号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

勝ち負けとは?

映画「ロッキー」見ました。始めから最後までちゃんと見たのは、始めてでした。

 

幾原邦彦監督が最近「ロッキー」にはまっていると、何処かで言ってました。

「なんで今更ロッキーやねん」とエセ関西弁で突っ込みそうになりましたが、先祖返りかな? とも感じました。

つまり、今更ながら基本に戻り、単純で古典な物語の良さに惹かれだしたのかな? と思えます。

じゃあ次は、面倒くさい物語はやめて、ロッキーのようなアニメでも作るのか? と言うと、そんな事はないでしょう。

たぶんロッキーのような物語を作ったら「どうしたんだろう?」「なにか変なものでも食べたのだろうか?」と世間では言われる事うけあいです。

 

吉本隆明さん(吉本ばななのお父さん)が、寺山修司の歌集の方の「田園に死す」の後でどうするかには二通りがある、と言ってました。

つまり、行く所まで行ってしまい、もはや完成されていると思える短歌が出せた人が、その後どうするのかです。

一つは「言葉の表現を止める」とありました。

寺山さんが映画を撮ったり、写真を撮ったりしだした事の事でしょう。

まだ完成されてないやれる表現方法に移っていった、と言うことだと思います。

もう一つが「言葉だけにしてしまう」と吉本さんは言います。

この意味は、つまり暗喩(メタファー)を止めてしまい、言ってみれば昔ながらの普通の物語制作、もしくは普通の詩制作にしてしまう、という事だそうです。

この吉本さん(どういう人かよくは何も知らないのだけど)流石と言うか、確かにそうするだろうと思う事を言います。もしくは寺山さんが本当に行った事を念頭に言ってるのかも知れませんけどね。

寺山唯一の長編小説「あゝ、荒野」が1966年なのが面白いわけです(田園に死すが65年出版)。

あゝ、荒野」は最近映画化されましたね。これを私は見る気が起きないのです。

それは寺山がこの後に映画を作っていくのに、自分でこの小説を映画化しようとしなかった事が引っかかるからです。

どうもこの小説、寺山さんがあまり多くを決めないで「思うがままに書いていった」ようです。

もちろんこの寺山の言葉が本当だとしたらですが、そうなると細かな暗喩などは無いのではないのか? と思うのです。

つまり、吉本さんが言ってた「暗喩をやめてしまう」のに挑戦したのがこの小説だった気がするのです。

そして寺山さんは「やはりやりたい事とは違うな」と思い、結局映画化は目指さなかった気がしてならないのです。

 

ただこの最近映画化された「あゝ、荒野」も、ネットで感想を聞くと良いらしいので、寺山修司関係なく、いつか見てみようとは思っています。

寺山自体もそう思ってたでしょうけど、別に「暗喩」が入ってるのが最高傑作というわけではない、という事です。

この暗喩が入ってなくて普通でも別に全然良い、というのは吉本隆明さんも言ってました。

寺山の暗喩がはいった「田園に死す」の短歌をとても褒める吉本さんが「暗喩が入っていなくても、普通でもいい」と言う。この辺に吉本さんがよく出来た人なのが分かります。

暗喩物語を褒めていたとしても、別に普通を否定はしてないのです。これは私もそうです。

普通は普通の良さがあるのです。

 

さて話を戻し、「ロッキー」は普通の物語です。

この普通に興味を持ち出したのが幾原邦彦(書きやすいので今後イクニさん)だったのでしょうか?

寺山みたく、行く所まで行った人が普通に目を向けるのが、流れなのかも知れません。

ただ寺山さんが「暗喩なし」ではなく「他の表現の映画等に移った」方を取ったように、暗喩なしにイクニさんが行くのかは分かりません。

ただイクニさんの作品の弱さを考えたら「ロッキー」みたいな普通の感動作品要素、だと思えてきました。

だからイクニさんには、暗喩要素も入っている、ロッキーみたいな作品を作って欲しいのですが、いやー流石に無理な気がします。難しすぎるのです。

ピンドラとかロッキーなどの作品の、どっちか一つだって難しいのに、その両方を兼ね備えた作品なんて、だれが作れるのだろう?

