを超えないルールを守った方が、見やすいのは間違いがない。

間違いが無いが、絶対ではないと言う事です。つまりそこまで大事ではないと言う事です。

(これが、あとのゴジラの話で大事になってきます)

 

他の事。

今では「カーテンショット」と呼ばれる、シーンの繋ぎに背景を映す、と言うのも小津がよくやったようです。

このカーテンショットが私は昔から好きです。みんな、これが良い事が気が付いているのかな?(あだち充さんが漫画でよくやります。皆もっと真似しましょう)

 

人は背景を見ます。

それで現在地を把握するのが本能なのでしょう。

例えば、ビルなどの大きい建物に入ったとします。大体は外が見えない建物だったとします。そこで上の階に登って行き、ちょっと窓があったとしたら、外を見るでしょ?

その窓から見える景色が必要な人はまずいない。見なくてもいい物です。でも間違いなく見るでしょ?

つまり、人は自分の場所を把握しておきたい生き物なのです。じゃないと逃げ道が分からなかったり、迷ったりして、生き物として生き残れないからですね。

 

だから、背景を見せる事により、場所や状態が納得しやすいのです。それに気持ちが落ち着く事もある。

誰も気にしてないけど、いつも背景を見てるからです。学校では学校の背景を、家の中でも家の中の背景を、実は良く見てるのです。

その場所の状態を納得させる為には、背景を見せるのが一番なのです。

 

 

さて、恒例の文句です。

ゴジラー1.0」で文句の文句を言いました。

「良くない所は、それはそうだけど、そこは大した事が無い」と私は言いました。

ただ、良くない事には間違ってない。ただ「必須ではない」と言いたいのだが、これは感覚のことなのでどう説明しよう? と思い、結果「無理だな」と諦めました。

しかし、このタイミングで小津を見て、伝えられそうだと思い説明します。

 

小津の作品は、イマジナリーラインの問題もそうだし、役者も多くは棒読みでしょ?

秋刀魚の味」のゴルフクラブを売るシーン、いらないでしょ?(これは暗喩だからいるのだけど、暗喩だと気が付いてないのなら、いらないと思わない方がおかしい)

なんで自称評論家は文句を言わないのか?

それは「小津の作品を悪く言ったら、自分の方が叩かれる」からです。

 

小津は能を知っている(晩春ででてくるし)だから、物語で人の表情がなくても成立する事を言っている。

能から、台詞が不自然でも成立する事を知っている。

小津は無声映画からやっている。これも台詞がなくても物語が成立するのを知っていると言う事。

他にも、本はどうなのか? 人形劇は? 影絵は?

それらで成立するのだから、皆が絶対だと思っているのが、小津は絶対では無い事を知っているのです。

 

山崎貴監督を悪く言う人がいる。

色々前の作品で酷いのがあるし、ゴジラでも分かりやすい問題があるのは認める。

でも良い所が無いのか? ゴジラは差し引きプラスだと思えないのか?

本当にあなた達が言っている事が、必要なのか?

「いや違うやり方の方が良い筈だ」と言いうでしょう。あっています。しかし小津のイマジナリーラインの事だって、守った方が良いのですよ。

ゴルフシーンも無い方が良いのですよ(暗喩だと気が付いてない人ならね)

 

たぶんイマジナリーラインを無視したのが小津ではなく山崎監督だったら、たぶんボロクソに言うでしょう。「素人だ」とかなんとか。

山崎監督の出て来る役者が棒読みなら、それもボロクソに言うでしょう。ゴルフクラブを売るシーンがあったら「基本の物語も作れないのか?」と言う事でしょう。

 

今回の山崎監督を悪く言う自称評論家は「山崎監督が」と先に名を置いてから話します。これは何か?

