号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

後ろ姿

君たちはどう生きるか」考察、6回目です。

 

もはや自己満足になってきました。

良く分からない物、曖昧な物、細かな物、感想などを述べます。

 

眞人の母の子供時代のヒミは、火の鳥だと思うと言いました。やはりそうでしょう。

 

火の鳥に詳しい人なら知ってるだろうけど(私は知らなかったけど)火の鳥(休憩)と言う6ページの回があり、手塚治虫火の鳥について書いているのだそうです。

ここで言ってる事を、かいつまんで言うと「大宇宙が創造された時、そのエネルギーは充満し」「無数のエネルギーに別れました」「生命とは宇宙エネルギーの仮の姿だろうか」「ぼくは火の鳥の姿をかりて、宇宙エネルギーについて、気ままに空想を描いてみたいのです」と言うような事です。

これが「君たちはどう生きるか」で、宇宙にある何かが地球に落ちてきたのが、あの石だった、と言う事の元でしょう。

(この宇宙が出て来る突拍子もない設定も、何か元がないとおかしいでしょ?)

 

さらに手塚は「なぜ鳥の姿にしたかと言うと、ストラビンスキーの火の鳥の精が、なんとなく神秘的で宇宙的だったからです」と言ってます。

ストラビンスキーの火の鳥とはバレエの演目です。

Googleで映像を調べてみると、バレエの格好で赤い衣装を着た女の人が踊る絵が出て来ます。

これがヒミが着てた、赤いスカートの女の子らしい衣装の元でしょう。もちろんバレエの衣装だとそのままだから、少し普通にしたのだと思います。

(ネット動画でDr,マクガイヤーさんが、ヒミの衣装はメイド服で駿の趣味過ぎて引いた、と言ってました。それもあるのでしょうけど、あの作りの衣装の意味がある事は知ってほしいですね。ちなみにメイド服だったかどうかは覚えてませんが、キャラの設定上、使用人だったのかな?)

 

だからヒミは火の鳥で間違いが無いと、私は思います。

だとすれば、謎のおじいさんは、やはり手塚治虫なのです。

 

そして、おじいさんが最後出て来た時は、ナウシカの衣装の様な物を着てました。

虫の世界の人って事で、治虫の暗喩か?

 

しかし私は、あの衣装から思うに、やはり宮崎駿が一緒に係っていると思っています。

いくらなんでも、自分の作品(ナウシカ)の衣装を着させ、手塚治虫だ、と言うのは無理がありますからね。

そしてだからこそ、ヒミにはナウシカも係っていると思うのです。

 

そもそも久子という名が現実にあるのに、わざわざヒミと言う謎の名も付けてきた意味が分からない。キリコは不思議な世界でも、名はそのままなのにです。

だからヒミには二人分合わさっているという、ヒントだと思っています。

 

さてキリコの方です。

このキャラが、この作品で一番の謎設定の人ですね。

始めに正直言っておくと、結局はっきり誰かは分かりませんでした。

しかし、なんとなくどういう人かの予測は出来たので、書いておきます。

 

まず現実世界にいる。しかもおばあさんです。

だから、たぶんジブリの古株の女性スタッフの誰かじゃ無いのか? と思っています。

 

しかし、不思議な世界にもいる、しかし若い姿に変わる。

ヒミは昔の姿のままなのにです。昔一度消えた時の姿のままと言う事は、入った時の姿のままであり、それと同じならキリコも入った時のおばあさんの姿の筈なのに、違う。

だからヒミとは違う存在なのだと言う事です。

 

キリコもそうだが、ヒミも、水上からの登場です。

水が、妄想の世界を表している、とは言いました。

これは小説「水の子どもたち」からであり、それを元にバイストンウェルを作ったのが富野さんです。

そしてそこからエヴァの水要素が出来たのだと思っています。最後のポスターの渚とか、名前が「碇」とか「綾波」の様な波が付くとか「渚」が付くとかの意味は、ここから来ていると思っています。

