どうやら、アニメ「水星の魔女」のイベントがあり、つつがなく、何事もなく終わったようです。
は〜。だからダメなんだよね。ここで映画化発表でしょ? 普通なら。
アニメ「水星の魔女」考察の、最後だと思います。
それとは別に、制作には何が大事かが分かってない気がするので、書きます。
最近考えていた事は、寺山修司が優れていて、他のアニメ監督が劣っているところって何だろう? って事です。
みんな、すぐ寺山の表ばっかり気になりますね。だから本当に大事な要素に気が付かない。
大事な要素を「お弁当」で例えます。
顔を白く塗る所や、不気味な演出に気が行きがちです。こんな物は弁当に付いてくる、お新香みたいなものです(だから意味が無い訳ではないけど)。
もう少し頭のいい人だと、社会的な発言や物事の深い考察の方に目が行きます。これが弁当のおかずでしょうか?
もっと分かっている人だと、暗喩に行きます。大事だし、そこにいつもあるのに気が付かない物です。これがご飯です。
しかし、そもそも大事な要素に気が付かないのが人です。
寺山の大事な要素は「人を喜ばす」(なので人を驚かす)事です。これが弁当箱です。
弁当に大事なのは、弁当箱だったのです。だって箱がない状態の弁当を思い描いてくだい。どうすんの? 意味がないでしょ?
この「人を喜ばす」事を念頭においている人って、意外と少ないのです。
宮崎駿、富野由悠季、高畑勲、庵野秀明、そして幾原邦彦。これら全ての人が、人を喜ばす事が一番大事なのだと、気がついてないか、得意ではない人達です。
幾原さん事イクニさんで、得意で無いのだから、寺山の跡継ぎはいなかった事になるのです。寺山に近づいた人など、他にはいないと思う。
ただイクニさんは分かっていて(どの程度かは分からないけど)、作品を面白くしようとはしているのが分かる。
ただ得意ではないと思うし、寺山の飛び出した感覚もない。
寺山は映像だけではなく、実際に感じれる物でも人を喜ばそうとします。「映画のスクリーンを切っておいて、最後本当の人が飛び出す」とか「演劇で隣の客席に座っていた人が(仕込みで)話し出す」とかです。
たぶんサーカスなどの影響が大きいのだと思います。
これは映像という狭い世界の話ではなく、そのもっと外に、まず「人を喜ばす」があるのが分かっている、という事です。
「喜ばす」が先にあり、その中に「映像で喜ばす」があるのです。その事を理解していたのが寺山でしょう。
イクニさんも、ピンドラ映画化の時、何かしらファンに喜んでもらおうとしているのは分かったけど、どうしても「よくある映画化のファンサービス」程度だったのが、残念でした。
例えば単純な例で言うと、舞台挨拶の日に、私なら池袋に「ちんどん屋」でも練り歩かせます。
他にも、コスプレイベントが同じ日に、池袋であったと思うので、そこに参加者をいれます。
などの、飛び出した感覚はなかったですね。
他にも富野、高畑、庵野、この三人も「喜ばす」のが一番上にあるとは思ってないか、わかってない。
他人の為に作るのが基本です。自分のためだけなら、同人誌でいい。
しかし自分が喜ばないとダメなのも確かです。
これはバランスです。
前に言ったけど、これはコミュニケーション能力だと思うと、分かりやすいと思います。
誰かとしゃべる時、自分が話をしているだけだと失敗です。だけど他人が話しているだけでも失敗です。
自分の意見だけ通すのも失敗だし、他人の言ってることを全て受け入れるのも失敗なのです。
このバランスをとって、しかし話し相手をつまらなくさせないのが、友達との会話です。
しかも物語作りのほうは、金をもらっているので、尚更相手をつまらなくさせた時点で、失敗です。それがしたいのなら、自分の金で、同人アニメを作っていればいい。
「金が無いから、他人の金で好き勝手やりたい」と言うのは、企業の金を横領している人とやっていることは同じです(合法なのが違うけど)。
面白いのは、これら作家の作品って、力がなく自分勝手に出来ない時の方が、面白い作品を作ります。
つまり、面白い作品を作らないと、生きていけない、と思って、媚を売っている時の方が上手く行くのです。
それは「他人を喜ばす」のを、いやいやでも、やっている時だからです。
その後に、自分の好きなことが、ある程度出来るようなると、失敗します。
それは「他人を喜ばす」の上に「自分がやりたい物」が仁王立ちするからです。
だから失敗します。
面白いのは宮崎駿さんです。
この人は、たぶん「自分が面白いものが、他人も喜ぶものだった」のも、あるのでしょう。
それに、さっき言ったように、初めの方は「売れるために媚び売っていた」のもあります。
しかし段々好きなものを作れるようになっていった。その時どうしたのか?