これはイジメと同じです。

「ほらまたあの山崎監督だから、悪く言ってもいいよね?」と顔色をうかがってから話している。

逆に同じ事を小津がやっても言わない。それは強い奴を叩くと、自分がイジメられるからです。

 

物語の話でろくな事も言わず、人と言う生物も分からず、イジメと同じ行動をして、その行動原理がイジメと同じだとすら気が付かない自称評論家は、本当に邪魔です。社会の邪魔です。

 

悪い所を言うのなら、小津作品をボロクソに言ってからにしてほしい。言えないのなら何も言うべきではない。

もしくは小津作品の問題点が悪くないと証明してくれ。それも出来ないのなら、本当に消えてほしい。

 

小津は「皆が必要だと言うのは、必須ではない」事を証明してくれたと思っています。

無声映画からやっている有名な人が、既に証明してくれてるのです。はるか昔にです。

評論家と言ってる人は、小津作品を見て勉強し直してほしい。

評論家と言う生物の多くは、昔々の小津作品だって、何も分かってないじゃないか。

 

 

さて、最後に小津の「お早よう」の考察です。

実は良く分からない。この時代の細かな社会情勢が含まれているからです。

「社会情勢」などと言うのだから、もちろん暗喩の方です。

暗喩がなければ、変な作品でしょ?

 

小津は「晩春」から怪しいとは思っていました。

「暗喩でやって来る可能性があるな」と思っていました。

いくつか見てみると、やはりこの人もそう言う人でしたね。寺山とかと同じインテリ暗喩監督でした(たぶん、後半からだとは思うけど)。

 

私は前から思っていた事があります。

それは安保闘争の事です。

あんなにもめなくとも、「与党も、もっと分かりやすく話せば、世間にも通じたんじゃないのかな?」と思っていたのです。

(もちろん、この頃の国民が今と知っている情報は違います。社会主義国がやばい国ばかりだとかです。なので国民全てを納得はさせれないだろうけど、もっと多くは納得させられた気がするのです)

さて、早くも結果です。1959年の「お早よう」は、たぶんこの事です。

 

子供達の服に、赤い線が入っているのが気になってました。

「赤化した子供世代のことかな?」と見る前から思っていたけど、そうでしたね。

テレビを見せてくれる赤い服の女と、外国人の顔立ちの男、あれがソ連かな?

ソ連が良さそうに見えていたがいなくなり、結局残ったのは英語の先生、だから彼がアメリカかな?

ちゃんと話さないから、大人同士でも話が通じず、子供ともいがみ合う、と言う事を言いたかったのだと思うです。

それで大事なのは、大した事でもない日頃のコミュニケーションだと言うのです。他愛のない挨拶に、そこからの他愛もない話。それから始めるべきだと言うのです。

その通りです。流石です。

 

たぶんですが、小津はテレビを肯定していたと思うのです。

テレビからでいいので、ちゃんとした情報を国民に流すべきだと思っていた、と思うのです。

血の通った人が、顔が分かる映像付きで、ちゃんと国民に向けて話せば、もっと通じあうと思っていたと、思うのです。

 

実際は、情報の偏りも含めた良くない事もテレビはするようになるのですが、大体は国民がまとまるきっかけにはなったと思います。

もちろんそれは、1959年から、2~30年かかりますが、それでもまとまる方向に向かったのは間違いがない。

小津がその事に気が付いていたとすれば、やはり流石としか言えないですね。

 

23年12月1日 追加

 

あと考えられるのは、テレビを見せていたのがソ連の事だとして、ソ連に頼らず、自国でテレビ、すなわち皆が欲しい物を提供できれば、子供達(団塊の世代)も納得させられる、と言う暗喩としてテレビを使ったのかもしれません。

テレビはナショナル製で箱の段ボールに赤色が入ってました。

つまり、日本独自の共産主義っぽい要素(人々を平等にする要素)を国民にあげればいい、と言う事かと、気が付きました。

 

おばあちゃんの事もそうで、団塊の世代の親の、更に親の世代の事は悪く言うくせに、何か困った事があれば頼りにする、と言う事を言いたいのだと思います。

子供とは、時に馬鹿な事をする。しかしちゃんと話を聞いて、パンツくらいはかせてやれ、と言う団塊の親世代のちょっと上の、小津からの提言だった気がしてきました。