号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

寺山を超えて

アニメ「ピンドラ」こそが、寺山作品を超えて行った作品だと思った、と言う話を書きます。

 

ネット動画で「山田玲司ヤングサンデー」と言うのがあります。

段々「ん?」っと言う内容もあるのが分かってきましたが、話が面白いのはピカ一ですね。

面白いと言うのはそれだけで価値があります。それだけで見てられるからです。

 

ちょっと昔の動画ですが(2016年かな)、ここに出ている奥野さんと言う方は昔(学生の頃か?)劇を作っていたらしく、それで「おれ寺山修司だから」みたいな事を言ってました。

それを聞いた私は「なめてんじゃねえ」と思ったと言う話です。

動画のヤングサンデーを知ってる方は分かると思いますが、彼はピンドラファンには不倶戴天の敵です。

ピンドラ分からないのに、なぜ寺山修司が分かると言うのでしょう。

 

まあ彼もふざけて言ってたので、本気で反論してもしょうがないのですが、どうも「寺山修司を分かっている」と、人とは言いたい生き物だと思えてきました。

 

園子温監督も昔「寺山修司の生まれ変わりだ」と言っていたようです。

そう言えば押井守さんも「寺山を一番うまく描いたと思う」みたいな事を書いていました。ドラマを作った時にです。

この有名な二人が、寺山を理解してるかどうかは私には分かりません。どっちの作品も(押井さんは実写の作品を)見て無いからです。

ただ怪しいとは思っています。

これほど有名な二人が寺山を再現できたなら、漏れ聞こえてこないのかな? と思うからです。

もし寺山を再現しているのなら見たいのですが、どうも見る気が起きない。出来てる気がしないからです。さてどうでしょうか?

 

寺山修司の特徴とは何か?

まあ一つでは無い。

しかし大きな要素があります。

それが暗喩です。

寺山の長編映画の第一弾「書を捨てよ街へ出よう」と寺山映画の一番人気がある「田園に死す」そして最後の作品「さらば箱舟」、この三作品とも暗喩作品です。

そして暗喩が分からないと何をやってるか分からない作品でもあります。

だから寺山の映像作品の特徴は、間違いなく「暗喩」だと思います。

つまり暗喩を理解していて、なおかつ使い切っていて始めて「寺山を理解して使っている」と言えるでしょう。

さて皆分かっているのか?

 

グーグルで「寺山修司 暗喩」で検索すると、始めに出て来るのが、吉本隆明さんと言う方が話した内容の事です。この方知りませんでしたが、有名な人らしいです。

寺山は短歌などを作ってました。そう言えば短歌などは比喩を多用するのでは無いのか? とは思ってました。

それで吉本さんの話では、やはり寺山は比喩や暗喩を短歌で多用しているそうです。

しかも短歌で物語性を出し、その上暗喩も重ねて来るなんて、寺山だけがやってのけたのでは無いのか? と言ってました。

そうなると、そこから映像に行った寺山さんが、暗喩にあれほど力を入れる事も納得が行きます。

元々暗喩を深く考えてきた人が演劇や映像に行ったから、あの作りだったのでしょう。

 

ちなみにですが「寺山修司 暗喩」で検索したら、結構上位にこのブログが出て来ます。

それで「喜んだ」のではなく「愕然とした」のも書いておきます。

このブログ程度が(ネットだと)寺山と暗喩を伝えている人の上位に来るなんて、終わってるなと思うのです。

ネットで書くのは、比較的若い人(と言っても60歳は行ってない位と言う事)であり、多くは素人だと思います。

素人だと思うのは、プロだと分かっているが言わない人が多いだろうと思ったからです。

それこそイクニさんや、その周りの人々は知っているが、皆ネットで言ったりはしません。それは文学の答え合わせになるから言えないのでしょう。例えばミステリー作品の答えを言って回るようなものになるので、言うべきではないと思っているのでしょう。

