復刻版「逆襲のシャア 友の会」読みました。
アニメ映画「逆襲のシャア」自体も、35年ぶりくらいに見なおしました。
感想、考察を書きます。
このアニメ「逆シャア」は、三つの階層があると思っています。
一つが、見たまんまの世界であり、宇宙世紀の話です。
もう一つが暗喩で表している物であり、大きな実際の世界を表してます。これが第二次大戦だったり、学生運動だったり、ヒッピーなどからの自然崇拝の流行の様なものです。
そしてもう一つが、富野さんの個人的な物の暗喩です。これがアニメ業界の事であり、サンライズやスポンサーに対する自分の立ち位置などからくる、いら立ち等の事です。
「ピンドラ」とか「田園に死す」とか「きちがいピエロ」とかは、全体を通す暗喩があるので、それが分かると何をやってるか分かります。
しかし富野さんの方は、部分部分に暗喩を織り交ぜて物語を作る。しかも二つの暗喩を込めて作っています。社会全般の事と、自分の事をです。
だからとても分かりずらい。
そもそも富野さんは、物語自体を作るのが下手なのでしょう。それもあって普通の物語作りその物を諦めている感がある。
(この後に、他人を脚本に使い、苦手な所も頑張ろうとしてたのでしょうけど、面白い脚本を作り、なおかつ富野さんの思惑を理解し、そして富野さんと上手くやれる人なんて、この世にいなかったのだと思います。そしてGレコでまた諦めて、また富野節で通したのだと、私は思っています。)
だから逆シャアは、富野さんが出来る事であり、得意な事で物語を固めています。
それが富野さんの思いと、考えと、その暗喩であり、それらを羅列して行く。
これに暗喩が二重に含まれるから、なお更何やってるか分からない。
その上、富野さんはスポンサーなどにちゃんと気も使っていて、考えが折れたりするから、誰の思惑でそうなってるのかすら分からない。
これらの事を分かってないと、逆シャアの変な作りは理解が出来ないと思います。
紐解いていくのに大事なの事は、元になった暗喩を考える事です。
まず始めに大事なのは、やはり山田玲司さんが言っていた、初代ガンダム頃(もしくはもう少し前)の社会情勢でしょう。
私は、流石に、学生運動の頃は知らないので、その頃の社会情勢が分かりませんでした。
なので、山田さんのこの辺の話は、かなり参考になりました。
これは、ガンダムが参考にしただろうスターウォーズなどもそうですが、ヒッピーの流行り等と一緒に、東洋の神秘、スピュリチアルな事が流行っていた時期だったようです。
科学などではなく、自然に寄り添い、心が通じ合うと信じられ、スピュリチアルな事があると思われていた時期です(非科学的な事だけではなく、自然に寄り添い、向き合いながらの人らしい暮らしをして、人の心を通わせようと言う、現実的な考えもあったでしょうけど、雰囲気や外見では、同じような流行りだったと思います)。
これを表しているのが、スターウォーズだとフォースだしヨーダだし、ヨーダがいた森の中だったのでしょう。
富野さんが言ってたように、始めニュータイプはただの物語上の装置的なもので、深い意味はなかったのでしょう。
しかしこれは流行りのスピュリチアルからの、人と人の心が通じ合う事の暗喩で使えると、どこかの時点で気が付き、そのように使っていく様になったのだと思います。
なので、ニュータイプとは、人と人の心が通じ合う、スピリチュアル的な物の暗喩の事です。
初代ガンダムの終わりで、皆がニュータイプに目覚めて行きそうな所で終わったのは、これで理解出来ます。
この頃は世界が、東洋的で自然的な何かで心が通じ合い、上手く行きそうだと思っていた人が多かった時期ですね。
ただ、ウッドストックが1969年だそうです。なので1979年のガンダムの頃だと、世界的な流行りは下火だったと思いますが、スターウォーズが1977年なので、まだあったはあったのでしょう。
そう思うと、ララァがインド系なのが分かります。
東洋思想であり、仏教発祥の地であり、だから何かしらスピリチュアルな物はインド関連と言う発想が、なぜか昔からありましたね。
イメージ的にインド系だから、ララァがニュータイプの能力が強いのでしょう。
ララァの話が出て来たので、結論から言いますが、シャアが最後「ララァが母になるはずだった」みたいな事を言うのが、これで分かります。
人の心が通じ合う世の中が来ると思っていた頃、スピュリチアル的な能力(もしくはただの自然を愛し、人々を愛する心)が世界を包み、新たな世界の生みの親「母」になると思っていた、と言う事です。