これがこの人の面白い所で、感覚的に分かっていたのでしょう。
やったのは、国が防衛を考えるのに、仮想敵国を作って考えるのと同じです。
「だれそれを喜ばす」と言う、喜ばす人を想定して「それをするにはどうすればいいのか?」という事を元に、アニメを作り始めたのです(知り合いの子供とかの事です)。
宮崎駿さんは、これを「やる気を起こすため」みたいな言い方でした。
それは嘘ではないのだろうけど、そうしないと、面白い内容を考えるのが維持出来なかったのだと思うのです。
それは、言い方を変えると【「誰かが」面白いと思うものを作る】と言う事であり、これこそが「人を喜ばす」と言う事です。
これを、たぶん感覚的に分かっていて、だからみんなが喜ぶものを作れたのだと思います(それでも私は始めの方の作品のほうが優れていると思うけど)。
アニメ業界だけの話では無いのですが、全ての元は「人を喜ばす」事だと言う、基本中の基本であり、当たり前なことが抜け落ちている気がしてならない。
これが分かってないと、何をやってもダメです。
アニメでもゲームでもテレビでも、なんでもです。
富野さんは「Gレコ」で、明らかに「他人を喜ばす」のではなく、「自分がやるべきもの」を優先させてました。
庵野さんも「エヴァ」や「仮面ライダー」では、「やるべき物」の方が上に立っています。
押井さんは言う事もないですね。この人は「生きるために、しょうがなく」となっている時以外は、全てつまらないです(逆にやろうと思えば客うけする物が作れる人で、だからこそ嫌なのかも知れないけど)。
イクニさんも「ピンドラ映画版」で、客よりも大事な何かのためにやったように見えます(昔の劇場版ウテナはもっとそうでしたが)。
宮崎駿さんも、客を喜ばすのを第一に考えられたのなら「ナウシカ2」をやるのです。それが不完全なものしか作れないとしてもです。
前にも言ったけど、ナウシカは映画版で完結してるので触らないほうがいい。
だけど、ナウシカほどの世界を喜ばす物はないので、だとしてもやるべきではないのか? と思えるのです。
内容的に触らないほうがいいのに、それでもやるべきだと思える作品など、私には他にはない。たぶん多くの人にとっても、そうではないのか?
もし寺山が同じ立場なら、やるかどうかはともかくとして、一度は考えたとは思うのですが? どうでしょうか?
(ちなみに、だとしても、もうやらなくて良いけど。もう体力的に無理なのは分かったので)
まとめると「他人を喜ばす事が、一番大事」なのだと、みなが気がついて欲しいですね。
忘れていたけど、水星の魔女の事です。
これも、何が面白いのか? どうすれば客が喜ぶのか? が分かって無いから映画化を出さないのです。ここで出さないでどうするの?
これは客が喜ぶだけではなく、お金を稼ぐためにも、ここで出すのがいい。誰も損をしない。
しかし出さないのは、ただの能力の限界です。
あの続きを思い付かないからでしょう。
つまり、やはり、あれで終わりのつもりだったのですね。残念です。
前にここのブログで消した文があり、ネタバレになると思い消しました。しかし結果、ネタバレにも何にもなりませんでしたが。
だから書きますが、私は本編最後か、もしくは映画で「運命の乗り換え」をするつもりだろう、と思ったのです(つまり、過去を書き変え、未来か現代を変えてしまう)。
そうすれば、途中子供が死んだ所も、あれでよくなる。あれで最後世界が変わって生きて出てきたら、盛り上がるでしょ?
そのつもりで作っているなら、みんな死んでいってもいい。いや死んでいった方が良い。それでガンダムになるし「大河内さんだと、こうなるのか」と思わせることになる。
しかしもちろん、最後は無かった事にするけど。
物語とは、最後を盛り上げる為に、最後の盛り上げの前に、一番落とします。
物語制作の本には「全てを失う」と記してあります。最後の盛り上げの前に、主人公は全てを失うのが定石です。水星の魔女も、だいたいそうなってましたね。
だから私は「一度落として(スレッタがガンダムを失った所)、その後に復活して成功する」と言う流れになるのは分かっていた(みんな分かっていたろうけど)。
しかし大団円に向かうと思わせておいて、最後全てを「また」失うだろう、と思ったのです。みんな死んでいき、それで「不幸エンド」か? と思わせておいて、運命の乗り換えをするのだろう、と踏んでいたのです。
そうはなりませんでしたが、その方が盛り上がったと思いませんか?
