号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

作家という者

 「君たちはどう生きるか」 まとめ

 

アニメ映画「君たちはどう生きるか」がオスカーを取りました。

このタイミングで、ちょっと、まとめようと思った次第です。

 

歳を取ると、昔に縛られます。

新しい事に興味がなくなると同時に、頭も固くなります。

だから同じことを何度も言うようになる。

それが老害の始まりです(老害については、たぶん後でまとめます)。

君たちはどう生きるか」をまとめますが、これも同じところで止まっている、私の老害の証拠でもあります。

次に行きたいので、ここでケリを付ける為にも、まとめようと思った次第です。

 

 

まずは、間違いが無い所。

この作品は「あの世」を表してます。仏教の「六道輪廻」です。

畜生界(鳥がいる)、修羅界(争っている)、餓鬼界(インコが食べている)、そして地獄ですね。

地獄は無いと思ってましたが、傷ついたペリカンが「ここは地獄だ」と言ったそうです(忘れてました)。だから地獄も表している。

 

ただ、本当の死の世界ではなく、そこからさらに暗喩をかけ、あくまで作家や製作者側にとっての死の世界です。

(この二重のかけ方。レヴュースタァライトと同じです)

わらわらが、新しい作品かアイデアです。

それを食べるのがペリカンですが、あれが製作者側の暗喩でしょう(プロデューサーなどの方)。

インコは、どうやら一般大衆みたいです。貪欲に食べて、求めるて、襲ってくる、悪いファンでしょう。

ペリカンもそうですが、インコも鳥になっているので、畜生になってるという事であり、畜生界に落とされた人は「悪い人」だという事です。

製作者やファンが悪いというわけではなく、悪い製作者とファンの成れの果てが鳥たちです。

(畜生界に落とされた動物で鳥。たぶんイクニ作品から来てると、私は思っています)

 

おかしくなったり、死んだ、製作者サイド、ファン、そして古い作品自体があるのが下の世界であり、死の世界です。

だけど六道輪廻なので、終わりではなく、そこから「生まれ変われ」という作品でした。

「生まれ変わって、人の世界に戻ってこい」という意味でもあります。

 

六道輪廻だが、水もよく出てきます。

水で清められるのは、日本古来でも同じなのですが、この場合はキリスト教(かユダヤ教)からでしょう。

(この水がよく出てくる所は「ボーは恐れている」と同じ理由です)

まず、仏教でありキリスト教なのは、宮沢賢治がそうです。宮沢賢治すきな宮崎駿なら、これだけでやりそうです。

ただ奥が深いのは、たぶん水はエヴァからだと思います。

エヴァの最後のポスター、渚でしたね。それに碇、綾波、など水にかけていたのがエヴァです)

エヴァの水はどこからか? と言うと、たぶん富野由悠季からでしょう。バイストンウェルです。

富野さんが言うには、バイストンウェルの元ネタが19世紀の児童文学「水の子どもたち」だそうです。

そして「水の子どもたち」を書いたのが牧師であり、キリスト教の教えが入っています(だからボーは恐れていると重なるのです)。

 

そしてエヴァからたどり着いたのがピンドラでしょう。誰が? たぶん高畑勲です。

ピンドラが宮沢賢治だしエヴァなので、そこからの流れで、君たちはどう生きるかにたどり着くのです。

(これは現実で、高畑がピンドラなどの暗喩にたどり着いた、と言う意味です。それが回って宮崎駿に伝わったのだと、私は考察しています)

 

最後積んでいる13個の石から「石が作品の暗喩だろう」とは、みな思っていると思います。

はじめに主人公、眞人が自分で頭を傷つけますが、この時使ったのが石です。

だから暗喩的には「自分が作った物語で傷ついた」事を表します。

 

この傷は「みんな作品で自分自身が傷ついている」という意味もあるのでしょう。

だからキリコも傷がある。多分元ネタの「保田道世さんも作品で傷ついて、今がある」と言いたかったのだと思うのです(色彩設計で有名な人ですが、元はトレースという、今はなくなったアニメの仕事がメインの人だったので、このことかな?)。

 

