「DAICON Ⅳ」開催40週年を記念して、スタジオカラーが一週間限定で短編アニメ「Cassette Girl」(カセットガール)を公開、とあったので見てみました。
私の中学三年の修学旅行が、お決まりの京都でして、移動中にフっと見たショーウィンドウの中にあったのが、美少女フィギュアでした。
そして「DAICON」と書いてあり「何で大根なんだ?」と皆で笑ってた記憶があります。
そして数十年……結局なぜ大根だったのか分からないままでしたが、数年前にピンドラを見てから急に真剣にアニメを見始め、大根の謎が分かった、と言う話です。
京都の事なんかほぼ覚えてないのに、これを覚えている。
子供に大事な事など、こんな事なんだろうなあ、と思う今日この頃です。
カセットガールを見ると分かると思いますが、エヴァぽいですね。
それに、どこかで見た物の寄せ集めです。
ロボット物にバニーに変身して、剣に盾です。
わざわざ、変身する時に裸になるのも、最後裸になるのも、昔のお約束です。
声優が山寺さんに林原さん。まさにお約束です(脚本、榎戸さんじゃ無いですか。ちょっとうける)。
つまり、子供の頃に見た、自分が興味をいだいた良い物だけで、出来ている短編でした。
なので、カセットテープもそうなのでしょう。ビデオテープに音楽テープの、両方の事だろうけど、昔はあれらは「夢の詰まったアイテム」だったのです。
そして「巻き戻している時間」さえも、もはや愛らしいという話です。
エヴァに似ている、とみな思うだろうけど、やはりエヴァも「昔見た、面白いと思うもの」の集まりだったのだと、改めて思いました。
しかしエヴァが違うのは、それだけではない、という事です。
それだけだと広がりがなく、段々奇形になっていくのが、庵野さんには分かったのでしょう。
だからアニメにはない他の作品の要素も入れ、健全に保てるように、未来に続くようにしたかったのだと思います。
今のアニメも漫画も、それだけを見てきた人が、それだけの要素からだけで、作っている様に見えます。
「魅力的な世界」がまずあり、その中に「物語の魅力的な世界」が一部を占め、その中に更に小さく「アニメの魅力的な世界」があると言うことです。
その中からだけの情報で、また世界を作ると、更に小さな世界が出来るのです。
しかしその一部が尖って行くという要素は、確かにあります。一部は優れては行く。
これは、寺山修司も「さらば箱舟」で暗喩として出してきたように、それは近親相姦から生まれた奇形のようなものになっていくのです。
段々不気味な不完全なものしか生まれて来なくなります。
人がそうであるように、近親相姦を防ぐためには、他の部族からの血が必要なのです。
そうじゃないと、長い歴史の中では、一族として滅んでいくことでしょう。
この事を庵野さんも分かり、他の要素を入れようとした。
それで出来たのがエヴァですね。
寺山作品などの他の実写の作品要素も入れていき、健全な物語を作りたかったのだと思うのです。
この事自体はあっています。この事自体はね。
岡田斗司夫さんがしつこく言うのは「庵野は、宮崎駿の弟子だ」という事です。
何かジャンルが違う気がしていたので「そうかな?」と思ってましたが、意外と近いのかも知れないと、最近思えてきました。
宮崎駿が言ってたらしい言葉で「自分が良いと思うものを描かないとダメだ」というのがあります。
その通りです。
ただ例外はあります。
「自分の感覚が多数派からずれている時は、そうではない」と言うことです。
しかし多数派とは、多数なのだから、多くの人は多数派に入る(当たり前ですが)。
だから多くの作家にとったら「自分が良いと思ったもの」=「皆が良いと思うもの」であっているのです。
では感覚が多数派ではない作家はどうすれば良いのか?
道は2つです。
まず1つ目は「作家は得意ではないので、あきらめる」事です。
もう1つが「感覚では分からないのだから、頭で考え、他人が好きなものを描こうと努力する」という事です。
しかし内容は少年マンガの流れです。
ただたんに、少年漫画を読み慣れていたから、自然に出来たのかも知れないけど、内容的には作家自身が感覚的には分からないけど、読んだ少年が喜びそうな事を描いています。ビキニの子だったり、胸がでかい子が出たり。
つまり、頭で感覚を保管して、出来ているのです。
それが出来れば、後に残るのが、「普通の男の少年漫画家とは、違う感覚」です。これを上手く使えば、力になります。
ラムやしのぶの動きなどは、男の作家では出てこない動きをします。ちょっと自然な感覚が垣間見えるのです。あれは、タッチでもワンピースでもないものですね。
で、何を良いたいのか、と言うと「感覚が分からない事を、頭で保管して描く」事自体は悪いことではない。
ばかりか、そこを保管できれば、他の人が持ってない感覚すら上手く使えるかも知れない、という事です。
だから、作家として得意ではないものを諦めることはないのだけど「努力と考えは必要だ」と言う事です。
話を戻し、
宮崎駿の最初の方の物語りも、皆が好きそうな要素てんこ盛りで出来ているのが分かります。
この単純に、子供の頃好きだったもの、魅力的だと思ったもの、を描くのが大事だと分からせる良い例ですね。
宮崎さんは、うまれが1941年なので、まだ映像よりも、漫画や小説などの影響のほうが大きかった筈です。
それに実際あるもの、戦車や飛行機の情報は得られたはずです。
他にも、自然から得られる面白要素、虫とか空とかです。
それらの魅力的だと思う要素から、始めの作品は作られているのでしょう。
庵野さんの方は、映像がもう出てきた時代に生まれてきてます。
だからか、映像作品からの影響が強いのですが、自分が子供の頃に魅力的だと思うものを出してきて、それを使うのが上手い人ですね。
影響された要素が違うのだけど、宮崎駿も庵野秀明も「子供の頃に影響された、自分が魅力を感じた物を使うのが、上手い人」だということが分かります。
だから、意外とこのふたりは似てるのかもしれないのです。
実はこの「自分が良いと思った物を使う」という、簡単そうな事が、世間には難しいようです。
ただ昔にあった魅力的な要素を使うことすら出来てないのが、ほとんどの作品だからです。
エヴァもそうだしカセットガールも見ると思うのだけど、これらと比べ、昔の作品で自分が好きだった物を使えている作品って、意外とないと思いませんか?
