「シン仮面ライダー」考察です。
「どこの誰かは知らないけれど 誰もがみんな知っている」とは月光仮面の歌の一節です。
寺山修司は、顔を隠して誰かわからないのが、正義の味方である事が、嫌いだったようです。
これはあくまで暗喩的な文句です。政府側ではなく、警察でもなく、顔を隠した誰かわからない奴が正義の味方だという世界は、間違っている、と思っていたのでしょう。
これは反政府活動家の事を指していると思われます。
だからか、シン仮面ライダーは正体を視聴者に隠しません。なのですぐ面を取る。
彼は顔を出し、名も出し、しかし裏で仮面を付け戦う、孤独な戦士です。
仮面ライダーは誰でしょう? 本郷猛です。
では、本郷猛の仮面を付けた奴は、誰でしょう?
まず「おかしな所に暗喩あり」と言うのが、私の最近の格言です。おかしな所とは?
始めのクモオーグ、前日譚の漫画版では設定が出ているようです。
ゲイを告発した友達の秘密をバラし、その友達が自殺してしまったのを後悔しているようです(見てないので、たぶん)。
クモオーグの前日譚なんて、誰が知りたいのか?
それが本編の謎に係っているのでもなく、クモオーグが魅力的でもない。つまりこのキャラの前日譚を出し、深堀する理由があるだろうか?
そこで頭に浮かんだのが、寺山の戯曲「毛皮のマリー」です。
もちろんただ、出てくるアイテム名が似ているだけで、全然同じではない。
しかしゲイである事、友達が死んでしまった事、そしてたぶん後悔している事、などが当てはまります。
これだけだと、ただの「なんとなく」でしか無い。だから他の事で可能性を高めていく事が、暗喩を見抜くやり方です。
コウモリオーグの細菌兵器は、戯曲「疫病流行記」
ハチオーグの奴隷問題は、「奴婢訓」
kkオーグは、どうも(実際は出てこなかった)エヴァの8+2号機を思い出させる。あれはフェリーニの「8 1/2」だろう。
チョウオーグの宗教問題はピンドラを思い描けるし、社会主義に向かう暗喩に見えるのでエヴァにも見える。
この辺からは、もはやカンになるのだが、ここまで来たら「まず何かこの辺が係っている事に、間違いがない!」と思うでしょ? 思いましょう。
まず暗喩があると思う前に思ったのが「本郷猛とは、庵野さん自身のことである」という事です。
その後、暗喩があると思い、始めに考えたのが「本郷猛とは、寺山修司のことである」
しかし、これでは他の事がどうも合わない。
次に考えたのが「本郷猛とは、幾原邦彦さんのことである」
これは結構いい線いってたと思うのだけど、どうも細部が今一です。
で、今現在の最適解は「本郷猛とは、庵野さんの事である」という事です。
一周回って帰ってきました。輪わる暗喩ですね。
ただ、また考えが変わるかも知れない事は言っときます。
そもそも、庵野さんはイクニさんほどには上手くはないので、分かりにくいのです。
イクニさんは、もっと分かった時は間違いが無いようにするので、分かりやすいのです。
分かっても「どうかな?」と思ってしまったら、なんだか分からないでしょ?
分かった人には答えを置いとく正直者が、寺山流なのでしょう。
さて庵野さん自身の事だとしたら、つまり「自分の歴史を語りだした」と言うことです。
これは晩年にしだすことです。だから、晩年気分なのでしょう。
寺山も最後「さらば箱舟」で自分の歴史を語りだしていたので、それと同じです。たぶん、この「さらば箱舟」の事も意識して描いていたと思います。
ここで寺山の作品を思い描くようにする事も、まあ上手いと言えば上手いです。
そもそも、この作品で、暗喩を入れてくるなんて「やりやがるな」と言う感想です。本当に侮ってはいけませんね。
さて、だとしたら何を表しているのか?
たぶん、庵野さんが戦ってきた、暗喩がある物語の事を描いているのだと思います。
つまり内容を分かろうと戦ってきた物語の歴史でしょう。
初めが、クモオーグで「毛皮のマリー」
次が、コウモリオーグで「疫病流行期」
次が、サソリオーグだが、ライダーは戦っていません。だから物語とは違うけど、分かろうとした分からないもの「怖いサソリのような実際の女」の事かもしれません。
次が、ハチオーグで「奴婢訓」
次が、第二バッタオーグ、これは何でしょうか? 自分と似たやつでチョウオーグが作り上げたやつ。これはライダーなので、誰か監督などの制作者だと思うのだけどね。
次が、KKオーグで「8 1/2」だが、一号は足をおられる。つまり負けです。エヴァQの段階で分かってなかったと思うので、結局この時は負けだった、と言う事かもしれません(折ったのは二号なので、二号に負けたと言うことかもしれないけど)。
そして、チョウオーグ、宗教問題です。そして緑川博士の子供。しかも二号を作り上げたやつ。そして0号ライダーでもあります。これがピンドラであり、イクニさんではないだろうか?