「水の子どもたち」では水の世界に行く事で、清められ、鍛錬されて戻って来る、と言う話です。これはキリスト教などの影響があるようです。

 

だから「君たちはどう生きるか」でも、眞人は水に入り、鍛錬され、清められる。

この事から、宮崎駿は「水の子どもたち」を知っているし、これはエヴァ関連だとも知っているから、これをこの映画の時に使ったのです。

 

(ちなみに「水の子どのたち」内では、子供が水の中の世界に行く時に溺れるので、死んであの世で鍛錬されるとも取れる内容です。だから「君たちはどう生きるか」でも死の世界の様な所に行くのでしょう。

あの世界は六道の地獄、とまでは行かないけど、修羅道、餓鬼道、畜生道などの世界であり、人間道で死んだような者が行く所であり(鳥人間たち)、清められて人間道に生まれ変わる前の場所でもあります(わらわら)。

もう生きてない石(作品)がある所でもあり、もはや作家として死んだ様な駿がいる所でもあります。

そこで石を積んで持たせているだけの人です。

あれは「賽の河原」(さいのかわら)の積み石の事で「無駄な努力」の象徴です。

そして子供はあそこにいるうちは、三途の川を渡れていないと言う事であり、あそこに留まる子供は間違いだ、と言う意味です。

ジブリを超えて、一度は死んだアニメ作家から、生まれ変わって戻ってこい、と言う庵野さん等の作家への思いでしょう)

 

ではキリコが妄想の世界の住人だとして、いったい誰か?

(前にも書いたのだけど、もう一度書きます)

私が思うに、ブラックジャックのドクターキリコから、眼帯繋がりで、アスカだと思っています。

ドクターキリコは安楽死をさせるが、安直な死は拒むキャラなのだそうです(つまりもう治しようが無い時は、楽に死んでも良いと思うが、ただの思い付きの自殺は進めないと言う事)。

庵野さんは旧エヴァ後、何度か死のうと思ったが、立ち止まったらしいので、この事を表していると思います(つまり自殺を止めたキャラ、と言う暗喩がキリコ)。

その中で「庵野さんの生きる意味を見いだせたのが、またエヴァだった」と言う事かな? と思っています。「エヴァを作り直す」と言う目標が出来たから、生き永らえたのだと言う事です。

旧映画版で残ったのがシンジとアスカだけです。だからこの二人がアダムとイブです。だからアスカがイブです。そしてイブがエヴァの事です。

そこからアスカがエヴァの暗喩と言う事になり、アスカが生き永らえた助けになった、と言う事です。

なので「君たちはどう生きるか」で、眞人事庵野さんを助け、立ち直らせるのが、キリコなのだから、キリコがアスカなのです。

 

ちなみに、今回これを考えて分かった事があります。ピンドラの事です。

なぜ大事だったのが、陽毬(ひまり)なのか? 

ひまりがアスカだとは前に言いましたが、ひまりがエヴァだったのですね。

そして、だから「生存戦略」だったのです。

生き残る方法がひまり事エヴァであり、だからひまりが生存戦略と叫んだのですね。今更分かりました。

 

ちなみに、ヒミが火の鳥だと言いました。

だとすれば、みんな鳥繋がりなのですね。

だとすれば、キリコも鳥です。キリコがアスカだから、飛鳥から、鳥なのでしょう。

(謎のおじいさんは鳥要素がないですが、これは分からない。これは鳥が関係なくてもいいキャラだと思うので、鳥要素がない気もするけど)

 

でもアスカだとして、それだけだとただの妄想の存在です。

しかし他のキャラと違い、現実にも年を取った同じ名の人がいるのがキリコです。

このキリコの設定、明らかにおかしいでしょ? 普通の物語だと絶対にしない、無駄の多い設定です。

この物語上必要のない要素がある所に、普通は暗喩が隠されているのです。

初めに言った様に、現実にも、実際に年を取ったキリコの元がいると言う事です。

それがたぶん、ジブリに昔からいる古株の誰か? だと思うのです。

そこから、アスカの元は、この実在の人の事では無いのか? と勘ぐっています。

 

