号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

水の子どもたち

youtube富野由悠季さんと市川紗椰さんが「富野作品を振り返る」と言う動画が上がっています。

ガンダム関連以外を言ってるのですが、それでも富野さんの会話は相変わらず面白いですね。

そこでダンバインの事も少し言っていて「バイストンウェルは海と陸の間の世界」みたいな事を言ってました。

まあ知っている人は「何を今更」と言うのでしょうけど、知らなかった私には「来たかな?」とちょっとテンションが上がりました。

何が来たのか? もちろん暗喩の答えが分かった気がしたのです。

 

「シンエヴァンゲリオン」のポスターでよくあったのが「浜辺で皆が集まっている」と言うやつでしたね。

でもなんで浜辺なんだろう? とずっと思っていました。

だから「海と陸の間の世界」を富野さんが言うことで「これは関連があるかも知れない」と思うでしょ? 思いましょう。

 

毎度おなじみWIKIバイストンウェルを調べると、ダンバイン等に登場する架空の世界であり「海と陸の間にあり、輪廻する魂の休息と修練の地」とあります。尚更来たかな? と思うでしょ?

富野さんはオスカー・ワイルドの「水の子」と言う作品が元だと言ったようですが、オスカー・ワイルドにはこの題名の作品はなく、チャールズ・キングスレーの間違いだろう、という事です。

なのでそれをWIKIで調べると「水の子どもたち」と言う作品が出てきました。

 

この作品は「19世紀の児童文学で最も知られている作品の一つである」とあります。

内容は「みすぼらしい子供が泥棒に間違えられ追われ、川に落ち、溺れ、水の赤ちゃんになる」と言う話です。

そこで「トビケラなどに鍛錬され、人間に戻り、科学者になる」と言うものだそうです。

そこから「みすぼらしい子供が冷水で清められ、鍛錬され、模範的な市民に生まれ変わる」という内容を描いているという事です。

さらに牧師が書いているので、当時のキリスト教の教えが入っているというものです。

しかも、少年は始め溺れているから「一度死んで、良き市民として生まれ変わった」と言う意味合いもあるようです。

 

水の世界とは? 妖精がいるようなので「ファンタジーの世界」とも見えます。

そして溺れて行く所なので「死の世界」とも見えます。

 

ではこれを元にした「バイストンウェル」とは?

こっちは「海と陸の間」とあるので「死と生の間の世界」でもあるのでしょう。輪廻する魂の休息と修練とあるので、輪廻転生の途中の世界とも見えますね。

そしてファンタジーの様な世界でもあるので「妄想と現実の間の世界」と言う意味も含まれている事でしょう。

これは妄想自体に溺れる子供を嫌がっている富野さんらしい考え方ですね。

とは言え元々は妄想の塊である「アニメ」を作る人なので「妄想だけではなく、しかし休息と精神の鍛錬の場所としての、あくまで現実との間を目指す」為のアニメ世界を作る、としたのでしょう。

 

ではシンエヴァンゲリオンは?

これはバイストンウェルと同じですね。海と陸の間を目指したのです。

 

新劇場版エヴァでは、アスカも波が付く名前(式波アスカ)に変えてきましたね。

つまり名前に波が付く、レイ、アスカ、マリの三人は、海側の人間だと言うことです。

これは、アニメの中も設定で言うと、使徒側、つまり人とは違う側の作りで出来た者たち、と言う意味です。だから年を取らないし。

そして暗喩的には「妄想側の人達」と言う意味です。つまりアニメで作られた架空で理想の者たち、という事でもあります。

面白いのは渚カヲルですね。渚であり海と陸との間の存在だと映画でも言ってました。これはアニメ上では使徒側であり人側でもある人物、と言う事でしょう。

そして暗喩的にも、妄想と現実の間の人、と言う事です。現実の人とは誰か? それがイクニさんでもある気がしてならない。ただイクニさん等の要素が集まって出来た者、という方が正解かも知れませんけど。

ちなみに碇シンジの「碇」は船の碇ですね。海に沈められるが、また陸に上げられる存在であり、陸に戻ってくる存在と言う意味でしょう。

もっとちなみに「水の子どもたち」は大人に虐げられた子供が水に入り鍛えられ立派な人として戻ってくる、と言う話です。大人に虐げられたシンジ君がエヴァの中で水みたいな液体に浸かりますね。そして最後立派な大人になるという話なので、あのエヴァ内の液体に浸かる演出はここからかと思っています。