なのに、ララァを失ってしまったという事は「ニュータイプなど現れなかった」「超自然的な何かで心が通じ合うなんて嘘だと気がついた」と言う事です。
富野さんが最近言っていたのが「長い間、ニュータイプがどうにか現れないかと思っていたが、20年前に挫折した」と言うような事です。
これも「新たな人類、心が通じ合う人類、が出てくると思っていたが、挫折した」と言う事です。これもスピリチュアルな事だけではなく「人の心が分かる人類がやって来るのじゃないのか? と思っていたが、間違っていた」と言う事です。
ちなみに、逆シャアの始め、隕石が落ちるのがチベットなのも同じ理由です。
同じくスピリチュアルを信じる人々の心のより所、チベットなんか嘘じゃないかと思った富野さんの分身、シャアが隕石をチベットに落としたのです。
初代ガンダムの頃、富野さんは、この謎の力で心が通じ合う世の中を信じていた。だからニュータイプを使った。
しかしZガンダムの頃は、もはや信じられなかったのでしょう。だからニュータイプの使い方が、ただの超能力的な使い方に戻ってましたね。
しかも、人々の心が最後「最強のニュータイプ、カミーユ」をおかしくして終わりであり、心と心が通じ合うなんて、もう信じられなかったのでしょう。
それが逆シャアになると、更におかしくなっていて、富野さんは頭にきてニュータイプ的な物など全て壊そうとしたのです。
しかし、実はまだ信じていたのかもしれません。
それが、機械的な何かを使い、人がまだ通じ合う可能性があるかも知れない? と言う事です。
インドやチベットなどの、自然的でスピリチュアル的な物は信じられず壊そうとしたが、まだ「他の科学的な何かで、あるかも知れない?」と思っていたと言う事です。
それがサイコフレームです。
逆シャアとは「サイコフレームと言う科学の産物をもって、人と人が通じ合い、奇跡を起こす」と言う話だったと思うのです。
ではサイコフレームはハッキリ言うと何の暗喩か? と言うと分からないのですが、科学が発展して、豊かになり、人々の心が通じ合い、戦争を回避する、と言う事を信じていたのかもしれませんね。
(追加します。サイコフレームはインターネットかな? 88年だと早すぎるか? と思っていたけど、調べたら、アメリカで出始めた頃でした。ただ考えすぎかも?)
「サイコフレームが、科学的な何かで世界を救う物」でもあると思うのですが、もう一つ下の階層の暗喩として、富野さんの個人的な事ともとれます。
まあ、知ってると思いますが、最後のサイコフレームの形が「T」ですからね。明らかに富野さん自体の気持や力などの事を、表しているのでしょう。
「スポンサーなどに色々言いたい事もあるし、道ずれに(アニメ監督として)死にたい事もあるけど、最後は憎み切れず全てを壊す事は出来ないが、このガンダムを壊した向こう未来がある」と言う気持ちの表れだった話、とも取れるのです。
「ガンダムがいなくなっても、富野パワーがアニメ業界を救う」と言いたかったかもしれないのです。
さて、「逆シャア 友の会」の内容から、思った事を書いていきます。
漫画家のあさりよしとおさんが否定的な意見を言ってました。
友の会の本なので、基本みな好意的です。
その中であさりさんが否定的なので、バランスが取れて良かったです。
確かに逆シャアは、褒められるだけの話ではないですね。
基本の物語としたら、破綻している様に見えます。
この作りは、やはり基本的にはダメでしょう。
あさりさんが言ってたように「自分の事だけを言ってるんじゃない」と言う事です。
自分の周りの事を暗喩として描くのは良いが、基本の物語としても成り立っていないので、失敗だと思います。
しかしこの作りで思ったのが(Zガンダムを見た時もそうだったのですが)「実際に起きた歴史の再現映画」の作りです。
だから、その様な物だと見れば、見れなくもない。
しかし、そうだとしたら、主人公がいらない。
あくまで「歴史として描いて、その中で生きて行った人達」と言う描き方なら、もっと見れた物になったはずなのです。
そこで考えたのが「じゃあ歴史を描いていて、その中で主人公がいて成り立たないのか?」と言う事です。
そして「成り立っていた映画もあったな」と思い、頭に浮かんだのが「フォレストガンプ」です。
フォレストガンプの作りが出来たら、成功したかもしれない。
と思っていたら、富野さんの逆シャアの事を話したコメントが、ネットで見つかりました。
