しつこく、ピンドラ周りの事を書きます。
細かな解釈の事です。
寺山の戯曲「毛皮のマリー」を思い出していて「マリーの友達の女って誰なのだろう?」と思った事から話は始まります。
友達である女の子供が美少年です。
その美少年の前に現れる謎の美少女、彼女を殺す話です。
この美少女は美少年自体の分身でしょうね。
「母から逃げ出したい気持ちの化身」とでも言うのでしょうか?
となると、「マリーの女友達ってのも、もしかしたらマリーの心の分身のことだったのかも知れない?」と思えてきました。
美少年が美少女を殺したように、マリーも心の中の女友達を殺したのかも知れない。
つまり、自分の中のいやらしい部分か、良い部分かを殺したのでしょう。
そしてその心の中の分身、友達の女のようになりたいと言う心から、女装をして似せようとしている話、だった気もしてきたのです。
(もちろん、女になりたいと言う事から作られた、理想の女、であるから似せているし、しかし結局は女性にはなれない事から、憎むべき存在だったのでしょう)。
マリーと女友達は同一性があるという事です。
もっと考えると、子供の美少年とマリー自体も似ているとも見えます。
だからマリーと子供自体も同一性があるのかな? と、始めは思いましたが、たぶんそこまでは行ってないようです。
ただ、子供が親に似てくる様に、世代を越えて繋がる呪いと絆が見えてはきます。
これをピンドラでは、真砂子とおじいさん(実際は父)で似てくるのを表してましたね。
暗喩で言えば、実の親子の事ではなく、弟子のようなものを表していて、師匠に似てくる呪いと絆の両方を表しているのでしょう。
この「毛皮のマリー」のマリーと女友達の関係は、エヴァになるとマリとシンジの母ユイの関係になります。
「エヴァのマリはユイに憧れ、似てきている」とも見えるのです。
そして「ユイに似てしまい、シンジを愛するようになっていった」とも見えます。
「シンジは、毛皮のマリーの美少年の様に、危ないマリにとらえられてしまった」様にも見え、もはやホラーですね。ただこれで毛皮のマリーそのものになるのです。
ただ、そうは言っても、言いたい事は違うのでしょう。
ここで「田園に死す」が足される事により、ホラーではなくなるのです。
「田園に死す」の最後では、母と飯を食べて終わります。
途中で示しているように、実際の母は、この時はもう亡くなっているのです。
なので、最後のシーンは「死んだ母の(気持ち的に)呪いに囚われているが、その母の思い出と共に生きていっても良いかだろう」と思えた、という話だったのです。
トラウマと嫌な思いの塊だったと思っていた母の思い出が、実は悪くなかったと理解して、それを抱えて生きていっても良いだろうと思えたのです。
エヴァのマリも(ちょっと違うのだけど)概ねそうです。
マリは憧れていたユイの呪いをうけている人であり、そのために母ユイに近づいている人であるが、シンジはそれと一緒に生きていってもいいだろう、という話です。
ではマリはなんなのか?
ここでマリがピンクだった理由が分かるのです。
ただマリはピンク自体ではなく、ピンクに染まった人、という事でしょう。
ではピンクは何か?
これがピンドラで分かるのですが、始めは(たぶん)「トップをねらえ!2」から来てると思います。
つまり、ピンクとは「アニメの象徴」です。
マリとはアニメとかの歌を歌うし、言葉もオタクの人っぽい口調です。
マリは鶴巻さんが作ったらしいし、他人の象徴でもあるのだが、それと同時に「アニメなどに浸かって、アニメっぽい口調などをしてしまっているオタクの象徴」でもあったのです。
庵野さんはアニメだけに浸かっている、アニメだけを見ている人を、多分嫌っていたはずです(それは昔の庵野さん自身も含めてかも知れないけど)。
アニメだけ見ていて、それだけに影響された人が作っている作品をダメだと思っていたようです(個人的には、それはあっていたと思っています)。
だから抗おうと思い、作ったのがエヴァですね。
しかし旧エヴァは尖りすぎていました。
アニメの、いや昔の物語自体を否定しすぎていて、物語として失敗してました。
だから新劇場版で、やり直したのでしょう。
そしてシンエヴァの最後では、その「アニメに浸かってピンクになってしまっている人さえも肯定しよう」という所まできたのです。
しかしシンジはピンクにはなりません。
つまりピンクとは手を取り合って生きていくけど、自分は浸からない。
これは、シンエヴァの最後のシーンも同じで「実社会とアニメのバランスをとって生きていこう」という事です。
こういう風に暗喩でとらえると、マリも危ない人ではなく、あくまで「アニメに染まった、他人であるオタク達の象徴」だった、という事でしょう。
そうなると、ユイがアニメ自体になるのだけど、これはちょっと怪しいです。そこまで強く考えているかな?
