号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

Recycle

映画「RE:cycle of the PENGUINDRUM」後半、見ました。 ただの感想です。 前編まで含めた、ネタバレです。 思ったより総集編ですね。

 

後半見ても、やはり総集編でした。

なので主に感想を言います。

 

バーション違いのオープニングテーマを見ただけで感動しますね。

でもこれはただのファンとして楽しんでいただけです。

 

後半は元々がやはり濃いです。

よく出来た物語なのが分かります。

そして時間がないので、最低限大事な所を繋いでありました。

これは、1つはダイジェストなので、始めての客はついて行けないでしょう(まあそもそも元々のでも、ついて行けないのですけど)。

2つめとして、大事な所が分かると言う事です。

個人的には、ほぼ「だよね」って所が入ってました。そうは言っても、他にやりようも無い気がしますけどね(つなげ方は前半より凝ってた気がします。テレビの方のオープニングここに入れますか、みたいな)。

 

新規映像はどうか? 他の人のネットでの感想で「冗長に感じられた」とありましたが、私も概ねそんな感じはしました。

ただ(これは前半もそうでしたが)少し休み時間が必要な内容なので(濃いので疲れるので)、あまり意味がない時間も必要なのです。それは分かって上げてください。

 

そのあまり変わらない内容の中で、変わった所が大事だと言う事です。

「何者かになれる」か「何者にもなれる」とどう言ったかも忘れましたが、そんな事を言ってました。これはTV版からの変化ですね。

一つはやはり暗喩として、庵野さんの事かとは思います。あの人は何者かになってしまいましたからね。

もう一つは「前向きで当たり前なメッセージを言えるようになった」と言う事でしょうか? イクニさんがです。

 

これは「愛してる」と普通に言ってしまう所もそうです。

昔のイクニさんだったら言わなかったでしょ?

これが変化ですね。

 

これも一つは庵野さんがエヴァでやった事にもかかっているかと思います。

エヴァはシンエヴァで「当たり前な事を言うようになった」と世間から言われてたと思います。そしてだから「つまらなくなった」と言った人もいました。

ではどうなのか? 年をとったのか? 才能の枯渇か?

 

面白いのは、富野さんさえも「Gレコ」でやっている事です。

この人も明るく、そして概ね当たり前な内容の事をやり始めました。

皆がどう思おうが、私は「やっとここにたどり着いた」と思っていますけどね。

 

言葉とは、なんとでも言えるものです。

例えば、名言と言える言葉があったとして、それが何であれ「誰でもそれと同じ言葉は言える」のです。小学生でももちろん言えます。

だから誰が言うかが大事だと言う事になるのだが、これは「バックボーンが大事だ」という事です。

つまりその言葉自体より、もっと多くの内容が裏に隠されていて、それで初めてその言葉が重さを持って人の心を打つのです。

 

私は、富野さんがGレコでやってる事は、他の人がやっていたら駄作だとしか思えなかった事でしょう。

しかしバックボーンが見えるから、そこに意味や重さやメッセージ性があるのが分かり、価値があると思えるのです。

最近富野さんが「Gレコはガンダムと逆の事をやった」と言ってました。やはり意味がある事を考えてやったし(あってるかは別として)ガンダムの問題点(今の時代に会わない)などを最後正して行こうと思ってたのだと、あの発言で確定しました。

 

庵野さんがシンエヴァでやった事もそうです。

あれを見て当たり前だと思った方、当たり前の意味の深さをようやく理解したからこその「当たり前」なのです。

ただ馬鹿が何も考えず当たり前をやったのだとは違うのです。

地球を一周して見て回った後の家の前の光景と、ただ生まれて初めて外に出て見た家の前の光景が、同じな訳がない事は理解しておきましょう。

 

そしてイクニさんです。

今回の映画は、演出が当たり前でした。

どっちかと言うと泣けるような演出です。

もちろん元があり、それをまとめるとああなるのでしょうけど、その当たり前の感動させる演出を、馬鹿にした斜めに見た演出にしないで素直にする。こんな事、今までのイクニさんがやったでしょうか?