そこで富野さんが「フォレストガンプ」の名前を出していたので、同じような事を考えていたのかもしれません。
ただそうは言っても、映画の方のフォレストガンプは逆シャアより後なので、作った後で富野さんは考えたのでしょうけど。
では、フォレストガンプが物語として成り立ち、逆シャアが成り立たなかったのはなぜが? と考えてみたら、流石にフォレストガンプはとても良く出来てましたね。
基本の物語の作りは、逆シャアじゃ足元にも及びません。
フォレストガンプは、まず実際の歴史です。だから別に劇的じゃなくても成り立つのです。
それに、実際の歴史だから、実際の自分達(客)の思い出などが加わり、気持ちが乗りやすい事でしょう。
ガンプは知的障害者ですかね? だからこそ自分の意見が無い。だから右でも左でもなく、政治的な立ち位置は無いのです。しかし、だから皆嫌わないで済む。
ガンプは、しかし心はあります。好きな人がいたりするのは、皆が共通で思う事であり、だから乗れるのです。
真っ直ぐで不器用なのも、乗れる要素です。キャラがいやらしく無いのです。
ガンプは一個人です。だから歴史の中にいるが、歴史の流れを左右するわけではない。これも一般人(客)と同じで、流されたり、恩恵を受けたりするが、あくまでその中での生きざまでしかない。
これらの事で、この映画の歴史の時代を、自分の歴史と比べられるから、色々と考えさせられ、しかも不器用なガンプを応援も出来る話なのです。とても良く出来てました。
しかしガンダムは、まず実際の歴史ではない。
アムロもシャアも、すごい人です。だから一般人ではない。結局は恵まれているしね。
しかも歴史の真ん中にいて、歴史を左右する人達です。だからこそ私怨で言い争っているのが気持ち悪いのです。あいつらが言い争っている時も、周りで無駄に死んで言っている人々がいる事は、無視できる奴らだからです。
こんな作りだから、上手く行く訳が無いのです。
初代ガンダムの方では、アムロもシャアさえも、歴史に流されている人達でした。
その中で、どう生きるかとあがいている人達です。
こっちの方が、まだ歴史ものとして成り立つと思いませんか?
だから初代ガンダムは、やはりよく出来ていたのです。
さて、友の会の本で、とりあえず他の人の事を書きます。
当時ガイナックス社長の山賀さんが言ってたのが「富野さんは仕事をした」と言う事です。
「遊びじゃなくて、仕事としてやり切った」と言う様な事でしょう。
たぶんあっていると思います。
ただ、逆シャアの一面でしょうけど。
押井守さんが言ってたのが「確信犯だった」と言う事です。
「政治的な主張を、アニメの裏に隠して出した」と言う様な事だと思います。
これも合ってるよう見えますが、ちょっと違う気もします。
そしてイクニさん事、幾原さんですね。
この人この頃まだ30歳くらいだったと思います(本が出たのが1993年なので)。
なのに、流石に良く分かっていた気がします。
イクニさんが言ってたのが「富野さんは死んでない」と言う事です。
庵野さんの方は「富野さんは一度ここで死んだ」と思っていたようです。
山田玲司さんも(こっちは、ここ数年内に言った話だけど)逆シャアは富野心中だと言ってたと思うので、同じような意見だと思います。
しかしイクニさんは、死んでないと言う。ここが流石ですね。
始めは「ただの解釈の違いじゃ無いのかな?」と思ってましたが、どうも違う気がしてきました。
私にも、富野さんが(気持ち的に)死ぬ気など全くなかったのだと、思えて来たからです。
まず、話は戻り、あさりよしとおさんの話の中の事です。
富野さんが逆シャアの後で「これでアムロは死に、シャアは生き残る」と言っていたようで、頭おかしいと思っていたようです。
確かに普通はそう聞こえますね。
しかしこれが暗喩で言ってたのなら、言いたい事が分かるのです。
暗喩でシャアは何か?
これは皆が言ってるし、どうも富野さん自体も言ってたようですが、シャアが富野さん自身です。
では、アムロは誰か?
私はこれも富野さんだと思ってましたが、正確にはちょっと違うようです。アムロは富野さんの子供のようです。
富野さん自体も「アムロは子供の様な物」と言ってたようですが、「子供」と言う表し方が見事ですね。
子供とは何か?
半分は富野さんと同じ遺伝子であり、半分は富野さんが生み出した、と言う事です。
しかし子供には、もう一人の他人の遺伝子が入ってますね。男なら奥さんの事です。
アムロのもう一人の親とは?