庵野さんにとって、暗喩物語の始まりは寺山からなのでしょう。
だから暗喩物語で戦う改造人間にしたやつ、緑川博士(先生)が寺山なのでしょう。
だからチョウオーグは寺山の息子の様な存在、イクニさんなのでしょう。
二号ライダーはチョウオーグが作り、そして一号と一緒に戦う。だから榎戸さんかなあ? これはちょっと分からない。イクニさんリスペクトの制作者側の人で、庵野さんと一緒に仕事をした、他の人かもしれません。
緑川ユリ子は? これもハッキリ分からない。寺山関連から来た何かなのは分かるけど、何かなあ? 漫画か? アニメか? 少女漫画か?
それを拒絶したのがチョウオーグなのだから、イクニさんです。だからオーソドックスなアニメか? 少女漫画的な何かかな? 元々兄弟というのも、この意見であっていると思われます。元はセーラームーンから来た人だからね。
それに導かれれて、作品を作ったのが庵野さんだという事でしょう。
だがKKオーグに殺されるので、フェリーニの実写にうつつを抜かし、オーソドックスなアニメを捨て、実写リスペクトに走ったのが庵野さんだ、と言うことかもしれません。
沢山出てくる黒いバッタオーグは、庵野さんの作品にも似た、しかもイクニさん関連から出てきた、沢山の暗喩アニメの事かもしれませんね。
(ルリ子の衣装が赤だった可能性もあるようです。女優に選ばせたら茶色になったようです。赤だとしたら、寺山が作り出した、共産主義革命の暗喩、のことかもしれません)
最後はニ号だけが残る。
イクニさんから出てきた次を担う人かな?
しかも庵野さんの声すら聞こえるという、次の世代の人です。
庵野さんが次の作品の考えを話した時「再生怪人だからイチローも出てくるかもよ」みたいな事を言いました。
次はもう金が無いから、仮面ライダーの時みたく、再正怪人と言う手法を使い、だからまたチョウオーグが出てくる、と言う意味です。
チョーオーグは初め三号ライダーにしようとしたようです。
三号は、一号二号の時に出てくる予定だったが、ボツになったやつだそうです。その時の設定の名残で、チョウオーグは青っぽい色なのだそうです。
で、幻の三号ライダーだが、チョウオーグはダブルハリケーンでしたね。つまり本当に次に出てきたV3と、三号をかけているのでしょう。
もし次が出来たら、再正怪人として復活し、それがV3になる、と言う事も考えられますね。
そしてそれがイクニさん復活の物語の暗喩となるのです。
庵野さんは、たぶん、その事を頭に置いていたから「再生怪人として復活するかもよ」なんて前ふりを、わざわざ入れたのでしょう。
ちなみに、漫画版ライダーのように、次を作ったら、一号ライダーも復活するのです。これが庵野さんもまだ死なない、というメッセージです。
庵野さんの一段落の最後に、自分のこれまでの暗喩物語の葛藤と闘いを描いたとするのなら「やりやがったな」とやはり思います。
ただ、どうでしょうか? あってたとして、こんなの誰が分かるの?
あれだと、ただのカルト映画の仲間入りでしか無い。
やはり、シン仮面ライダーは、間違いだったと思えてしょうがないのです。
青い鳥は家に、元々いるのです。
庵野さんが戻るべき方向は、やはり宮崎駿だと思えて仕方がない。
しかし、宮崎駿にはなれないし、なる必要もない。
寺山と宮崎駿、それにイクニさんと富野さん、しかもそれにオタク要素をミックスさせた所に、庵野さんの進む道があるのだと、私には思うのです。
そもそも、仮面を付けて孤独と戦う必要など、もう無いのではないでしょうか?
23年5月4日 追加
仮面ライダーよく知らなかったのだけど、最後の2号の姿、どうやテレビ版の新1号ライダーの姿らしいですね。腕のラインが、二本だとかです。
だとしたら、なお更良く出来てるかもしれません。
つまり2号も庵野さん自身かもしれないのです。
1号の古い庵野さんに対し、イクニさんから出て来た新しい2号の庵野さん。その二つの要素が合わさった時に、完璧な庵野さんとして戦いに、勝つ事が出来ると言う事でしょう。
一人の中の二つの要素を二人として描き、二人出してしまうやり方、まさに寺山修司だし、そこからのウテナじゃないですか。
そして死んだように見せて。実は生きていると言うのも、逆シャアと同じです。
等の事から、確かに庵野さんの暗喩関連の集大成という作りになっていました。
いや、良く出来ていたけど、そこじゃないんだよね。
これはただの私の意見だけど、これは師匠の宮崎駿と同じです。
手が届かない所にあるものを求めたいのは分かるけど、彼らがやるのはそこではない。
今現在、まだ宮崎駿の最新作出てきてません(7月公開なのに、5月現在で出て来ないなんて、これはやはりあれが来たかな?)。
それ次第ですが、もし宮崎駿が冒険活劇を作ったのなら、庵野さんも気が付いてほしい。
庵野さんが向かうべき方向は、自分の得意な作品に、不得意な要素を少し入れた作品だと、私は思うのです。