号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

地球儀

君たちはどう生きるか」考察、五回目です。

 

前回の妄想から、また妄想へと膨らませます。

 

その前に、米津玄師さんのエンディングテーマ「地球儀」の感想です。

歌とは、音楽要素と、歌詞要素の二つがあると思っています。

音楽要素は流石に上手いですね。雰囲気があっています。

では歌詞は? と言うと、つまらない単調な言葉ばかりです。

 

しかしこれであっています。

そもそも宮崎駿の事を、この少ない言葉で描くのは無理です。

映画としても、二時間の映画で言える文字数や映像を、この文字数で描くのは土台無理です。

無理して、かっこつけて、何かやろうとしたら、ただの背伸びした歌詞にしかならない。

 

ならいっその事、雰囲気だけの単調な言葉の羅列の方が良いのです。

単調で単純な言葉なら、人々が勝手に意味を入れ込めるからです。

 

これは枯山水の様な物です。龍安寺の石庭の様な物なのです。

この削って行くやり方を、狙ったのなら見事です。

さて、どうだったのでしょう?

 

それはともかく、個人的に引っかかったのが、題名「地球儀」の方です。

この映画の内容で、この歌詞で、急に「地球儀」と言う言葉を出せるのか?

私は、たぶんですが、この題名は宮崎駿が指名したか? もしくはその方向に導いたのでは無いのか? と踏んでいます。

 

では、地球儀とは何か?

ここで前回の考察「イクニ作品見てるんじゃ無いのか?」に係ってくるのです。

 

元の小説「君たちはどう生きるか」を使った理由として考えられるのが「宮崎駿が子供の頃に影響を受けた作品」だと言う事でしょう。

「子供の頃の影響された作品は大事だ」と言う事で、この作品の暗喩に係っているのです(影響されたアニメなどが大事だと言う事)。

 

他にもこの題名が大事ですね。

次の世代に向けて「どう生きるか? 考えろ」と言うメッセージです。

これは同時に「先人と同じではダメで、自分の道は、自分で考えろ」と言う事です。

 

これら俯瞰した時のメッセージが大事で入れたのが「君たちはどう生きるか」でしょう。

なぜなら、この映画の流れ自体は、他の小説の話に沿っているからです。

つまり内容自体は他の作品の方が大事だと言う事です。

その作品と言うのが「失われたものたちの本」なのだそうです。

この「失われたものたちの本」の内容に沿った話なのだそうです。

 

(この「元の話がある様に見える」と言う所も、ピンドラっぽいけどね。それに吉野源三郎宮沢賢治と同時代人なのも、気になります)

 

なので「君たちはどう生きるか」の方は、内容より、そこから導き出せる要素の方が、大事だった、と言う事です。

そこで気になる要素が、小説の主人公が「コペル君」と言うあだ名だと言う事です。

 

コペル君とはコペルニクスからですね。

コペルニクスとは「地動説」を唱えた人です。

 

銀河鉄道の夜のジョバンニとカンパネルラは、実在の同一人物から取ったのではないか? と言われています。

それがジョバン・ドメーニコ・カンパネッラから来ていると言われていて、同一人物から二人の名前を付けた銀鉄では、この二人に同一性があると言われています。

(ジョバン・ドメーニコ・カンパネッラはトマソ・カンパネッラの元の名前です。トマソの方でwikiには出てきます)

このカンパネッラは聖職者だが哲学者で、地動説を説くガリレオを押していいたようです。

 

コペルニクスの時は、まだキリスト教会に地動説は認められていたようです。

コペルニクスの死後、ガリレオが地動説を押すころには、地動説が異端扱いになり、ガリレオは捕まる事になります。

そのガリレオを押すカンパネッラもまた(他の理由も色々あるのですが)捕まったりしたようです。

 

つまりコペルニクスガリレオもそれを押すカンパネッラも地動説を押していた。

それを取り入れた「銀河鉄道の夜」も、間接的に地動説を押しているとみなすべきでは無いのか? とも見えると言う事です。

 

そこでピンドラです。

ピンドラでは天球義がよく出て来ます。

天球義だから天動説と言う簡単な話では無いのですが、元は天球義は天動説から来ている物です。

だからピンドラの天球義は間違いじゃ無いのか? と宮崎駿は思ったのじゃ無いのか?

 

そこで、正解は「地球儀だ!」と言いたかったのじゃ無いのかな? と思っています。

だから「地球儀」と言う言葉を取り入れ、コペル君が出て切る小説ももちいたのじゃ無いのか?

 

つまりピンドラへの挑戦であり、自分の方が正しいという、ケンカを売っているのでしょう。

 

もちろんピンドラの天球義は、ただの少女漫画風をかもし出す装置でもあるので、そこにイチャ物を付けるのはどうかと思います。ピンドラでは、あまり大事な要素ではない。

 

そうとは言っても地球儀の方が、メッセージとしては正しいのは認めます。

地球とは、永遠に回る物です(ずっと続く物、終わりのない物)。

それに朝と夜とが繰り返される。夜が来ても、必ず朝が来ます。逆に今明るくても、いつか夜が来るのだとも言う物です(悪い事と良い事の事です。それに生死の事です)。

それに大地を表し、地に足が付いてます(これはフラフラした夢ばかりではなく、地に足が付いた現実に即した生き方、考え方が大事だと言う事)。

しかし地球儀は作り物です。だが、作り物に愛を表し、そこに世界に対する夢を見るのが人であり、子供なのです(作り物であるアニメの事)。

 

などの事から、暗喩としての天球義を否定し、地球儀を押してきたのが、宮崎駿だと思うのです。

しかも「自分の方が正しい」と言うケンカを売って来てるあたり、流石戦前生まれ(戦中生まれ?)です。その強さには感服します。

 

さてこの地球儀の暗喩、いいですね。

ずっと回るが、朝も来るし、夜も来る。

最初のエヴァ後で、夜であった庵野さんにも朝が来るし、朝であった宮崎駿にも、いずれ夜が来るのです。

 

風立ちぬ」は「自分の人生は間違ってなかった」と言う自己擁護です。

しかし「君たちはどう生きるか」では、ジブリと自分の終わりを示し、しかし次の世代に伝わる、と言う話なのです。

ここに宮崎駿の死が見えたのです。

風立ちぬ」の様に自分擁護のカッコつけではなく、崩れ行く自分の世界をちゃんと示し、年老いた自分も示す。終わりだと伝えるてのです。しかも庵野さんは継いでくれない。

自分の残した物は、ただの石であり、墓石と同じであり、もはや育つ事もないものだと言うのです。

その中で、次の世代へ繋がっていく事を示し、次の世代は自分でどう生きるか考えろ、と言うメッセージを残したのです。

そう思いながらこの映画を見たら、泣けて来るでしょ?

 

ちなみに、やはり弟とは吾郎さんだと思えてきました。

駿さんも人の子なので、自分の子供も出す。

しかしこの弟には何も活躍させません。作家としたら、まだ何もしてないと言うのです。ここに宮崎駿の作家としての誠実さが見える。

しかしあの弟を見ると、どうなるか分からないけど、希望は見えます。可能性はある。ここに宮崎駿の、親としての顔が見えるのです。

 

この映画は、賛否両論です。

なぜなら、いびつだからです。

それは、この年でやった事も無い物に挑戦するからです。

しかしその事も、暗喩も、すべて宮崎駿の最後らしい作品ではありました。

個人的には、今までのジブリ作品ではなかった、最後に泣けて来る作品を作ってくれて、ありがとうございました。