これがプロデューサーか? 脚本家か? サンライズやスポンサーのお偉いさんか? もしくは安彦さんでしょう。これらの合計されたのが、もう一人の親だとも取れます。
つまり「主人公らしい、白くて子供で行動力があり、そして綺麗事ばかり言わせようとする要素が、もう一人の生みの親からの遺伝子だ」と言いたいのだと思います。
そしてそれは富野さんには無い遺伝子であり、気に入らない物です。
これは昔は(初代ガンダムの時)夫婦であったが、もう罵り合い、嫌いになり、離婚してしまった元奥さんの、嫌いな要素を持った子供がアムロだと言う事です。
そしてシャア事富野さんと意見が合わず、反攻ばかり言う子供がアムロなのです。
面白いのは、子供の暗喩で、他の事も通る事です。
馬の合わない子供とは、頭に来る事でしょう。
しかし、嫌いにもなり切れない物です。
葬り去る訳にもいかないし、そもそも嫌いでもなく、葬り去りたくもない。
それが、馬の合わない子供です。
逆シャアの物語上で言うと、シャアはコロニー内で「自分がここにいるのを感じてみろ」みたいな事を言ってました。アムロが気になり会いたかったのでしょう。
クェスが銃をアムロから奪い、アムロを撃とうとしたのをシャアは止めました。
サイコフレームを敵側に渡して、アムロのガンダムを強くしました。
これらを、物語上の設定で説明すると、実はシャアは自分のやっている事に疑問は持っていて、アムロに止めて欲しかった。
もしくは、アムロが止めれるか試したかった。
「もしアムロが正しければ、アムロが自分を凌駕するだろう」と試したかったのです。
そして暗喩で説明すると、アムロと言う綺麗事ばかり言う主人公のキャラを、富野さんもどこか認めていた。それも正しいと思っていた。
そして綺麗事を言うキャラを作らせる人達、スポンサーやプロデューサーや安彦さん達の言ってる要素も、正しいと理解していた。
そして、暴走する自分を(富野さんを)彼らに止めて欲しかったのでしょう。
結局シャアがアムロに勝てなったように、富野さんも、綺麗事ばかり言う彼らには、結局勝てないと思っていたのかもしれません。
ちなみに、反攻ばかり言って頭に来るが、嫌いにはなれない自分の子供がいたとしたら、多くの男はどうするのか?
それは、無視するのです。あまり会わないようにする。
アムロと言うキャラは、富野さんがいじくらないですね。どうも扱いが雑です。思い入れがないかの様なキャラに見えます。
だからアムロは、どこまでも人として深みが無く、大人にもなり切れてない。
これは、親である富野さんが、アムロの教育(アニメで言うとキャラの深さや重みを付ける事)を諦めたからです。
これが、実の子供の育て方の間違いと同じなのが、面白ですね。
「アムロがもっと主人公っぽければ良かった」と富野さんは文句を言ってたようですが、親である富野さんの育て方の間違いでした。
さてアムロは自分の子供でもあるが、初代ガンダムを作って来た人たちの要素を半分持ったキャラであり、つまり「ガンダムその物の暗喩」でもあります。
そしてシャアが富野さん自体の暗喩です。
だから「アムロが死んで、シャアが生き残る」とはそう言う事です。
「逆シャアで、ガンダムと言う物語が終わるが、富野は生き残る」と言う事を言いたかったのです。
だから死ぬ気など、さらさら無かったのが分かるのです。
ネットで調べていて「なるほど!」と思った考察があったので、書きます。だから他の人の考察そのままです。
その時、他のモビールスーツも一緒になって止めます。
この時の絵が「卵子と精子だ」と言うのです。なるほど、そうだと思います。
だから、ガンダムはシャアを持ってきていて、シャアをアクシズに埋め込んだのです。
つまり、シャアが卵子にたどり着いた精子であり、シャアの要素が次の子供に受け継がれる、と言う事です。
言い方を変えれば、シャア自体は死ぬが、またこれから新しいシャアとして生まれ変わる、と言う事です。
もちろん新しいシャアとは、富野さんの事です。
アムロが死に、ガンダムを終わらせ、しかし富野さん自体は生まれ変わり、またどこかで戦うぞ、と言うメッセージです。
だから、この後に赤ちゃんの泣き声が出て来るのでしょう。
有名な話だそうですが、最後の歌の前に入っている赤ちゃんの泣き声で、新たな何かが生まれる事を、表しているのだそうです。
それが、富野さん自身の事だったのです。
それに気が付いていたイクニさんは、だから「富野さんは死ぬ気などなかった」と言ったのです。
アニメ内で、既に生まれ変わっている事すら描いていたからなのです。
シャアに付いてきたナナイが「私達を見捨てるの?」と言います。
そしてアクシズが落ちる時「吸い取られて行く」とも言います。
これも、シャアこと富野さんが、ガンダムの世界で自分に付いてきた人達を見捨て、新たな何かに生まれ変わろうとしている事を表してます。
それに、卵子が精子に取り込まれて行く事も表し、たぶんガンダム以外の何かに気持ちが吸い取られて行く事を、描いていたのでしょう。
ちなみに「ナナイが気になる」と言ってたのがイクニさんです。これもヒントでしょう。ナナイの言葉に答えがあるよ、と言う事です。
この辺が大事な所であり、富野さんのやりたかった事でしょう。
他にも暗喩がありますが、こっちは「なんとなく知っていたので、入れた要素なのか?」もしくは「ミスリード」かもしれません。
シャアが電車に乗り、一般市民に歓迎されるシーンなんか、明らかに社会主義革命(共産主義革命)だと言いたいかのようです。
ぬくぬくしている連邦を粛清しようとしている事なのもそうです。
クェスのキャラもそうです。なぜ良く分かってない子供が戦争に出てくる話をするのか?
