1961年のスウェーデンの映画「鏡の中にある如く」考察です。
イングマール・ベルイマンの「神の不在三部作」と言われている物の、第一作目だそうです。
有名な作品だそうですが、古臭く、面白くもなんともないです。
一般的には、当時には新しく、西欧には宗教的な考えで面白かったのかもしれません。
表で、気になった所、
「神とは愛の事だ」みたいな事を最後言います。
まあ「そう思えれば救われる」とも言ってるので、正解だとは思ってないのでしょうけど。
一見その様に聞こえる言葉ですが、やはり違いますね。
愛は、何かしらが存在します。それが見えなく、判別できないだけです。
脳の中に、何かしらのデータや状態として、愛は存在するのです。
だから、脳が亡くなれば、愛もなくなります。
脳死になったり、ボケたりしたら、愛も無くなるのだから、愛が、形を変え、分からない状態で脳に物理的に存在するのです。
しかし神は違います。
いや実は同じなのだけど、違うものとして考えている事でしょう。
じゃあないと、それは神ではないからです。
神は物理的に何かが無くなっても存在するもの、であると認識している筈です。
だから、愛とは違うのです。
ただ、科学的に見ると、神も、ただの脳内の妄想なので、脳内に物理的にデータとして存在するもの、と言えます。
これは似てるので、愛と神は同じように感じるのでしょう。
でも、もう一回言いますが、神を妄想だと思てない筈です。
なら、愛と神は、違うものでなくてはいけないのです。
もし愛と神が同じでよければ「神とは脳内の妄想である」と認める事であり、それは神の不在を意味します。
だから、実は、神の不在を説いている話ならば、この内容で正解です。
さて、こんな事はどうでも良いのです。
神の話は勝手にやってください。
裏で、気になった所、
この映画も、寺山修司が本で名を上げた作品だそうです。
なら暗喩が怪しいのです。
私が気になるのは、そっちの方です。
始まりから、四人が横並びになって、楽しそうに海から上がってきます。
これが不自然です。
そして「不自然な設定や演出があると、そこの暗喩が隠れている可能性がある」と言うのは、もう私の中では定石になってきました。
この映画の監督、ベルイマン、有名な監督だそうですが、珍しくスウェーデンの人だそうですね。
スウェーデンで、四人です。
つまり、暗喩として「北欧四か国」の可能性を感じられます。ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、デンマークの事です。
神だと思ったら、蜘蛛の顔をした悪魔だった、と言う話だと思います。
悪魔とは言ってないけど、悪魔でしょう。
この頃に暗喩で出て来る悪魔と言えば、やはり二次大戦時のドイツの事でしょう。
父親は、子供らに関心がなく、無視して生きているようでした。これが二次大戦時のスウェーデンですね。
巻き込まれたくなく、無視しようとしたのがスウェーデンです。
悪魔に魅入られた娘が、デンマークかな?
デンマークはドイツに味方してるような振舞だったようです。
しかし、ドイツがデンマークとノルウェーを侵攻してしまいます。この時地理的にデンマークを通り過ぎて、ノルウェーに言った筈です。
だから、映画で娘は、悪魔が体に入り頭を抜けて行った、と言う様な感想を言ったのでしょう。
夫がフィンランドか?
なぜ夫なのか? 良く分かりません。この時代デンマークと仲が良かったのかな?
弟がノルウェーでしょう。
なぜなら姉と寝てしまうからです。
悪魔にそそのかされて、弟と寝てしまうデンマーク。
つまりドイツに、デンマークもノルウェーも統合されてしまうので、一緒になった事を表したのが、あの行為の事でしょう。
さて、ここできましたね。
寺山修司がよくやった近親相姦の暗喩の元ネタが、これかもしれないのです。
そして寺山からイクニさんのウテナに続き、寝てしまう暗喩、を使ったのでしょう。
そうなると、もしかしたら、この作品が始めかも知れない(違って、前にもあるのかもしれないけど)。
ネットで見ると、今でもスウェーデンが兄貴面をしてるらしく、続きデンマーク、ノルウェーになるのだそうです。フィンランドは分かりませんが。
だから、たぶんこの順番で、父、姉、弟、であってると思います。
この映画が、二次大戦時の北欧四か国の暗喩であったとしても、そこから「神の不在」を感じ取る事が出来ます。
二次大戦の事を考えると、神の存在が怪しく思える事でしょう。
だから、暗喩があったとしても、神の存在の事を考えていた監督なのかもしれません。
「鏡の中にある如く」とは聖書の一節だそうです。
昔の鏡はぼんやりとしか映らず、だからはっきり見えない事を言ったのだそうです。
神であっても、暗喩であっても、ぼんやりとしか見えない物を追い求めようとする人の作品なのでしょうね。