 

(確か東村アキコさんがネット動画のヤングサンデーで言ってたのが、覚醒コンテンツ製作者と麻薬コンテンツ製作者は、相手の内容の事は簡単に出来ると言う、と言ってました。間違いです。どっちも上っ面は基本が分かっていると簡単なのでしょう。しかし薄いものしか作れない。その内容の高いレベルが難しいのです。今は分からないけど昔の押井さんもそうです。感動させるのは簡単だと言ってたと思います。誰でも作れるものを作って、ほら誰でも作れるだろ、と言ってるだけです)

 

寺山さんは映画「ボクサー」を撮ったのが1977年です。ロッキーの日本公開と同じ年ですが、ロッキーの方が数ヶ月早いですね。

明らかにロッキーの影響があると、私は思っています。

これは良い悪い両方で影響があったでしょう。

実際には寺山は、ロッキーとは違うことをやろうとした様に見えるのです。

名作であり、人気作ロッキーと違うことをやろうとするから、始めから無理があるのです。

 

ここで早くもロッキーの最後の所の考察をします。

ロッキーでは最後負けます。あれで完璧な作品になりました。

一つは単純に興行収入的なものです。つまりあれで2が作れる。まだ続けれるのです。負けたら続きをみたくなるでしょ?

もう一つは「ララランド」方式の、ちょっと悲しい終わり方のほうが、心に残る作戦です。

ただこれは諸刃の剣です。狙ってるように感じ、やらしくなりがちだからです。私にはララランドはやらしく感じました。無理やり悲しませるように最後そうした様に感じる話の流れだったからです。あれは上手くはない。

ロッキーはそこまでやらしくないのですが、これがやらしくないのは、他のメッセージを言いたいから負けたのだ、と思える作りだからです。

 

ここがロッキーの良さなのですが、「勝ち負けではない」「もっと大事な何かを手に入れたのがロッキーだった」と言う話になってるからいいのです。

それが「生きてる意味」や「自分の価値」だったりします。

別に勝っても得れるのですが、負けたからこそ、他の大事な物が分かるのです。

勝って喜んでいたら「勝ったから喜んだ」となってしまう。

負けても気にしてない、自分の人生が間違っていなかった、クズではなかったのが表明され、だからもうボクシングはどうでもよく、だからエイドリアンを呼ぶのです。

あれで勝ち負けではなく、プライドを得れ、自分自身に価値を得れた後の、「その後の人生の方が大事だ」と言う物語になっているのです。

人生の物語だからこそ、ボクシングが関係ない普通の人の心を打つのです。

 

それの反対が寺山のボクサーです。

あっちは勝って終わります。勝ったけど恋人はさっていってます。

勝ったけど、それで得たものは何か? というロッキーの反対であり、いやらしい物語なのです。

これは良い悪い両方あります。ロッキーはあれでもファンタジーなのです。だからこそ皆が喜べる。

ボクサーは逆にリアルです。勝っても得れない、けど戦う、そこに美学や生き様を感じてしまう寺山の病気でしょう。あしたのジョーが好きなのが分かります。

より深い所を刺そうとするが、大衆演劇だと思って見に来てる人には必要がない。だから良い悪両方あるのです。

良い悪い両方あるが、大衆に受けたロッキーと逆の事をするから、大衆には受けないのはしょうがないですね。

ちなみに、私は修行で映画を見てるわけではないので「ロッキー」の方が好きです。

 

さて、ロッキーの細かな良さを書いていきます。

ちゃんと見たのは始めてだと言いましたが、あんな映画だったのですね。

ずっと「ロッキーは良いやつだ」と言う映画でした。

これは「セイブザキャットの法則」であり、好感が持てる奴が主人公で、だから皆が応援できる物語です。しつこいくらいロッキーは良いやつでしたね。

そしてエイドリアンも面白い。あれもしつこいくらい魅力が無いのです。だからそれが好きなロッキーに魅力がでる。

ただ最後は美人でした。まあ女優だから元は美人なのでしょう。だけどロッキーとあって人生が変わった、となってるので、あれで合ってるのですね。

 

ロッキーも冴えない男です。しかし良いやつだし、行動力がある。だから魅力がでる。

良いやつなのは「良いやつだ演出」もあるけど「皆に好かれている」と言う表し方なのが上手いのです。

赤の他人の意見の方が、本当っぽく聞こえる作戦です。皆に好かれているロッキーは良いやつなのだろう、という事です。

これもそうだけど、表現するのではなく、そういう風に客に思わす、と言う事を普通に出来る良い監督ですね。

よく言うけど「言葉で言わないで、絵で見せろ」と言うやつです。

ミッキーがロッキーの元を訪れた時、ロッキーはミッキーが出ていった後に大声で文句を叫ぶ。ここもいいですね。相手を気にして面と向かっては言えないけど、でも10年溜まっていた気持ちが爆発していると言う演出です。

しかしすぐミッキーを追っかける。ここもロッキーは前向きだしグジグジしない性格なのが出てるし、ミッキーに駆け寄る時が遠くからの映像で、声は何もいれず、握手を交わすことで表す。とても味のあるいいシーンになってます。

 

ロッキーは中身に人としての魅力がある。人としての、って所がミソです。

男としての、ではないので、今一女の人には「エイドリアンが羨ましい」と思われない作りです(もちろん無いわけではないのだが、どもって話したり、部屋が汚かったりして抑えてあるのが上手いのです)。

