号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

壺など、どうでもいい

小津安二郎監督の映画「晩春」見ました。感想です。

 

「過去の名作見ないとなあ」とずっと前から漠然と思っているのだが、おっくうで見てられない。

何気に小津安二郎の「晩春」には「壺のカット論争」なるものがあるとネットでみて、「面白そうだ」と思えたので、このタイミングで見ました。

 

Wikiにも、この「壺カット」の事を書かれてますが、映画を論ずる人って大体馬鹿なんだな、と分かりますね。

分かる人が多いなら、名監督が沢山出てるだろうから、分からない人が溢れていると言うのが現状なのでしょう。

 

その前に、まずは映画の事に付いて感想を書いときます。

 

この映画は当時も賛否両論だったようですね。分かります。

戦後4年しか経ってないのに、金持ち物語ですからね。頭に来る人もいるでしょう。

では間違いか? と言うとそうでもない。

 

映画は(ほぼ)嘘です。嘘を見に来てるのだから、事実だけ映されたら見に行く必要が無い。

なので、見てられる嘘か? どうか? が大事だと言う事です。

嘘の中に、なんとなく信じられる嘘をおくか、魅力的な嘘を置くの事が必要です。

 

金持ち物語が流行るのはどんな時か?

バブルの時です(正確に言うと、タイムラグがあるので、バブルよりちょっと後かもしれないけど)。

嘘っぽいバブリーな話でも「今後、自分にも近い事が起こる未来があるかもしれない」と思えれば、見てられるのです。

逆にまるっきり自分には関係がなく、しかも現実の自分がみじめに感じる話だと、見てられないのです。

日本でもバブルの頃は、普通の人だとありえないバブリーな話でも流行りましたね。

韓国ドラマもそうで、ナッツリターン事件前くらいまでは、バブリーな話が流行ってた筈です。

そして「晩春」では「戦後の復興をして来ているあたり」なのがいいのです。

つまり、今は無理でも、将来この様な豊かな生活が出来るかも? と思える時代だと言う事です。

ここで大事なのは、でもまだ「豊かな未来を信じられない人もいる」と言う事です。復興している事を感じられない立場の人達です。

なので、この映画が賛否両論だったのが面白いのです。

たぶん半々だったのでしょう。未来が明るいと思える人達と、まだまだ生活がただ辛いと思っている人達がです。

 

そして更に面白いのが、小津がこの映画の前に作ったのが「風の中の牝鶏」(本当はトリの漢字は珍しい方の漢字ですが)です。

この映画はwikiによると「戦後復員を待つ妻が子供の病気の為、一度だけ売春をする。その後戻って来た夫と共にその事で苦しむ」と言う話だそうです。

それで映画は「客に拒否された」とあります。失敗だったようです。

 

「晩春」では「金持ち物語が、現実離れしている」と言われたが、「風の中の牝鶏」では「見てられない」と言われたのです。

つまり本当っぽくても見てられない。

なぜなら「辛い本当など、いくらでも世にあるから、わざわざ金出して見たくない」からです。

なので、「晩春」の金持ち物語も、別に間違ってもいないのです。少なくとも、半分位には受け入れられたからです。

 

でも本当にこの時代にうけるのは、「金持ちじゃないが金持ちになる話」か「金がなくても上手く生きていける話」の方だったでしょう。

もしくは現実を忘れさせてくれる話、時代劇とかSFとかだが、七人の侍が54年だから、まだ早かったのかもしれません(つまり金銭的にもまだ作れなかったかも?)。

 

さて内容です。

父に依存した娘が嫁に行く話です。ファザコンです。ただそれだけですね。

 

見ての通り、この頃はまだ妻が何かとやる事が多い時代で、妻の存在が大きかった。

それこそ、妻がいないと旦那は生きて行けないのじゃ無いのか? と思わせる時代だったと言う事です。

だから妻がわりをしていた娘が、関係性が深かったため父に依存するのも、自分の価値を家に持ってしまうのも、まだ分かる時代だったのは間違いが無い。

だから、今の時代よりは、この娘の考えが分かる気がします。

 

そして「壺のカット問題」です。

まず小津がどのような意味を込めたのか? それは結局は分からない。

だから、ネット上で書かれているすっとぼけた論理も、実は小津はそう思っていた可能性も、あるにはある事は言って置きます。

しかしそのすっとぼけた論理を小津が思っていたのなら、小津は馬鹿かおかしいのです。

おかしいとは悪い意味だけでは無いのですが、馬鹿は悪い意味です。

ただ、結局分からないので、小津の考えは無視します。

結局、物語とは「監督がどう思ったのか?」は関係がなく、「作品がどうなっているのか?」が全てだからです。

 

では、物語として、どうとらえるか?

一回目の壺のカットは、よくある物です。

時間が過ぎたのを見せる為に、間に入れるカットです。

「娘が眠れず、あれこれ考えてしまっていて、時間が経っている」と言うシーンですね。

普通入れるのは「時計のカット」です。ただこの時代、部屋に時計など無かったかもしれず、ただそれだけで時計じゃないだけかもしれない。

後は、外を見せて「月を見上げるシーン」等をいれます。これも時間がこんこんと過ぎて行った、と言う時に入れますね。

ただ、それだと気持ちが外に行ってしまうので、いれるなら一度だけです。二度は入れない。

だから壺カットを二回入れてるのだから、外のカットはまず無い。

そもそも、二度目のカットの後は、もう朝です。つまり二度目のカットの後、娘の状態を映してない。

これは「そんなこんなで朝になりました」と言うシーンですね。

 

なぜ壺なのか?