私には、幾原さんと言う人間が、当たり前の良さ、深さにたどり着いたのかな? と思えましたがどうでしょうか?(この人の場合は前から気が付いてた気もしますので、鮮明になったと言った方が正解かもしれませんけど)

 

これは「愛している」もそうですし「何者かになれる」もそうです。

この当たり前を、昔々は当たり前を否定してただろう人がやる意味を、考えてほしいのです。

当たり前とは、意味があり長い歴史の上で、何度も言われ使われ「当たり前」になったものでもあるのです。

だからそれを考えず否定した時点で、間違いなのです。

 

「何度も言われ使われ」とはリサイクルですよ。

皆がやらないものは、普通は意味があるからやらないのです。

皆が出来ないものをやりましょう。やらないものではないのです。

そして皆がやる当たり前の価値も、ちゃんと理解しましょう。

皆がやるからには、意味があるからやるのですから。

 

「Gレコ」と「シンエヴァ」とそしてこの「ピンドラ」。

良い悪いは別として(好き嫌いも別として)物語製作者側の人はもっと考えるべきだと思えます。

後世に残るメッセージが多く含まれた作品であることには間違いが無いのです。

それが正解でも間違いでもです(つまり全てを鵜呑みにするのは危険だということです)。

 

サネトシ先生は、暗喩的にイクニさんだと思ってました。今でもそうです。

しかし他の要素も含まれてたのかもな? と思えてきました。

つまり死んだ先代が集まった暗喩「でも」あったのかと思えるようになりました。だから死んでいる。

それこそ寺山さんや実相寺さんです(死んでないけど富野さんも)。

それらに流され、つまり「庵野さんが過去に呪われ影響されておかしくなったのが旧エヴァだった」とも取れなくもないな、と思えてきました。

今回のプリンチュペンギンがサネトシだという演出でしたが、プリンチュペンギンの姿形、何に見えます?

あれこそがウルトラマンですね。おしゃぶりがカラータイマーです。

シンウルトラマンはカラータイマーがないので、もしかしたら実相寺さん(等)の亡霊、と言う意味があったのかな? と思えました。

 

そうだ。最後も少しだけ変わりましたね。

ショウマとカンバがちゃんと生きていると分かる演出です。

あれは死んでいると勘違いさせたくない、という強い意志が見えました。ここもイクニさんが前向きになったように見えますね。

 

ただ最後にひまり達とは別に生きていく。

ここはどうかなあ? 暗喩がわからない人が納得するのか?

暗喩が分かると納得すると思います。やはりエヴァのアスカとレイの二人なのですね。

そして外なる実在の物(つまりスタッフの誰かの象徴のショウマ)と一緒に生きていくのも、エヴァと同じというか、エヴァより前にやってます。

イクニさんも「エヴァのマリとは女装した実在のスタッフの象徴であり、それと一緒に生きていくという終わり方だと思った」と言う事だと思います。

 

せめてTV版の最後に出るエンドカード出してほしかったね。

あれでなにか救われる話になったと思うけどなあ。

 

言い忘れてたので、ちと追加

そう言えば新桃果にはマギレコの暗喩が入っていると思っています。だからバレエの様な踊りを少し踊って見せましたね。

そしてマギレコの人達には、この当たり前を叫びだしたイクニさんの意味を考えて欲しいものです。

最低限当たり前をやって、初めてあっと言わせる事をやっていいのだと、庵野さんも富野さんも宮崎さんも、いまや押井さんも分かっていると思います。そして今回のイクニさんもです。

どうかこの意味に、気が付いてほしいのです。

 

22年 7月 29日 追加

 

言い忘れてたけど、少しなのでここに追加します。

「君の列車は生存戦略」と言う題名で、元々どこから生存戦略が出て来たのが分かります。

ガイナックスから独立、分裂したカラーの最初の作品が、エヴァ新劇場版でしたからね。

会社をやって行くためにお金を稼ぎ、名を売る。その為に選んだのがエヴァです。

一度ひかれた線路の上をもう一度走る。だから列車なのでしょう。

もう一度エヴァをやるのは、庵野さん達の生存戦略だったのです。

だけど、まるっきり同じではなくラストを変える為でもあるのです。

だから運命の乗り換えをする話になったのです。

 

今回駅の看板で、前の駅が生存戦略、ここが運命の至る場所、そしてる次の駅が存在証明でしたね。

これは前にも言いましたが、生き残った後でやる事は、存在証明になるのでしょう。

 

キャラが「愛している」と言う所は、まあ良く分からないのですが、エヴァなどの作品から、客に向けての愛を感じたのかもしれませんね。

 

カンバとヒョウマが子供なのは、庵野さん達がこれからは(これからも)子供の心を持ってやって行くと言う事です。

だからウルトラマン仮面ライダーをやるのです。

 

せっかくなので、ちょっと個人の感想です。

ラスト淡白過ぎたとはもう言いました。

ではどうすれば良かったのか?

ここで10年経ち大人になったひまり達を出すチャンスだったのでは無いのか?

それこそお腹の大きなひまりと、小さな子連れでロン毛のりんごを出すべきだったのでは無いのかな? それで今までの、もろもろの決着が付いた気がします。

それを子供のカンバたちが遠くから見て、うなずいて去って行き、それで「どこ行きたい?」「じゃあ……」で終わりで、ケリが付いた気がするのですが、どうでしょうか?