そしてエイドリアンも始め魅力が無いので「ロッキーが羨ましい」とならない。

不器用で異性としての魅力が薄い二人だから、客が応援が出来る、見事な作りです。

しかしさっき行ったように、最後の方にはエイドリアンも美人になるし、ロッキーも良くなってくるのだけど、応援した後だから魅力的になっても、客に妬まれにくいのです。ここも上手い。

なぜこれを言うかと言うと細田監督の「龍とそばかすの姫」とか「アメイジングスパイダーマン」みたく、なんで羨むキャラで埋めるのかな? という作品がたまにあるので、ロッキーを見てくれと言うことです。せめてやり方はあるだろ、と言う事です。

 

アポロ・クリードが油断してるのもいいです。

いくらなんでもロッキーがあんなに善戦するのはおかしい、となりそうだけど、油断しているという演出が効いていますね。どの位かは分からないけど、油断して練習を怠れば、調子が悪くても納得がいくからです。

しかしロッキーがアポロを「偉大なチャンピオンだ」と認めている所もいい。

下手な演出だと、敵側をただ悪く描いてしまうが、スポーツなので悪く描かないのも良いし、ロッキーの真摯な態度も、公平に物を見れるのも、良い奴なのも分かるし、とても上手いです。

敵側が雑だと物語は弱くなります。このへんが分かってない物語やゲームがなんて多いことか。敵も同じく位力を入れて描くべきです(しかし往々にして主役を食う位に魅力的になってしまうのも、また別の問題ですが)。

試合の最後アポロが「最後までやる、止めるな」と言ってたのが、また良いですね。ロッキーが戦っているのが、(油断はしてたが)偉大なチャンピオンだ、となっているから、ロッキーの価値も上がるのです。

 

ちょっと前に「filmmaker's eye」と言う映画の構図の本を読みまして、たぶんそこに書いてあったのだと思いますが「ロッキーは始めは画面の真ん中に描かないが、強くなっていくと真ん中に描く」とありました。

なるほどと思っていて、いつか確認しようと思ってたのもあって、今回ロッキーを見たのですが、結論から言うと「そうでもない」と思いました。

確かにそのような見える所もあるけど、そこまで露骨に、つまり狙って撮ってるようには私には見えませんでしたけどね。

ただ頭で分かってなかったとしても、感覚だけでもちゃんとした監督なら(カメラマンらかな?)この様なちゃんとした映像になるはずです。

つまり「強いものは真ん中に大きく描く」等は、気にして無くても自然とそうする事でしょう。だから頭で分かっていてわざとやったと言うより、感覚的に分かっていたからそうなったのではないのか? と思える映像でした。

ただ、頭で分かっていようが、感覚で分かっていようが、どっちであってもそのへんは出来てあったので、それは良かったですね。

有名な音楽がなり、ロッキーが走り階段を登る所、確かにこの時の映像は、今までよりロッキーを大きく、そしてより真ん中に描いています。

前に一度走り階段を登ったシーンと比べれば分かります。

しかしこれも見てもらえば分かると思いますが、言われてみればよりそうなってるかな? 程度です。つまりそこまで頭で考えて狙って撮っていたとは思えないけどね。でもまあ感覚が分かっている人だから、ちゃんとした映像にはなってたと思います。

 

細かな事で、このシーン、同じ時間帯なのに、後半の方が明るいのもわざとでしょう。

後半はシンメトリーな映像が多いのもわざとでしょう。後ろの絵がシンメトリーだから真ん中のロッキーを強調出来るのです(シンメトリーは真ん中に意識がいきやすいからだと思います)。

 

「filmmaker's eye」に書いてあった事で、他の事で言うと、強く見せたいものは下から映す。弱い者や弱ってる者は上から映すのが定石だそうです。まあ分かりますよね。

階段を上がるシーンの最後の手を上げるシーン、ここが下からの見上げる絵なのも、だからわざとでしょう。

 

そしてもう一度言うと、強いものは大きく、そして真ん中に、です。

始めの黒い服に帽子をかぶってチンピラまがいな事をしている時は、妙に遠い絵が多いです。わざとでしょう。

黒い服装もわざとでしょうけど、ここはまあ普通と言うか、露骨かな?

 

とまあ、考えてみたら、とにかく良く出来た映画でしたね(今更私が言うこともないけどね)。

映画「ロッキー」は「勝ち負けとは、自分で決める事だ」という映画です。

だから「勝ち負けは自分で決めれる」と言う事にもなる。

そこから「人生の勝ち負けとは何か?」と言う映画にもなり、だから皆の心を打つのです。やはりよく出来てます。

 

次は、もう一度見てみないといけないと、ずっと思っている作品「ランボー」を見ようかと思っています。