もちろん、真似だけではなく、そこから膨らませていけないとダメなのですが、そもそも真似すら出来てない。
スポーツでも歌でも何でもそうですが、始めは上手い人の真似から始まるのです。
まずは、自分が魅力的だと思ったことを思い出し、それを真似、それからそれを膨らまして行く事が大事だと、改めて気が付きました。
私が子供の頃、夏の入道雲を見ていて、とても立体的に見えるので、その横や上を飛んでいるのを空想してました。
昔の子供の夢の基本として「空を飛ぶ」というのがあったと思います。
しかし単純に「空を飛ぶ作品」って少ないと思いませんか?
空を飛ぶことすら想像できないアニメ作家って、ダメだと思いませんか?
宮崎駿の作品は、よく空を飛びます。
宮崎駿になりたいのなら、空を飛びましょう。まずはそこからです。
「うる星やつら」の弁天のエアバイク好きじゃなかったですか?
空を飛ぶし、バイクだし、とても魅力的なのだけど、どの作品にもエアバイク出てこないですね? なぜでしょうか?
カセットガールのバニーにロボに闘いに裸、あれがあの作家にとってのエアバイクですね。
まああれが全てとは言わないまでも、そこから始めるべきだと思うのです。
エヴァなどは、あの「自分が好きだった物の羅列」から始まっているのですから。
もちろんエヴァは、そこから上手くまとめているので、それには「努力と能力」が必要にはなりますけどね。
さて、では始めのテレビ版エヴァでの間違いは、何だったのか?
あれは「自分が好きだったものの羅列」だった筈なのに「自分がやらなければならない新しいもの」に強く引っ張られ、バランスを欠いたからです。
それこそ寺山要素やフェリーニ要素を入れようとしたのでしょうけど、まだよく理解して無く、しかも得意でもなかった。
なのにそれを無理やり入れた。
それが正解で進む道だと思ったからでしょう。
しかし違います。
大事なのは「自分が良いと思ったもの」であり、どこまでも、最後はそれを通すべきだったのです。
「良いと思う物」と「やるべきもの」の両立。それを可能にするのに必要なのは、バランスです。
自分が「良いと思ったもの」を赤だとします。「やるべきもの」を黒だとします。
それで「真っ黒」に仕上げてしまったのがエヴァでした。
「暗い赤」くらいに仕上げるべきだったのです。それを間違えた。
「君たちはどう生きるか」で庵野さんと同じく「黒」に仕上げて来たのです。
つまり「これをやるべきだ」という物に引っ張られて、赤要素がおろそかになった、という事です。
自分で「自分が良いと思うものをやれ」と言っておきながら、元々は自分が良いと思ってなかった物なのに、それをやるべきだと勘違いして押し通してしまった。
まさに宮崎駿は師匠であり、本当に似てるのかもしれない。
ここで分かるのは「良いと思ったもの」とは「子供の頃から感覚的に良いと思ったもの」であると言う事です。
「それ以外は得意ではないのだから、それが大人になって良いと思っても、その色に染め上げてはいけない」という事です。
あくまで「子供の頃に受けた影響が大事だ」というのは忘れてはいけない。
人は大人になってからだと、本質はもう変わらないからです。
話は戻り、
では自分が得意ではないものだったら、どうするのか? はさっき言いましたね。
それを捨て無ければいけないのでは、無いのです。
あくまで努力して考えて、不得意な要素を入れ込み、それが出来たなら自分が得意な要素が残る。それでみんなに評価される、より完璧な作品になるのです。
だから宮崎駿も庵野秀明も「子供の頃から、自分が良いと思った物」を貫きながら、それ以外を入れて深みを増してく、という方向に行くべきでしょう。
子供の頃の修学旅行で見た、DAICONと書かれたフィギュア。
そっち方面には行かなかった自分を思い出し、みんなは道を間違えるなと、子供たちには言いたいです。
「子供の頃に良いと思ったもの」それを一度思い出しても、いいと思うのです。