ただ、一番言いたかった事は、たぶん、庵野さんのことでしょう。

主人公、眞人は「しんじん」と読め、だからエヴァの「シンジくん」です。

エヴァのシンジは庵野さん自身の暗喩で、父のゲンドウが宮崎駿の暗喩だ」と、ちまたでは言われています。

だから「しんじん」眞人はシンジくんであり、庵野さんの暗喩です。

(ちなみに、エヴァのシンジは「田園に死す」の「しんちゃん」からとったのでしょう)

 

庵野さんは自分で作った初代エヴァで世に叩かれ、おかしくなります(アニメ制作を止め、自殺も考えるようになる)。

その事を表したのが「自分を石で傷つける行為」です。

そしてアニメ作家として死んで、あの世に来き、アオサギに導きられ、現世に戻ってくる。

つまり、アニメ作家として戻って来た事を暗喩で表した作品が「君たちはどう生きるか」です。

 

庵野さんを下の世界、つまり作家としての死の世界に導いたのも、そこから現世に導いたのも、どっちもアオサギです。

ではアオサギとは?

これが富野由悠季でしょう。

 

93年の富野作品「Vガンダム」を褒めたのが庵野さんであり、95年にはエヴァを作っている。

他にも庵野さんは「逆シャア」も褒めているから、富野さんの影響がある。

その影響下で出来たのがエヴァであり、だからエヴァ制作後、庵野さんが苦しむのは、富野さんのせいでもある。

 

Vガンダム」後、まず始めにおかしくなったのが、富野さんの方です。アニメが作れなくなる。

そして早々復活したのが富野さんです。それこそ不死鳥の如くです。

その後2005年に「劇場版 Zガンダム」公開です。

ここでエンディングを変える。つまり過去に戻って運命を乗り換えたのです。

 

それを見たのが庵野さんです。

そして「自分も、それなら出来る」と始めたのが、「新エヴァ劇場版」です。

そして運命を乗り換えたZガンダムと同じく、過去を変え、運命を乗り換えたのが「シン・エヴァ」なのです。

それを暗喩として示したのが「輪るピングドラム」です(この公開時はシンデヴァはまだでしたが。ただ、だからこそピンドラ劇場版を新エヴァ後にやることにより、完璧になったのです)。

 

さて、庵野さんのエヴァを「運命の乗り換え」で示したのが「ピンドラ」。

一度死の世界に行き、そこからアオサギに導きられ、戻ってく事で表したのが「君たちはどう生きるか」です。

 

ピンドラで「運命の乗り換え」のために探すのが、謎のアイテム「ピングドラム」です。

ピングドラムとは、アルファベットで「PENGUINDRUM」です。無理やり読むと「ペンガンダム」です。

つまり「ガンダムを探せば、運命の乗り変えが出来る」という話だったのです。

これがZガンダムを見て、エヴァでも出来ると思い、作り直し始めた庵野さんの暗喩なのです。

 

ちなみに始めの「ペン」とはエヴァのペンペンの事であり、エヴァのペンペンは富野さんです。

セカンドインパクト(二次大戦)で生き残ったガンダムカラーの動物、それがペンペンだからです。

 

ペンペンはペンギンです。

だから「ピンドラ」でもペンギンが出てくる。

そしてペンギンとは鳥です。

だから「君たちはどう生きるか」も鳥なのです。

 

庵野さんは「風立ちぬ」の声優だし、そもそもナウシカに関わっている。

だから、宮崎さんとは旧知の仲です。

だから「君たちはどう生きるか」で描いても不思議ではない。

 

ただ「君たちはどう生きるか」が優れている点は、庵野さんに、宮崎駿も一緒にかけている所です。

それにより「一個人の話」ではなく「作家一般」の話になる。

「作家という物は傷つき、死んだような者にもなるが、そこから生き返ることが出来る」という作品になっているのです。

 

眞人には、庵野さんは入っている。これは間違いがない。

宮崎駿も入っている。これは始めは宮崎駿だけで行こうと思ったのだと思うので、これも間違いがない。

後は、手塚治虫が一緒に入っているか? が問題だが、これは五分五分です。入っていてもおかしくないし、入っていなくても通るからです。

 

手塚治虫要素が作品に入っているのは間違いがない。

だが、手塚は宮崎駿富野由悠季、両名にかかっているから、だから要素としては入っているが、眞人には入って無くても通るから、微妙なのです。

さてどうでしょうか?

