物語制作で「最高責任者さえも超える作品を作るには、どうすればいいのか?」を考えます。
最高責任者とはアニメや映画なら、普通は監督と言うことになります。
アニメ「輪わるピングドラム」はもはやイクニ監督を超えた作品になってると、最近は思っています。
その前に気がついたのが、こうの史代さんの漫画「夕凪の街桜の国」と「この世界の片隅に」であり、これも同じく作者を超えた何かになっている、と思っていたので、考える元になりました。
そして「シン・エヴァンゲリオン」も参考になりました。
まずは、庵野さんがシンエヴァでやっていた「誰かにやらせてしまう」と言うやり方です。
庵野さんの総監督以外に、なぜ三人も監督がいるのか? と思っていたけど、色々な人の才能を出してもらって、それを合わせて自分(庵野さん)を超えた物を作り出そうとしたのですね。
これは宮崎駿のアンチテーゼでもあります。宮崎さんは自分でなんでもやってしまうからです。
庵野さんは宮崎さんの作り方をみて「あれは宮崎さん一人でいい、後は手が足りないからのお手伝い」みたいな事を言ってました(本当に喋った言い方は覚えてないので、私が意味の通じるように言っただけなのは勘弁です)。
この意見の面白い事として、「宮崎さんのやり方だと、一人の才能を超えたものが出来ない」と言う事でもあるのだけど「それで傑作を作れる宮崎駿は天才」とも取れます。
ちなみに宮崎さんは傑作を始めは作れたのだけど、途中から明らかに限界が出てきました。その時にやり方を変えれてたなら、後半も(魔女の宅急便あたりからかな)さらに完成度が高い物が出来たと思っています。
この他人にまかすやり方は、ピンドラでもやっていたと思います。つまり監督とかを別に置かなくても「色々な人の意見を出してもらって、聞く事が大事だ」と言う事です。
私は元来はこの様に作るべきだと思っています。
人の才能など限界があるのです。だから他人の才能も取り入れるべきです。
もちろん聞いてみて、嫌なら入れないだけなのだから、聞きもしないのはただのマイナスです。
この事に細田守さんも気がついてほしいですね。
ただこれにも限界があります。
誰かが最高責任者として、「入れるかどうかを決めないといけない」からです。
誰か一人の最高責任者は必ず必要です。それでまとまるし、作品としても一本筋が通るからです。
この事で富野さんがエルガイムで失敗したと言ってました。永野さんと一緒に作ったから足を引っ張られたと言ってました。永野さんもたぶん富野さんに足を引っ張られたと思っていた事でしょう。
しかし最高責任者が監督一人だとしても、「監督が分からない要素だと入れれない」のです。それが限界です。
これはスポーツの監督も同じです。その人がどう採用するかを決めるが、それがいつも合ってるとは限らないからです。名監督でも、たまには間違えることでしょう。
だからあくまで「正解の打率が高い人が監督」なのです。つまり最高の監督でも、結果一番良くなるだけであり、いつも正解でないのは頭に入れておくべきです。神ではないのです。
なので、他人の才能を入れる事すら限界があります。ただ、やらないよりは「大体」は良いでしょう。
次に良いと思うのが「実際に起きた事を題材に入れる」ことです。
こうのさんで言えば第二次大戦だし、ピンドラで言えばサリン事件です。
本当にあったことは、多数の人が係わり、実際の社会情勢なども係わり、とにかく複雑です。
これらは個人では作れないほどの複雑さをもち、リアルさを持つのです(リアルなものだから、これ以上無いほどリアルなのは間違いがない)。
例えで言うと、もし第二次大戦のドイツを元にした物語を作ったとする。それでなぜロシアと戦い始めたのか? という理由が分からないけど、取り入れたとする。(そんな事ないけど)もしこの物語の元が第二次大戦だと分からない人が見たとしても、ロシアに攻めていった理由が考察出来、当てる事すら可能です。それは現実であった、戦う理由が本当にあるので、それを取り入れた監督が知らなくても、その理由はもう裏に用意されてるのだから、考察が出来るのです。
つまり監督が理解してなくても、元のリアルな事実の複雑さが、そのまま物語の複雑さになってしまうという事です。
次に「単純に複雑な設定や、数多い登場人物にしてしまう」と言うやり方です。