ネットで「あれは死んだ母が見てるのだ」と書いてあるのを見て「それもあるかも?」と思ったのですが、映画を見て「たぶん、それはないな」と思いました。

なんで旅行先の部屋に置いてある壺が死んだ妻なのか? あれが家の壺なら分かるけど。

もしくは前に家族で止まった思い出の部屋なら分かるけど、それらが無いのなら、違うと思います。

死んだ妻にしたいのなら、普通は「まどから見えている月」にするでしょう。それなら妻(死んだ母)だと思う。

 

壺の前に、同じシーンなのに二度あった、謎のシーン覚えてますか?

そもそもなぜ壺シーンは気になって、あのシーンが気にならないのか? だから自称評論家なんか馬鹿だと言うのです。

小山の上を映して、一本長い木がそこから伸びているシーンです。その後ろにも何本か長い木が伸びているが、全て枯れてます。あれはなにか?

あれは、「他と違い、伸びたまんま残ってしまった木」です。しかも後ろの方にあるの伸びた木は枯れている。

つまり「嫁に行き遅れた娘」の事です。

だからわざわざ二回も同じ絵を出す。

伸びたまま残ったら、いつか枯れてしまうと言う事です。

 

では壺とは?

壺は水を入れるものです。もしくは食べ物を入れる。

しかしあそこにあったのは「飾られている綺麗な壺だが、使われていないし、使われる事は無い壺」です。

つまり「綺麗だね」と鑑賞はされるが、実用性は無いもので、生命が感じられ無い物です。本来の使い方からは逸脱された物です。

つまりあれもまた、娘の事でしょう。

 

色々考えてしまった娘の心に「このまま、飾られた使われない壺で良いのか?」と自問自答を与えるシーンだと思うのです。

壺が娘の暗喩であり、娘の問題でもあるのだから、壺のシーンで終わり夜が明けるので正解です。

 

もちろん私が間違っている可能性もあります。

ただ私には、壺カットなんかいつまでも気にしている奴なんか、ただのド素人だ、と思えて仕方がないです。

あれが何であれ、物語上、別に大事でも何でもない事に気が付かないのかな?

 

まあ、感想はこんな所です。

細かな所で、ちょっと気になったのが「おばさん役、上手いな」と言う事です。

この映画で言えば、突き抜けて上手くないですか?

wikiで見たら杉村春子さんと言う方で、なるほど、流石に一目置かれるような人だったようです。

この時代の後だったら、この様な自然な演技の人も出て来るのでしょうけど、この時代にはあまりいなかった役者みたいですね。wikiで読んで納得しました。

 

 

23年11月1日 追加

 

ちょっと文句が多い文だったので、理由を書いときます。

日本の映画は廃れてます。

これはエンターテインメントの娯楽作品はまさにそうです。

ただこれは、なんであれ、英語圏ではない東洋人なので、お金のかけ方などアメリカにはかなわなかった事でしょう。

では金がかからない文学作品はどうか? もちろん寂れてます。誰も見ないし世界に賞賛もされない。

黒沢明の有名な作品が、この「晩春」よりはあとであり、つまりまだ世界に覚えてられる作品が作れた頃です。

しかし結局廃れて行った。

一つの事が原因では無いでしょうけど、映画が分かっている一般のレベルが低かったのが原因の一つでしょう。

前に言った様に、日本の野球は昭和なら、おっさんだったらみな語る事が出来た。一般の意識とレベルが高ければ、必ずそこから次の優れたプロが出て来るのです。だからイチローも出て来るし、大谷翔平も出て来る。

しかし映画は評論家などと言う金貰っているプロがこのレベルだったから、一般のレベルも低く、だから映画全般の未来などたかが知れていたのです。

そして今はどうでしょう? まともな事を言う評論家がいるでしょうか?

卵が先か? 鶏が先か?

一般レベルが低いから評論家が低いのか? 評論家が低いから一般も低いのか?

それは分かりませんが、小津も黒沢も、世界に認められる人がいたのに、そこから廃れて行ったのが頭に来たのです。

寺山もフェリーニも、誰も何も分かって無いじゃないですか。

いったい今まで何をやってたのでしょう?

 

23年11月3日 追加

 

やはり、ちょっと足しときます。

壺のシーンの後で朝になり、父と叔父が話しているシーン、京都の有名な龍安寺石庭ですね。

いわゆる枯山水ってやつです。枯山水は、砂と岩で、海と島を描くのが基本です。

これが出て来るのも意味があるのでしょう。

なので、色々暗喩を考えたのだが、結局いい案は浮かばらず。

ただ、たぶんもっと単純かと思うに至りました。

 

枯山水とは、違う物で何かを描く(砂で海を描くなど)と言う事であり、これが暗喩と同じなのです。

だから暗喩が使われていると言う、ただのヒントかな? と思っています。

 

龍安寺石庭も色々な解釈がされているようですが、どうももっと単純に、石で龍を描いているようです。

もちろんそれがあっている保証もないのですが、昔々に出来た物であり、そんなに複雑には普通しない。

結局単純に考えたのが一番正しかったりするものです。

(ちなみに、複雑な物とは、段階を踏んだものです。始めから複雑なものなど、普通は無い。誰かが作った物を改良していくとか、元がある物を暗喩として取り入れたりなど、単純な物から改良を加えて行った物が複雑になるのです)

 

同じように、壺問題もまた、もっと単純に私が今回言った事の様に思うのです。

 

更に、私が石庭が出て来る意味を深く考えようとしたが、結局簡単な答えしか出て来なかったのは、たぶん単純な答えなのかと思うのです。

 

この様に「考えすぎ」と言うのが、元の龍安寺石庭の石の意味、壺問題、それに私が今回考えた石庭の映像の意味、この三つに共通の事項として重なった気がするのです。

だとしてら、この予期してない偶然の重なりが、とても面白いと思った、と言う話でした。