ただ、眞人に入っている方が、個人的にはしっくりします。

つまり「眞人には、三人の要素が重なって入っている」と言う事です。

 

アオサギは、間違いが無く富野さんです。

他の要素も入ってるか? は謎ですが、富野さんがメインです。

エジプト神話の不死鳥ベンヌアオサギであることから、アオサギは「火の鳥」でないのか? と言われています。

wikiによると、ベンヌはベンベンに舞い降りた、とあるので、ペンペンの元もここかも?)

まず不死鳥の様に蘇るのが、作家、富野の特徴です。

それに富野さんは元々虫プロ出身です。手塚治虫の下でアニメを作っていた。

つまり手塚要素がある鳥なので、アオサギであり、鼻の形が手塚作品でよく出てくるサルタヒコのような物なのでしょう。

それにエヴァのペンペンも鳥です。

アオサギガンダムカラーです(アオサギは灰色です。あんなに見事な青で宮崎駿が描くわけがない)。

アオサギペリカン目です。

つまりペリカン(さっき言った様に、物語のペリカンはプロデューサーなどの側)の革をかぶっているのが、富野さんだという事です。

プロデューサー側の力をかぶっている時の富野さんは、飛べるという事です。

庵野さんを死の世界に導くし、そこからの脱出も導く。

などから、明らかにアオサギは富野さんです。

 

君たちはどう生きるか」のペリカンは、製作者側、プロデューサー側の暗喩だとは、みな思っているでしょ?

だからワラワラを食べてしまう。いいアイデアを食べてなくしてしまう、もしくは悪く改変させてしまう、悪い製作者側の事です。

ぺリカンは、墓を暴こうと眞人を押す。古い死んだ作品、つまり「昔の名作をまたやれ」と強く押す、悪いプロデューサーなどの事です。

そのプロデューサー側も呪われていて、同じところを飛び回り、同じ陸にたどり着き、最後は傷つき死んでいく事を表したのが、傷ついたペリカンです。

 

矢が刺さり、能力がなくなるのがアオサギです。

あれは自分の羽から作られた矢です。

矢立肇サンライズ合同のペンネームです。富野さんはよくそれに加わってガンダムシリーズを作ってますね。

その矢、サンライズの力が自分に返って来て、自分の飛ぶ能力を封じてしまう事を表しているのでしょう。

スポンサーなどの会社側は、自分の力になると同時に、自分を縛り付ける物にもなる、という事ですし、富野さんは実際スポンサー側の意見をくみ取って内容を変えてましたからね。

 

ヒミが火の鳥だと思っているのですが、これは手塚作品の象徴です。

ヒミがペリカンを倒すが、ワラワラも焼いてしまう。

悪いプロデューサー側にも歯向かうが、他の人のアイデアや作品にも牙を向く、手塚治虫の事でしょう。

 

ヒミは手塚作品だとは言いましたが、眞人と同じく他の要素も入っている。

それがディズニー要素と、多分ナウシカ要素でしょう。

だから嘘っぽい、美味そうでもないジャムパンをくれるのです。あの時はディズニーの暗喩だからです。

ヒミは母です。これは作家の母という事です。

これらの作品を見た子供が、作家として育つ、という暗喩です。

手塚にとってのディズニー、宮崎駿にとっての手塚作品、庵野にとってのナウシカ。それらの象徴がヒミであり、母なのです。

 

最後眞人は後を継ぎません。

手塚はディズニーを、宮崎は手塚を、そして庵野は宮崎を、それぞれ継ぎはしなかったという事です。

ただ少しの要素は持っている。だから石を持って変えるのです。

ただ少しだけです。

 

この継がなかった事を表したが、母の死です。

そして新たな母になったのが夏子であり、夏子が日本の暗喩でしょう。

ディズニー、つまりアメリカンアニメを母としていたが、それを否定して日本作品を母にして、新たにやっていくことを最後にしだす、作家の暗喩です。

ディズニーを止めた手塚。風立ちぬとか日本を題材にしだす宮崎、そして田園に死すとか参考にしだす庵野、それらの事でしょう。

 