しかしその結果、比較的若い人と素人は、ほぼ暗喩は理解してないと言う事になる。

皆始めは素人です。だから素人がほぼ分かってないと言う事は、しまいにプロも分かってない人が多くなる。

だから演劇を学んでいた奥野さんが分かっていないし、ピンドラも理解できないのです。

皆これで良いと思っているのか? と言うのが私の考えです。何度も言ってるけど、これでは日本の文学など、すたれていく事でしょう。

 

寺山修司の特徴が暗喩だとは言いました。もう一度言うけど、しかし物語の要素はそれだけでは無いのと、それだけが大事ではないのは強く言っておきます。

しかし寺山を語るには、暗喩が分かってないと理解が出来ないのです。

では誰が寺山を理解し、自分の血肉に出来たのか?

それがイクニさん事幾原さんですね。そして集大成がアニメ「ピンドラ」です。

(ちょっと話がずれるけど、寺山修司を私が寺山と呼び捨てするのは、私の中では宮沢賢治とか太宰治と同じような感覚だからです)

 

寺山の作った要素をそのまま使う人が多い。別にそれ自体は悪くはない。

寺山の作った物からのオマージュと呼べる作品もある。それも別に悪くはない。

しかしそれは「作った物の使い方を理解している」だけであり「構造などの細かな事を理解している」とは、分けて考えるべきです。

例えとして、寺山が性能の良いエンジンを作ったとする。

皆その性能が良いのが分かり、しかもその使い方も分かり、そのエンジンを使い船とか飛行機を作っている。これがほとんどの作家でしょう。

そしてその程度が「寺山を分かっている」と言っている人のほとんどです。

しかしそのエンジンがなぜ? どのように優れているのか? を理解して、そこから自分でエンジンを作れる人が、本当に寺山を理解してる人なのです。

その自分で作ったエンジンは、他の人から見たら寺山のエンジンとは見た目から違います。だから見た目も違うエンジンを見て「これには寺山エンジンの要素がある」と分かる人が、本当に理解している人だと言う事でもあります。

それをやってのけたのがアニメ「ピンドラ」です。見事です。

 

面白いのは、イクニさん自身もその事に気が付いて無かった事です。

イクニさんはピンドラの前に寺山からの脱却を狙っていたようです。しかし思ったよりピンドラでも影響されてたのだなと分かったと、最近言ってました。

イクニさんはウテナでも寺山をやってましたが、あれも言って見れば寺山エンジンを利用した作品でしかないのです。

それから脱却しようとして、しかしいつの間にか寺山要素がイクニさんの血肉になっていて、気が付きもしないで出てきてしまったのがピンドラだったのでしょう。

それはもはや、寺山要素が一部になっている、と言う事でもあります。

そしてこれでやっと寺山と違うエンジンを作れたと言う事であり、寺山を超えて行ったと言う事になるのです。

 

私個人の考えでは、アニメ「ピンドラ」を見て寺山要素を見いだせないのなら、寺山を理解しているなどと言うべきではないと思っています。

もちろんエヴァ庵野さんを知ってないと、分からないのだけど、「これは何かの暗喩だな」とすら思わない人は、寺山を理解してないのだと思っています。

 

イクニさん自身も気が付いてないけど、ピンドラこそが寺山を超えて行った作品だったと言う事です。

 

寺山修司は有名な少女漫画家とも交流があったそうです。

それもあり、もし寺山修司がピンドラを見たら、喜んだか、嫉妬したと思うのです。

寺山修司を嫉妬させれたら、この時は超えたと言っていいでしょう。

もちろんそれはもう叶わぬ幻ですが、幻だからそれぞれの中では叶うのです。

私の中では叶いました。

さて皆さんの中では?

 

(分かりにくいので補足です。作品自体は超えたと思いますが、個人としてのイクニさんが寺山の上に超えたとは思っていません。ただ、時間の流れとして超えたとは思っています。寺山が死んで止まってしまった物を、寺山と同レベルで描ける人が、時間を超えて作品を描いた、と言う事です)