これは力技ですが、複雑さを増せば、思いもよらない要素が勝手に入ってしまう物なのです。
ただその多数を入れる時に、入れる人の才能と努力が必要です。
ちゃんとしたリアルな人を、しかもブレないで入れとかないと、おかしな物にしかならないからです。
これはガンダムなどがそうですね。例えば、私はシャアとアムロは、親がいたかどうかで性格が決まった気がしてます。良くない親がアムロにはいた。いやよくない親だからこそアムロが親離れでき、良い親がいたが、それ故その親を奪われたシャアは呪いに生き大人になれなかったと思ってます。ただこの要素を狙ってかはなぞです。色々設定を複雑に考えた時に、予期しないで生まれた要素かもしれないと言う事です。
ピンドラも複雑になったので、予期せぬ効果が入っていると思っています。ネット動画で山田玲司さんがイクニさんの思惑を色々言ってるが、たぶん外れてます。しかしその中で「なるほど」と思えるものもあります。そう思えたのなら、イクニさんが狙って無くても、そういう物語だと言うことです。そしてだからこそ、イクニさんを超えた作品になったと言うことです。
ピンドラが複雑になった理由の一つとして、暗喩が裏に入っているからです。
暗喩を通そうとすると、不自然な内容になったりします。
これは悪しき要素なのですが、良い要素にもなるのが面白い所です。
つまり、ふつう考えない不思議な要素が入った物語が出来上がるからです。どこからこの作りにしようと思ったのか? というセンスオブワンダーが出来てしまう事があるのが、面白い所です。
ちなみに、普通の感覚がない人だと、普通の人が喜ぶ作品は無理だと思っています。
しかし普通の人だと、普通の要素だけの物語になりがちです。
だから、他人にある部分任せてしまった方が、いい味が出ることがあるのです。まどマギのイヌカレーさん達の効果がそうでしょう。
それ以外で不思議な効果を出そうとした時は、暗喩を入れると不思議感が出来るので、狙ってやってみても良いのかもしれません。
などの事をやると、もはや監督さえも超えた作品が出来上がる可能性が高まります。
そして監督が狙ってようが、なかろうが関係なく、そう見えたのならそういう物語なのです。
さっきも言ったけど、山田玲司さんや岡田斗司夫さんがそう言って、皆がそう見えたのなら、そういう物語なのです。
ただそうは言っても、監督を超えた作品作りは、言うほど簡単ではない。
ピンドラのイクニさんもそうですが、こうの史代さんも実はかなり考えて練ってから、作品を作っている気がしてきました。「この世界の片隅に」を見ると、狙って入れた要素が、かなり練られているのが分かるからです。
つまり、監督を超えた要素を入れるにしても、簡単ではないと言うことです。
監督が正しい感覚があり、細かな配慮も出来て、始めておかしくない複雑さを構築でき、だからこそそこから何かが生まれ、結果監督を超える事が可能になるのでしょう。
おかしな要素や、その場限りの要素では、整合性が取れた複雑さは生まれないのです。
例として「パズルのピースの形がはっきり決まっている」から、それらを合わせた時に「馬」に見えたり「猿」に見えたりするのです。そこから「馬に乗った猿の絵」が作れたりするが、それが監督は思い描かなかった作り方かも知れないと言うことです。
ピースの形が不完全でグニャグニャだと、何かはっきりした形の物を、新たに見出す事等出来ないと言う事です。
だからイクニさんも、こうのさんも見事です。
すべて手の中に収め、狙ったすごさを目指す、宮崎さんに富野さんに高畑さん。それに押井さんもか。
それを超えて行こうとしたのが、その下の世代の人達、イクニさんに庵野さんに、狙ってない気がするが、こうのさんもそうでしょう。そこに世代間が見え、面白いわけです。
では高畑さんと同じ世代の、寺山修司さんはどうだったのか? これは今一分からない。あの人は劇団だったからやり方から違う。
寺山さんは内容自体を変えていった事でしょう。同じ演目を何度もやる劇団から毎回変えて行けるのが、映像作品と違うところですね。
映画の方では一回こっきりで、時間も短いので(連載物より)、他の人の意見は(大事な所には)あまり取り入れてないように見えるけどね。どうだったのでしょう?
