号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

なぜ今ピンドラだったのか?

イクニさんが「ピンドラ映画版」をなぜ今になってやろうと思ったのか? を考察しようと思います。

色々ネタバレです。

ここのブログの前の文を読まないと、何言ってるか分からないと思います。

 

「僕の存在表明」を聞いてて「思った以上に言ってる事は庵野さんだな」と思ってたのですが、「いや思った以上ではなく、完璧に庵野さんの事だな」と思えてきました。

これは狙ったのかな? もしくはたまたま似たのか?

それがどっちであってもやくしまるえつこさんは「やりやがったな」と思えてしょうがないですね。狙っても、たまたまであっても、どっちでもすごい事です。

ただもしかしたら、そう言う風になるようにイクニさんが持って行った可能性もあると思っています。そう言うイメージの資料を渡したとか?

でも多分ですが、やくしまるさんが「見てろよ」と思って「今回はやってきた」のかな?

つまり10年前は気が付いてなくて(イクニさんが言わなければ、アニメ始まる前だと絶対分からないし)、今回はそれが分かっていて(エヴァの暗喩と言う事)、「前は隠れて裏で勝手な事をしやがって」と言う思いで、今回こそはやってやると、出してきた可能性があると思っています。

さて、どうだったのでしょうね?

 

私は前から「他人の意見は面白い」と思うので、ネットで他人の感想を見たりします。

そこでたまに私が気が付かない答えが出てる時があるのですが、それは「たまに」です。

たまにではなく、大体答えが出て来るのなら、私はここで書きません。書く意味が無いからです。

しかし大体において答えは出て来なくて、しかし「そこが気になるのか?」と言うヒントは貰えます。

このヒントが大事です。皆が気になったヒントに、何か作者の意味がある可能性があるからです。

だから気になるヒントを見いだせるだけでも、他人の感想って面白いですよ。

 

今回の映画版で新しい事として「子供のカンバ達は自分が何者か忘れている」と言う話でした。元とは変わった所だから、ここに意味があるのです。

そして出した答えが「ひまりの、お兄ちゃんだ」と言う事でした。

ネットの感想でここが気になってた人がいました。それで思い出したのですが、私も「これはなんだろう?」と見た時は思ったのですが、忘れてました。

新しい要素でわざわざ足して、出した答えが「お兄ちゃんだ」と言うのはなぜか? そんな事は昔から視聴者は皆知っているからです。

 

一つは、カンバにはひまりに恋愛感情があったが、それは幻であり「お兄ちゃんだ」と言う感情に気が付いた、と言う事かと思いました。まあこれも合ってるとは思います。

ただ「ひまりの」だけではなく、「お兄ちゃんだ」が答えなのかな? と思ったら、もう一つの可能性も見えてきました。

誰の? それは皆のです。

皆とは、映画を見ているみんなです。

 

最後のキャラが「愛してる」と客に言う所も、新たに足されたところでした。

これは暗喩的に、製作者の暗喩のキャラと、製作者の作り出した分身のアニメキャラが、見ている客に愛を訴えかけると言うシーンです。

アニメキャラが客に「愛してる」と言った所でなんなんだ? と言う思いが、昔から私にはありました。

それを喜んだ所で、アニメや妄想に喜ぶ危ない行為に思えたからです。

しかしアニメキャラとは、本当に生きている製作者の分身なのですね。

そこに生きている人の思いが詰まっている。

そしてアニメキャラを間に挟んで伝えたとしても、その作り手の思いが客に伝われば良いのでは無いのか? と最近思えてきました。

イクニさんもそこに気が付いたのではないのか?

アニメを挟んだとしても、それは作り手の伝えたい本当に思いがあると気が付いたのでは無いのか?

 

ここで庵野さんが関係してるのが効いてくるのです。

「何者かになれる」とは庵野さんの事です。紫綬褒章をもらいましたね。

これはこの賞がどうと言うより、世間一般にもオタクが認められたと言う事が大事です。

オタクとは「何者にもなれない」けど「それでいいじゃないか?」と言うのが元のピンドラのメッセージだと思っています。

それが庵野さんは何者かになってしまった。

オタクがオタクのまま、オタクをやり通しても「何者かになれる」と言うのを示した庵野さんに感動したのが、今回のイクニさんだったのではないのか?

エヴァも最後までやり通し、名も残した庵野さんを見たからこそ、今回のメッセージを、今言いたくなったのだと思います。

 

やはりこのタイミングでピンドラ映画版を出したかった理由は、庵野さんがエヴァなどでやり遂げ「何者かになった」事の賛美でしょう。

元々庵野さんが、エヴァで寺山をやると言う魔が差した行為は、イクニさんのせいだと思ってます。だからこそのピンドラは、エヴァの暗喩でもあったのでしょう。

10年経ち、イクニさんが思ったより庵野さんが迷い、しかしそこから立ち直り、偉業を成し遂げた事の驚きと賛美から、今回のピンドラ映画版をやりたくなったのだと、思えてきたのです。

 

「お兄ちゃん」とは、一つは、製作者としてアニメキャラに溺れるのではなく、その親族の兄位の感覚だと思い、アニメを作っていけるようになった庵野さんの暗喩でしょう(つまりアニメキャラからいい塩梅に距離をおいている)。

