この映画の元になったのが、芥川龍之介の小説「藪の中」だそうです。
「藪の中」は「真相は藪の中」の語源なのでしょうね?
この小説でも、何人かが事件でおきた事を話すが、嘘が混ざっていて、結局真相はわからないのだそうです。私は読んでませんが。
それともう一つ芥川龍之介の「羅生門」の方もかけて、この物語を作ったようです。
この「藪の中」と「羅生門」両方をかけて作った事が秀逸ですね。
だから見ようと思ったのですが、結果から言うと今一でした。
黒沢の映画は、上手い具合にエンターテインメントにはなっていると思います。
それはそれで良いのですが、元の芥川龍之介が良すぎたのでしょう。芥川の凄さにはかなわなかったように思えるのです(小説を読んでないのは、もう言いました。だからその程度のやつの感想と思って聞いて下さい)。
まず芥川の「藪の中」は真相がわからない作りなのだそうです。
それで「現実でも真相など分からないものだ」という事になるし「分からないことからの余韻も残す」ことになる。
基本私は、真相が分からない物語は嫌いなのだが「この話は真相が分からなくても良い作品だ」と言う作りだから、これで良いのでしょう。
真相が分からないことから「人の気持ちや考えや行動など分からない」という事を描いた事になるし、それがちゃんと物語上見えるからこそ、真相がわからない事で通るばかりか、その方が良いという作りなのです。
逆に黒沢の映画だと、最後に真相が分かってしまう。だからメッセージ性がブレるのです(杣売りが短刀を盗んでいたと言い、結局本当の事は分からないと、ちゃんと気にした作りなのだが、そこまで上手くはないと言う事です)。
「羅生門」の方もそうです。
芥川の「羅生門」は最後死体から盗むやつを見て「じゃあ俺もやっても良いのだな」という話であり「罪人は罪人を生む」「例えそれがしょうがなくても、負の連鎖を生む」「しかし生きるためにはしょうが無い」「何が本当の悪で、何がしょうがないのか?」などの葛藤を生む物語です。
生き物としてどうなのか? しかし、人としては、どうなのか? と良い悪いだけではなく、読者に考えさせる内容になっています(この読者に考えさせるの所も藪の中と同じです)。
しかし映画だと答えの多くを言ってしまう。
多くを言ってしまうから、考える余地がないのです。
「赤ん坊を拾った男が良いやつで、世の中捨てたものじゃない」という話で決着してしまい、考えなくなるからです。
などの事から、文学的な才能で言ったら明らかに芥川龍之介の方が優れている。
しかし映画として見て、エンターテインメントとしたら別に悪くはないです。一般人が見れるエンターテインメントにはなっている。
そうは言っても、芥川の作品からそこまで内容を変えてないのに、芥川に遠く及ぼないとなると、どうも気に入らないのは確かです。
羅生門とは何か?
平安京や平城京などの城塞都市の入り口の門だそうです。普通は南にある正門の事です。
元は羅城門と言っていたが、なまったのか? ずれたのか? 羅生門と呼ぶようになったのだそうです。
「羅」という漢字は「とりあみ」などの意味だそうです。鳥を捕まえる、網目の小さいアミの事でしょう。
そこから「つらなる・ならべる」と言う意味もあり、さらに「うす着物」の意味でも使うようになったようです。これも小さい目のアミのイメージから付いたのだと思います。
なので「網羅」とか「森羅」とか「羅針盤」とかに使われますね。
「羅城」(らじょう)とは城を囲ったもので城壁の事です(アミで取るように全体を囲ったという事でしょう)。その門だから羅城門です。
羅生門(らしょうもん)は「らじょうもん」から「らしょうもん」なり、それに合う漢字を当てて羅生門になっただけのようです。
しかし羅城門が「城を囲んだ物の門」だとしたら、羅生門は「生き物を囲んである」と読め、そこから「生きる事全て」の「境界線上の出入り口」とも読めるのです。
芥川は「今昔物語」の、羅城門なんたらかんたら……という文を元に「羅生門」を書いてます。
この、元は羅城門であったが今は羅生門と呼ばれる門から、さっき言った意味を見出し「生きるという事はなんなのか?」そして「その分岐点とはなんなのか?」と言う話に持っていけると思ったのだと、思うのです。
元の羅城門の内容と、新たなメッセージを、題名を羅生門にすることで両方取り入れることが出来ると気がついたと、思うのです。
しかも小説ではこの門上で話が行われる。つまり境界線上で行われる事から、生きるために盗む事を悪いとも良いと言ってはいないのです。
この辺の作り方が、芥川の凄さですね。
この凄さが、映画の方だと薄れてしまってるのが残念です。
ただ黒澤も気にしてはいる。
最後赤子から服を盗んだ男が出ていったのが、オープニングとは別の方向です。
そして赤子を抱き出ていく男が向かったのが、オープニングの方向であり、盗んだ男とは別の方向に向かっている。この辺はちゃんと考えられてます。
細かなことで、黒澤の方は良くも悪くも映画の作りの定石通りです(小津と違い)。
人を小さく上から映したり、真ん中からずらして映す人は、弱く困惑している。
最後の赤子を抱いて出ていく時は、天気も晴れて来ていて、人を真ん中に大きく映し、しかもあおりの絵です。
まあ今や普通でしょうが、普通が大事ですね。小津がおかしいだけです(でも悪いとは言ってませんよ)。
ちなみに、この「多数の人が、違う事を言う」という作品は多いです。
だからこの作品を見ても、別に大した事はない。
ただ、こっちの作品のほうが先で、ほとんどの作品が後なのだから、それはしょうがない。
しょうがないのだが、たまに「歴史上価値がある」だけではない作品が作られるから、それと比べてしまうのです。
私にとって「ゴットファーザー」は古い作品であり、歴史上価値があるだけの作品です。
しかし「2001年宇宙の旅」の方は、今でも他にない凄さがあります。
他にも日本漫画会の深い物語を始めた最初の人、手塚治虫もそうです。手塚は、始めた人だから価値があるのでは無い作品も作っているのがすごいのです。「火の鳥」や「ブラックジャック」などです。
だから羅生門は、歴史上価値がある作品にしか見えませんね。
もちろんそうは言っても、今でも見てられる作品にはなっています。
だから見ても損はないでしょう。
あとは、細かなことで、ネットで見ても誰も言ってないようなので書いときます。
最後の赤子、わざわざ「お守り袋」も入ってるじゃないですか。
だから母親が、あの嘘つき女だと思いませんか?(始めに死体を見付けたというシーンで落ちてたのがお守り袋です。死体を見付けた話は嘘でも、お守りがあったのは本当でしょう。嘘を言う必要がないアイテムだからです)
母は金持ちだから、高い服を付けて置いてある。
たぶん死んだ旦那の子だから、置いていったのでしょう(もしくは山賊の方の子か?)。
(母を探したり、巫女を呼んだりして、判決まで半年ぐらい係ったのじゃないのかな? 山賊の方の子だとしたら、一年弱。季節感的にはこっちの方が近いかな?)
短刀が母のであれ、最後は拾われたこの子のために使われるのだから、いいでしょ?
良くもあれ、悪くもあれ、因果応報だけでは測れないのが人生です。
などの事からも、まあこの映画、すばらしいエンターテインメントであったとは思います。