ただゲンドウがユイを求めていた、という最後だったのが、そう思うと納得はします。
岡田斗司夫さんが「ゲンドウは宮崎駿だろう」と言ってました。確かにそう見えますね。
ゲンドウのヒゲにメガネの見た目もそうだし、庵野さんに「アニメを描け」と押してくる宮崎さんが「エヴァに乗れ」というゲンドウみたく見えたのかも知れませんね。
シンエヴァの「ゲンドウはもう一度ユイに会いたかっただけ」という最後の言葉に「そんな事は昔から知っていた」と言う、ちまたの感想が多かったと思います。
しかし「宮崎さんは、結局もう一度アニメを求めていたシーン」だと見れば、結構面白くないですか? たぶん最後になるアニメ制作をやってる頃だしね。
さて、ピンドラの方です。
眞悧(サネトシ)という名は、マリとも読めますね。つまり彼がマリーです。
しかしなぜマリーなのか?
イクニさんは流石によく分かっていて、毛皮のマリーのマリーと、女友達には同一性があると分かっていたのでしょう。
マリーは女友達を求めていた。そして、サネトシは桃果を求めてましたね。
サネトシはロリコンと言うわけではなく、マリーだから、桃果を求めていたのです。
そして、桃果こそが、理想の存在であり、自分(サネトシ)と同一性がある人物だったのです。
だからこそ、同じピンクであり、同じ特殊能力を持っていたのです。
どっちもピンクの化身なので、アニメの事でしょう。
アニメの白い部分が桃果です。
だから正義の塊であり、良いことしか言いません。
しかし分かっていると思いますが、あれはあれで胡散臭く、不気味ですよね?
そしてサネトシこそがアニメの黒い部分の事です。
そして「アニメに幻滅した、アニメ制作者の塊」でもあるのでしょう。
そしてそこから、やはり、「サネトシはイクニさん自身でもある」という事だと思います。
ただイクニさんだけではなく「アニメに対する黒い心が固まって出来た要素」だと言うことです。
「逆襲のシャア友の会」という本を読んだのですが、エヴァのちょっと前の庵野さんは、アニメ制作者が全然ダメだと思っていたようです。
庵野さんにしたら、アニメ制作者はこの頃(1993年)に、もう燃え尽きて灰になっていると思っていたようです。
(この「灰になっていると思っている」と話していたのが、誰であろう、イクニさんですね。ここから、ピンドアの枯れた木に不思議な灰をかけて復活させる話が思い付いたのでしょう)
そして、この幻滅してダメだと思っていた黒い心の象徴がサネトシであり、その黒い心が、カンバこと庵野さんをおかしくしてく話がピンドラでした。
イクニさんはピンドラで、マリーことサネトシと、求める女に同一性を付けるなど、より寺山を取り入れる事では完璧な作りでした。
そして同一性がある方が、同じアニメの白い要素と黒い要素となるので、メッセージ性が綺麗におさまり、見事でした。
この辺の事では、パズル的に完璧に持っていったピンドラは、エヴァよりよく出来ているので、本当に感服いたします。
TV版のピンドラでも「黒と白は、同じところになければならない」と言ってました。
それは、アニメのダメ出しを思う黒い気持ちと、ただ正義と綺麗事を言う白い気持ちの両方が、アニメには必要だと言うことでしょう。
なのに、です。しかしテレビではサネトシと桃果は、最後別々になってしまいましたね。
だから、直したかったのでしょうね。
なので、映画版のサネトシが、ペンギンに生まれ変わり、桃果の所に現れている、という演出になったのでしょう。
物語上で言うと、たぶん、サネトシの生まれ変わりのペンギンは、苹果の所に幽霊として現れたのでしょうけどね。桃果はもういないから、生まれ変わりに苹果について回っているという演出です。だから今回の桃果は大きかったのですね。体は苹果だからね。
そして、これで黒のサネトシと、白の桃果が一緒に所にいるという、より完璧な作品になったのが映画版でした。
話が少し戻り「毛皮のマリー」の事です。
マリーと女友達が同一人物だった方が、より面白いですね。
そうなる事で、色んな暗喩として当てはまり、いく重にも物語を見ることが出来ます。
やはり寺山はすごいなあ、とも思った、という話でした。
23年12月3日 追加
貞本版の漫画の愛蔵版7巻の表紙の絵で、ユイの絵が出て来ます。中に着てるのはピンクでしたね。
そうなるとやはりユイがアニメの事だと思います。
物語上では、マリもユイに憧れてピンクとも取れるし、暗喩といしてはアニメに染まったオタクとも取れるし、良く出来ている。
ユイが理想のアニメその物。
そしてレイがユイのコピーだとたら、レイが沢山作られたアニメのキャラの一つと言う事。
その沢山作られた似たようなアニメキャラのほとんどは、代えのきく模造品だと宮崎駿(ゲンドウ)は思っていて、やはり理想のアニメの象徴ユイを求めている、と言う話です。
最後レイも髪が伸びている。模造品ではなく一つのアニメのキャラとして成立した、と言う事でもあるし、長く生きたアニメキャラは、もはや長く生きた(実在の、しかし会えない)有名人ぐらいの存在、つまり生きた存在と同等、と言う事かも知れません。
つまり、エヴァって思った以上に、暗喩としても良く出来ている。