実はここから「昔から解けない謎」と、同じニオイがしたのです。ピンドラの謎です。

ピンドラに「連雀」と言う、夏芽家におじいさんの代から使える秘書キャラがいます。ピンドラのおじいさんとは左兵衛の事であり、駿の事です。

つまり宮崎駿につかえる人であり、たぶん庵野さんより年上です。

だから、キリコも同じ人じゃ無いのかな? と思っています。

ちなみに、連雀も鳥ですね。

そして、連雀はアニメの中でひまりの写真を撮ろうとしてました。しかし逆にひまりに写真を撮られてました。ギャグかと思ってましたが、意味があったのかもしれない。

鳥ではなく「撮り」であり、撮影処理などの撮影関連に係わった人では無いのか? と踏んでいます。

そしてひまりを撮ろうとして、撮り返されているので、同一人物の暗喩か? と勘ぐっています。さて、どうだったのでしょう?

ただ、宮崎駿にはすぐ誰か分かった筈です。だから今回キリコと言うキャラにして入れた気がするのですが?

ここにも、撮影関連のスタッフから、撮りになり、だからキリコと言う鳥に関連するキャラにした、とも見えるのです。

 

今回気が付いた暗喩はこんなものです。

 

最後に、この映画自体の感想が、時間が経ってまとまってきたので書きます。

 

私は「風立ちぬ」が嫌いです。

あんなのは誰も望んでない。少なくとも、司馬遼太郎も、高畑勲も、あれを見て褒めたとは思えない。

だから、宮崎駿らしい得意な事を付き進めるべきだと思ってました。

 

では今回の「君たちはどう生きるか」はどうか?

これも得意では無い事に挑戦してます。

だから、その論理で言うと、私は嫌いな筈なのに、嫌いではないのです。

なぜだろう? と考えてみました。

 

今回は、暗喩物語だとしても、部分部分では、昔の駿の得意分野を発揮できた作りでした。

しかし皆の感想の通り、そこに魅力も勢いも無いのです。

つまり「もう、無理なのだな」と気が付いてしまったのです。

 

しかし無理なのは分かっていた筈です。

なのに無視していた。気が付きたくなかったのでしょう。

宮崎駿自体も、人には何かを作り出す限界の年がある、みたいな事を言っていたと思います。その通りなのでしょう。

だから早々引退をほのめかしていましたね。もう魔女の宅急便のころからそうでした。

あの頃の作品を見てた時に、すでに私も限界に気が付いてました。あの頃からつまらないですからね。

なのに、元がすごいから、能力が落ちてきても出来てしまったのでしょう。

今のメッシようにです。一番いい時より能力がとても落ちたのに、元がすごいから、まだすごいのです。

だから誤魔化して来た。私がです。

だから「風立ちぬ」を見て、逃げたようにも見え、誤魔化している様にも見え、頭にきた。

しかし今回みて「ああ、無理だったのね」と分かってしまったのです。見て「ごめんなさい。本当にダメだったのね」と言う気持ちです。

 

しかし今回はダメなのも含め、自分の最後を晒した。

死にゆく最後を晒しておいて、次の世代を認めたようにも見えたのです。

しかしその中で挑戦も見せた。

だから私には、やれる事をやり切った、ように見えたのです。

 

嘘は言いたくないから、正直に言うけど、今回の作品を褒める気にはなれない。

しかし、けなす気もないし、文句ももう出てこない。

静かに去って行く後ろ姿を、ただ見ているような、そんな気持ちです。

後ろ姿を残すのが、人が最後に出来る事です。

その後ろ姿の思いでが、ちゃんとしていたかどうかで、何が残るかが決まる。

この後ろ姿なら、もう言う事は何もないのです。