「産屋の禁句」というのがありました。

あれは「新たな作家が生まれる時は、手を貸してはいけない」という事ですね。

ただこれは間違っています。

だから宮崎吾郎細田守も、ジブリでの初作品ではうまく行ってないのです。

君たちはどう生きるか」ではどう描いたか? 「禁句がある」とも取れるし「禁句を破った」とも取れます。だから何を言いたかったのかは、分からなかったです。

夏子の子供は誰か? 吾郎さんじゃないのかな? だからジブリで生まれる。あの建物は、滅んだジブリの事です(庵野さんも子供に入っているかな?)。

(夏子はなんであそこに行ったのか? という人がいるが、ただ単にジブリ内で生まれる事を表すためでしょう。吾郎や庵野がです。)

 

最後「おわり」と出ないようです。

つまり終わりではない。

宮崎駿の話は終わるが、同じような次の作家、庵野の話に継がながる、ということですね。

手塚から宮崎、そして庵野、次々作家が苦しみ、傷つき、しかし生まれ変わってまた始めから始める。

「世代として受け継がれる」と共に「個人として生まれ変われる」事を表した、よく出来た作品です。

そんな事を表していたのです(だから、地元に戻る所で終わりです。初めに戻るということです)。

 

君たちはどう生きるか」とは?

元の小説と違うと文句を言っている人がいますが、これは宮崎駿の「君たちはどう生きるか」という意味なので、間違ってはいない。

元の小説から宮崎駿は「どう生きるか?」と考えた。

だから自分も次の世代に向かって「君はどう生きるか」を構築したのであり、何も間違ってはいません。

この作品は、作家の物語だとは、もう言いました。

次の世代の作家に向かって「私達はこう生きた。君たちはどう生きるか? 考えてほしい」という作品です。

あらためて考えれば、よく出来た、最後の作品だったと思います。

 

 

さて、ここからは、曖昧な補足です。

 

鈴木敏夫さんはアオサギは自分だと思っているようです。違うでしょう。

 

始めは、大叔父は高畑勲だったのは、本当だと思います。

ただ、途中から変わった。

だからアオサギは、もしかしたら始めは鈴木さんだったかもしれないけど、途中から変わり、富野さんになったのでしょう。

 

この作品には高畑勲は出てこない。

高畑勲すら出てこないのだから、鈴木敏夫も出てくるわけがない。

もし始めの考えのように、高畑勲鈴木敏夫が出てきたら、駄作になったことでしょう。

それは自己満足の身内ネタでしかないからです。

 

ではどこで変わったのか?

それが高畑勲の死です。

 

NHKのドキュメントで宮崎駿が、高畑は最後「何やっていたと思う?」と感情を出して言っているのが特徴的でした。

たぶん高畑はエヴァやピンドラなどを解析をしてたのだと思うのです。

それを駿に残したのか? もしくは自分の「平家物語」のために調べていたのが残ったのか? は分かりませんが、宮崎駿に渡ることになる。

それを見た駿が内容を変えたのです。たぶんですが。

 

だからこの作品は、最後の作品です。

宮崎駿高畑勲の最後の共同作品なのでしょう。

作品内の全てに、高畑勲がいるのです。

だからキャラとしては出てこない。

これこそが、作家としての真髄です。

キャラとして出したら、ただの身内ネタだからです。

内容としてだけ高畑が関わっている。これが作家としての正解です。

 

ただ、言っておくが、どんな時でもキャラとして出ては駄目だと言うわけではない。

客観性を持てて、あくまで物語として出す必要があると、距離をおけて描けるならいいのです。

 

だからこそ近すぎる人、感情的になっていまう人、を出しては駄目なのです。

それが宮崎駿にとっての高畑勲です。

そして同じく近すぎる人、鈴木敏夫もダメだし、吾郎ももちろん駄目です。奥さんもです。

だから、ほぼ、出て来なくて、正解です。

だから鈴木さんは悲観することもない。高畑勲すら出てこないのだから。

逆に出てこない人ほど、近しい人なのです。

 

これがあっていたら、高畑勲に感謝です。

最後に宝を残してくれましね。

そしてその宝は物語上に、絵で出てこない。

物語自体が宝だからです。

物語自体を宝にする。

これこそが、作家という者です。