 

そしてポスターです。浜辺なのは「海と陸の間を目指す物語」を表している。

つまり妄想の世界と、現実の世界の両方を目指すと言うことです。

しかしもちろんキャラは皆、陸側に皆いますよね? だけど最後は陸、つまり現実に戻ってくる話、という事です。

これは妄想の否定ではなく、共存を目指すが、とりあえず現実には一度戻って来よう、というメッセージです。

アニメの存在、レイとアスカと最後別れて暮らすのはそういう事です。

しかしマリとは一緒に行きていく、これはバランスですね。マリくらいの距離感の存在、つまり外の世界を感じる、外の者が作った存在と行きていく、この位の現実との接点は大事ですよ、という事でもあるのでしょう。

またちなみに、マリも波ではないのか? と言うだろうけど、碇と結婚すれば碇になるからいいのです。

でも、じゃあアスカでも良いじゃないか? と思うでしょうけど、アスカは外の者、つまり自分で無い者、つまり庵野さんで無い者、ではないので、ダメなのです。それでは自己内の妄想だけの閉じた世界で終わる話になるからです。

海を感じながらも、陸に上がる事が大事なのです。

 

エヴァ映画版の最後も浜辺でしたね。ただあっちの海は赤かったのです。

つまり妄想の存在ではあるが、妄想の社会主義の世界だったのです。

妄想しか見てなかった学生運動家が夢見た赤き妄想の世界が、赤き海でした。

しょせんあんなのは血の海です。それと一緒に生きていこうなんて、どうかしてるのです。

妄想であっても、どんな妄想でも良いという訳では無いのです。

だから今回は普通の青き海です。青き海の妄想を見るべきです(社会主義より民主主義が良いとかは今回は関係がなく、学生運動家が見ていた夢はおかしいと言うことを意味しているだけです)。

 

シンエヴァではこの「海と陸の間を目指す」という始めからのメッセージをちゃんとやりきったと思います。

水のこどもたちが水を否定しないで陸に上がる、という話だったのです。

 

さて「エヴァ」が分かると「ピンドラ」も分かると言う事です。

ピンドラもペンギンですね。海を泳ぐ存在です。だから夢の世界であり妄想の世界であり死の世界の住人が、ピンドラのペンギンですね。この辺の作りは相変わらず上手いですね(元々エヴァのペンペン自体が、海と陸の間を表す者だったと思っていますが、上手く機能はしませんでしたからね)。

陸だと上手く歩けないペンギンなのも、お見事です(現世だとあまり役に立たなかったのが123号でしたので)。

そして映画版で初めと終わりが、水族館だったのはそういう事です。

水槽を陸に作り、陸から見て回れるようにしたのが水族館です。

妄想の世界を、現実の世界から見れるように作ったものが物語です。アニメや実写映画です。

そして海と陸の間とも言えるのが水族館です。妄想と現実の間を模索したエヴァと、庵野さん達の暗喩が水族館なのでしょう。

 

これらの暗喩が分かっていながら映画版を見ると、あの最後でも納得します。

庵野さん達がエヴァでアスカやレイと別れ、その後何をしようかと未来に進むのが見えたら、あの最後で納得します。

私はその様に見てたので、あの最後でも普通に見れました。

しかし家に帰り、他の人の感想をネットで見てたら「ん?」と気が付き、そうなると引っかかります。

それら暗喩を抜きにしたら、やはり少し淡白すぎる気がしたのです。

つまりひまりやりんごと別れて別々に生きていくショウマとカンバの二人と見た時、あの最後だとどうも物足りない。

これはイクニさんが最後暗喩を頭においていて、見た人の心を考えなかった為に間違えたのじゃないのか? と思えてきました。

あの最後が悪いのではなく、描き方や演出の仕方の事です。

もちろん、ララランドみたくわざとシコリを残す、という事かも知れませんけど、どうも個人的には好きではないですね。

ずっと客の事を考えた演出を心がけたのに、最後の最後で格好を付けて尖った演出をしてしまう所って、シンエヴァのラストと同じです(陸に降りた皆の足跡だけで出てこない所)。

わざとなのか? 結局似たもの同士なのか? どうなのでしょうね?