そして同時に、庵野さんは「見ている人の兄」であると言う事です。それに気が付きそれを成し遂げるが、庵野さんのなすべき事だと気が付いた、と言う話です。

オタク要素をオタクの弟や妹に伝える、兄的存在としてまっとうするのが庵野さんのななすべき事だった、と言う事です。

ゴジラエヴァウルトラマン仮面ライダーを後世に残す事が、庵野さんのなすべき事でしょう。

 

イクニさんは、この10年で変わった庵野さんへのメッセージと、成し遂げた事への感動で、今回の映画を作った気がしたのです。

ピンドラの表の話はもう決着が付いていて、あのままで良いと思ってたのでしょう。

だから話の内容は変えなかったのでしょう。そもそも変える気も無かったのです。

 

私は、10年も経ち、エヴァも終わり、なのにピンドラの総集編って何をしたいのか? と思いました。

だからエヴァはもう忘れて、暗喩を抜きにしてもよく出来た物語を、もう一度皆に知ってもらおうとしてるのか? と映画をやる前には思ったのです。

しかしそっちではなく、暗喩の方、庵野の方がやりたい事だったのですね。

確かに庵野さんを考えると、下手な物語よりずっと面白く、しかも刺激的ですし、文学的です。

エヴァを死にものぐるいで作り、皆に認められ、しかしその後拒否され、迷い、また始め、また称賛の後、また否定され、狂い、もう無理だと諦め、しかしそこから復活して、見事やり遂げ、それが皆に認められ、何者かになったのです。

いやー、確かに現実は小説より奇なりですね。まいったね。

それを見てきたイクニさんが、ピンドラにかけてもう一度、と思うのはしょうがないかな?

だからこその、今このタイミングだったのでしょう。

 

しかしです。

イクニさんは、あまりに面白い庵野さんの人生に目が行ってしまって、自分の物語「ピンドラ」に目が行かなかったのではないのか? と思えて仕方がないですね。

だから総集編止まりだった気がするのです。

だとしても、庵野さんを惑わせた人が、自分も惑わし返しをされたので、オアイコという事で、良いのかも知れませんけどね。

 

22年8月21日 ちょっと追加

 

今回ここで書いた事は、前に書いた事のまとめみたいなものです。

それをなぜまた書いたかと言うと、ちょっとイクニさんの心が見えた気がしたからです。

庵野さんの暗喩も入っている、ではなく、それこそがやりたかった事だと思ったからです。

そう思い今回の映画の作りを思い出したら、一本筋が通り、個人的に映画版の考察が出来上がった気がしたので書きました。

ただ、もちろん勘違いの可能性もあります。

しかし合ってたとして、この一本筋が通り、それえ故に作り手の心が見えたかのような感動って通じるかなあ? と思い、少し文を足した次第です。

私は今回の映画版、総集編過ぎて今一納得できなかったのですが、庵野さんの事を考えると、確かに我を忘れてしまうほど感動する事に気が付いたのです。

 

22年8月29日 また少し追加

 

言い忘れてた事と、気が付いた事。

 

ピンクの熊の縫いぐるみは、ピンクなので暗喩で言うとアニメの象徴ですかね?

それがカンバ達に壊され直されるが、眼帯で包帯姿でした。

あれこそが「田園に死す」オマージュです。眼帯姿のおばあさん出てきてましたよね。

つまり、普通のアニメを壊し、田園に死すオマージュに作り変えたエヴァの事を表してます。

そしてエヴァでもアスカが眼帯だったのは同じ理由です。

 

最後の方の追加で本が飛んでいくシーンありました。余分で冗長かと思ってましたが、意味があって足したのですね。

あれは本がカンバ達を後押ししてました。つまり過去の作品が庵野さんたちを助けていたと言う事です。

そして、壁に当たって進めなくなったカンバ達を、ピンクの本たちが桃果と一緒に助けると言う演出です。本だけどピンクなので、アニメが彼らを助けたと言う事でしょう(アニメ等の、元々は子供向けの作品、の事かもしれないけど)。

そして本には呪いのシールが貼ってあったのだが、それが剥がれたので、カンバ達を助けた、と言う風にもなってました。

過去の作品には、庵野さんを縛って迷わす呪い要素も付いてあったのだが、それを剥がしてしまえば、つまり上手い具合に呪い要素を取れれば、助けになると言う事です。

 

ちなみに、最後にもう一度「デスティニー」って桃果が言ってましたね。

やはりあれは変身したりんごでしょう。

 

最後が「きっと何者かになれる」の言葉で終わりでした。

この言葉で終わらせる事も含め、やはり劇場版は庵野物語か。まあ仕方がない。

2011年にピンドラ、2012年にエヴァQ。そしてその後おかしくなって作れなくなったのが庵野さんで、そこからシンエヴァで復活するのだから、まあ面白い訳ですよ。確かに感動もするしね。

 

今回新たなARBカバーで入れた曲のメインが「AFTER'45」でした。

つまり戦後世代と言う事ですが、曲の歌詞で85年とあるので、この頃の歌ですね。

「狭い街角で出会った」と言う歌詞です。

この曲を今回わざわざ入れた理由も、この世代にイクニさんが出会ったのが庵野さんだったと言う事でしょう。