製作者を超える物語。
それは可能だと思うので、やりたい方はチャレンジしてほしいものです。
実際はかなり難しいけどね。
さておまけです。未来の事です。
では、イクニさんや庵野さんの下の世代はどうするのでしょう?
未来は、もっと次元を超えなくてはいけないと思います。
水玉さんが昔々に「シェアワールド」に可能性を見出してたのが面白いわけです。
一つ一つでは監督が必要だけど、シェアワールドにしてしまえば、監督の枠を超えた物が勝手に作れる。
世界(ワールド)に自由を持たせ、皆に勝手に作って行ってもらうのです。
例えばガンダムがあったとして、その続きをAさんとBさんが別々にやってもいいし、その後の人はそのどっちを正解と思ってよく、例えばBを正解としてCを作ってもいいのです。
これはフリーソフトなどのプログラムのようなやり方です。
シェアワールドでやり、成功かどうかは世間に任せてしまう。まるで生物の進化の過程の様に。
こうしても面白いと思います。
他にも、最近の3Dゲームなら、リアルタイムに描画が出来る。
初期のトイ・ストーリーなら、PS5などで、リアル描画で全編だせるはずです。
つまり見た目は主人公が誰でもいいのです。
例えば今あるジャエンダー問題や人種問題もなくなる。
見る前に各々が、黒人100%と設定すれば、全てのキャラが黒人になる。もちろん白人でも日本人でもよく、すべて男でも女でも良いし、割合で決めてもいい。
さらに流れや終わりも、見る人が決めれてもいい。
日本で作られてる3DCGのアニメ等だったら、もはや可能性が出てきてます。
ゲームでいいのなら、参加型物語も作りやすい。
それこそメタバース上で、リアルタイムミステリーを見て回ることも、やりやすい事でしょう。
これらは寺山さんなどが劇でやっていた事のメタバース版なのですが、メタバースのいい所は再現性があるし、だからこそ参加型でも簡単に作れると言うことです(コンピューターがNPCを演じるから、いくらでも再現が出来ると言う事です。もちろん人がNPC側にまざり操作してもいい。これは臨機応変に出来る)。
多人数参加型の物語です。それはゲームでもあるのですが、ゲームより自由度があってもいいという訳です。
これはTRPGに近づくことでもあります。多数の人が即行芝居をやって劇に参加してしまう事を可能にしてしまうやり方です。
もちろん上手く行かない事も多くあるでしょうけど、そこで再現性がある事が効いてきます。いやならまた他の人と試みて、面白い物語にするのを目指すと言う、参加型物語ゲームが出来上がるのです。
もう少し先進的なものじゃないもので、最近私が気になってるのがコスプレです。
元が二次元要素なのに、それを三次元として現実に出し、しかも自分が主人公になってしまうコスプレって、何か未来がないかな? と思っています。
これも参加型アトラクションとして、何か出来るような気がするのですが、どうでしょうか?
とにかく、未来はもはや既存の物語制作とは違う次元の物が出てくる筈です。
この要素に近付こうとしてたのが、昔々の寺山さんなのが面白いわけです。
生きていたら、色々チャレンジしてたと思うと、残念です。
言い方を変えれば、後を継ぐ者などいなかった、という事です。
もっと言い方を変えれば、後を継ぐ者を寺山さんが残せなかった、という事です。
なんであれ、今とは次元を超えた所に未来の物語がある事は、若い人は理解しておきましょう。