これが学生運動の暗喩でしょう。
クェスが大人に利用されて死ぬのもそうです。
クェスが実の親を殺すのも、学生運動の暗喩です。
ハサウェイがチェーンを殺すのも「自分を守ったまともな大人も殺す」のを表しているので、これも学生運動でしょう。
これらを見ると、確かに社会的で政治的な事を、やりたかったかのように見えますね。
(シャアの敵、地球連邦軍がいるのが、もちろん地球です。引力に引かれる、と言うのは、権力者がぬくぬくしている所に引かれる、と言う事です。権力自体かお金等の事でしょう。最後アクシズが落ちなかったのは、結局全てを否定は出来ず、全てを壊せなかったのもあるのでしょうけど、新たな富野さんの卵になったアクシズは、引力には引かれない、と言いたかった気もするのです)
でも結局上手く行かなかったのがシャアです。
これも社会主義革命も学生運動も上手く行かなかったを表している、とも見えますが、では何が言いたいのかが分かりません。
結局、シャアの方の主張はおかしくて、勝てなかったと言う事実を、物語で表しているのだとしても、メッセージ性がそこにはない。
いや、おかしい奴らは勝てない、と言うメッセージにも見えるのだけど、なら、時代が遅すぎるのです。
1988年です。ならそれを言うのは遅すぎ、この頃では「もはや今更、何言ってるの?」と言うメッセージでしか無いのです。
だから、押井さんが言っていた、これらの政治的なメッセージは、あまり言いたい気も無いのか? ただ色付けの為に入れた要素でしかないのかもしれません。
(追加、安彦さんが、がっつり学生運動家だったようです。同じ時代に生きた富野さん自身も含め、古い感覚(革命を信じる人々)の人達が負けていなくなるのを、表したかったのかもしれません。物語上シャア自体もいなくなるのでね。ここでは社会的と言うより個人的な意味であり、だからこそアニメ関連であり、なので負ける古い人達はガンダム製作者の事です。だからこそ生き残るつもりの富野さんは、新たな自分に生まれ変わると作らなければいけなかったのか、と気が付きました)
山賀さんが言っていた「富野さんは、仕事をやった」と言うのも、一理はあるでしょう。
けど、結局自分の思いを隠してやり切ったのだから、仕事だけではなく、富野さんなりの遊び心も入っていた気がするのです。
そしてあさりさんです。
この人の言っていた(と思われる)「ちゃんと普通の物語をやれよ」と言うのはあっています。
しかしそれ以外には(暗喩とか)、参考になれる要素があったのは間違いがないでしょう。
だから全て無駄だったわけでもない。
「逆シャア友の会」では庵野さんのコメントも多く残っています。
この本の二年後にはエヴァなので、この本にも「逆シャアなどに触発されて、今新しいアニメを作っている」と言う様な意味の言葉を残してます。
そして、今思うと、逆シャアなどがあったから、エヴァがあのような物になったのだと思うのです。
それはそれで価値がある事です。何か新しい事をやろうと言う気持ちがあったのは、間違いが無いのです。
それと同時に、間違った要素も富野さんから受け継いでしまった様にも見えます。
だから、富野さんと同じように病んでしまったのでしょう。
ただ、そのずっと後になり、今現在まで来てみると、富野さんも庵野さんも、面白い物を作り上げ、成功も失敗も含め、後世に残したと思います。
そしてイクニさんは、こと暗喩関連の事では、この頃にはもう頭一個出ていた気がします。
この頃から30年経ち、誰も今を予測は出来なかったでしょう。
本当に、現実は小説より奇なり、ですね。
だからこそ「現実を暗喩で示してしまう」と言うやり方だと、予測できない面白さが生まれるのだと思います。