これが映画だとたら、完璧でした。
みんな死んでいき、しかしなんとなく収まり、なんとなく残った人は幸せになったエンドにする。ミオリネだけ残るとか。
そして映画版を出す。あくまでサンライズ得意の「総集編」と言うことで出す。
分かりずらかった所を補填して、新たにシーンを書き足す「総集編」と宣伝する。
しかし実際はZガンダムのように、最後を変える。運命の乗り換えを、映画版でやるのです。
そして、みなが生き残るエンドにする。
そうすれば、盛り上がったと思いませんか?
そもそも、このアニメの暗喩が、どの時代かが最後まで分かりませんでした。
たぶん時代背景は、暗喩として一本筋が通ってはなかったのだと思います。なんとなくアイテムをそろえてきただけです。
しかし私はこれを「そうか、これはIF世界であり、なかった世界なのだな」と思ったのです。
つまり実際にあった、富野さんが「白富野」になり、アニメ内で人を殺すのを止めるようになった世界ではなく、「黒富野」のままのIF世界だと思ったのです。
それで世界は混沌として、みなが戦いあい、人が死んで行きく世界になったことを表す(白富野でなけれは、ガンダムでもっと人が死ぬ話が多かったはずだと言うこと)。
だから運命の乗り換えをする(何か設定上、アニメでもこんな事出来そうだったでしょ?)。
戻るのはあの日、フォールクバング襲撃事件の日です。あの日の惨劇を阻止する。なかった事にする。
これがZガンダムで世界を変えてきた事の暗喩であり、富野さんが白富野になった事を表す。
結果フォールクバング襲撃もなく、その後の争いもなく、人も死なない未来になる。
そしてこれこそが正史です。つまり本当にあった世界線に戻すのです。
だから、本当の世界であった事に繋がり、物語が終わる。庵野さんがカラーを作る暗喩として、水星に学校を作る事が出来たことにするのです。
ちなみに、大河内さんがキングゲイナー脚本時「人間地雷」をやろとしたら、富野さんに「そういうのは、もういい」と止められてました。
この意味を分かってなかったので、その後のルルーシュで人を意味なく沢山殺すシーンを入れてきましたね。分かってない(そう言う事をやりたいのなら、他の作品でやるべきです。別にホラーでもヴァイオレンスでも、別に否定はしません。でもやるべき場所を理解してない、という事です)。
つまり、水星の魔女でも、レンブラント父がフォールクバング襲撃をやったように見えるが、実は側近(大河内さん)が進めたのでやった事にして、それをやめる世界に書き換える話に出来たはずなのです。
そうすれば、富野さんの言葉を大河内さんが理解した、と言う証になると思い、そうなって欲しいと思ってましたが、残念でした。
すべて無かったことにする、と言うのは、結構微妙な作りです。
しかしタイムマシーン物にはよくありますね。
水星の魔女がこれで良いのは、暗喩があるからです。暗喩として「それで本当にあった世界に戻るのだ」と言う話になれば、この作りも間違ってないと思われる事でしょう。
大河内さんがやった虐殺の過去を否定した作品になり、それは実際の白富野が生きた世界の肯定にもなり、そうしたら完璧だったと思うのです。
さて実際は、この水星の魔女も、結果残念でした。惜しい作品でしたね。
たぶんですが、これらも「客が喜ぶもの」が分かって無かったのが、遠縁にあると思っているのです。
分かっていれば、何が盛り上がるだろう? どうすれば客が喜ぶだろう? と考える筈です。
その中で「こうすれば盛り上がるだろう」と案が出てくる筈なのです。
ここでは映画化がそれであり、だとして「どうしたら映画化が成り立つだろう?」と考えるべきなのです。
もちろん、前に言ったように、客がただ喜べばいいと言うわけではない。そこがバランス感覚です。
言うべきものと、やるべきもの、そして喜ぶもの、それらのバランスが必要です。
今回私が言った「運命の乗り換え」の話だったならば、そのバランスが取れていた気がします。
これはただの「素人の遠吠え」であるのですが、みんなもそれぞれが「何が正解だったのか?」と考えてほしいと思い、書きました。