アニメ「君たちはどう生きるか」考察、二回目です。
人の命には限りがあります。
永遠に生きられる人はいない。
永遠に残るものもない。
しかし子供に、孫へと、受け継がれていきます。
その事を人は永遠だと思い、追い求めて行くのでしょう。
前回の私の考えだと、どうもおかしい。
だけど、前回は前回であっているとは、思っています。
では、どう考えると、前回の考察があっているが、また間違ってる事が成立するのか?
今回の考察は、個人的に面白過ぎます。
面白過ぎるのは、考えすぎであり、間違っているかも知れない事は言っておきます。
気になったのは「母はなぜ火を使うのか?」「なぜ鳥なのか?」「鳥とは誰か?」「最後の終わり方が不自然なのは?」「東京に戻って終わる意味は?」等です。
それらを踏まえると、今回の物語の始まりは、エヴァからだと思えて仕方がありません。
エヴァで思い出すと、鳥とはペンペンの事です。
ペンペンがピンドラでペンギンが出て来た元ネタでしょう。
そしてペンペンは富野さんだと思っています。ガンダムカラー(サイコガンダム含む)のセカンドインパクト事第二次大戦を生き残った生き物だからです。
では君たちはどう生きるかのアオサギとは? これも富野さんではないのか?
でも富野さんだと考えると「愚かな鳥」と言う、偉そうなおじいさんは誰か?
これが手塚治虫でしょう(手塚さんのトリトンのアニメ版の最後を勝手に変えたのが富野さんですね。手塚さんは、もちろん気に入らなかった事でしょう)。
そして手塚治虫の手助けを止め、眞人の助けになる富野さんと、最後に友達になるのが、眞人です。では眞人は誰か?
始めに戻り、やはり眞人は宮崎駿です。
手塚治虫の子孫であり、眞人の母であり、死んでしまった火を使う人とは?
これが火の鳥でしょう。
最後、手塚治虫の作り上げた世界を受け継がなかったのが、宮崎駿だと言う事です。
手塚治虫関連から生まれたのが宮崎駿であるが、その世界から出て行ったのが駿だと言う事です。
木でない石とは?
もう変わらない物であり、生きて無い物です。これが手塚作品ですね。
それを最後眞人は持ってきてしまった。その要素を少し持ってきてしまって、手放せないのが宮崎駿です。
死んでしまった命の無い昔の石ころ(作品)であっても、思い出位は手放せないのでしょう。
それを「そんな物持ってきたのか? すぐ忘れるよ」と言うのがアオサギであり、富野さんです。
ただ、これだとつまらない。
前回の考察の「眞人は庵野」であってもつまらない。
それでは、ただのエヴァなどの物マネでしかないからです。
では、どういう事なのか?
今回、宮崎駿は宮﨑(環境依存文字で出ないかもしれません?)と言う名前で出てるようです。
これは「ヱヴァンゲリヲン」と同じです。
つまりエヴァから来てるのは、間違いがない。
これは、もう一度始めからやり、ここで終わらせる、と言うメタ的な記号です。
それを「運命の乗り換え」でやって見せたのがピンドラです。
では、エヴァをみた宮崎駿なら、どうするのか? これが見ものです。
やはり眞人は庵野さんでもあるのでしょう。
最後崩れかける世界(ジブリ)で「継げ」と言われる所とか、名前が眞人(シンジとも読める)である所から、たぶん庵野さんであっています。
つまり、二重にかけているのです。
(エヴァのゲンドウが宮崎駿なら、シンジは庵野さんだと言う事です。ただこれも、エヴァでその要素もあるだろう、位の話ですけど)
二重にかける事により、一回で二回分の人生を描いてしまう。
自分の運命と、庵野さんの運命です。
そしてそれは、まず「宮崎駿が子供の時から、大人になり作品を作るきっかけの所」までを描く物語である。
それと同時に「最後作り上げた世界が崩れ始め、なくなるが、要素が次の世代に受け継がれる」事を描く物語でもある。
つまり、宮崎駿の始まりから終わりまでを、一回で描いた事になるのです。
しかもそれは「自分の受けた要素と、自分が与えた要素もまた、同じような物である」とも見える。
それら同じような事を繰り返す事により、それこそが「人が求める永遠」だと言いたいのでしょう。
手塚から宮崎へ、そして庵野へと受け継がれていく、と言う事です。
それを「生と死」で描いた物語です。
だから死が蔓延した世界であるが、新たな命が生まれる物語にしたのでしょう。
物語も、そして人もまた生まれ死んでいくのだと描いている。
しかしそれが、ただの不幸ではなく、受け継がれて続いて行くのだとも、言っているのです。
ちなみに、眞人が庵野さんの時のアオサギは、富野さんではないでしょう。
「愚かな鳥」と言うのが宮崎さんだとしたら、それを言う実際の人は限られてくると思います。
だから前田真宏さんかな?
ジブリで宮崎さんに「もう来なくていい」と言われて出て行った人らしいし、その後シンエヴァで監督になっているから、庵野さんの友達になったと描いてもおかしくはない。
最後、石(この時は宮崎作品)を持ってきた庵野さんに「そんな物持ってきたのか?」と言うのも、前田さんなら(立ち位置から作られたキャラとして)あっている気がします。
ネットでの感想を見てると、最後「おわり」と出ないジブリ作品を始めてみた、とありました(確認はとってません)。
だとすると、終わりでは無いのです。
なんであんな、ぶつっと切った終わり方なのか? 余韻を残しませんでしたね。
それも「終わり」ではないからです。
東京に戻って終わりです。
だからあそこでダカーポなのです。始めに戻るのです。
そして宮崎少年が大人になる話から、おじいさんになり、死んでいく話に繋がって行くのです。
これもまた、物語に終わりはない、と言う事です。
宮崎駿は死ぬ。
しかし、受け継がれ、続いて行く。
これで「永遠」になり「おわりのない物語」が完成したのです。