号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

老婆買う町の人々へ

寺山修司の詩集「田園に死す」が1964年発売されたそうです。

その後、それを元に映画化されたようです。

 

吉本隆明さんと言う方がいて(吉本ばななの父親なのか)寺山修司の詩の事に付いて言ってたのは、前に書きました。

そこで寺山の詩には、確かな暗喩があると言ってました。

しかしどこが暗喩で、どういう意味かは言ってませんでした。

 

映画の方の「田園に死す」には、寺山の詩集の方の「田園に死す」から抜粋された詩(短歌)が出て来ます。

短歌は何も知らないので、全然分かりませんでした。

あまりに分からないので「これは短歌に詳しい人が分かる内容なのだろう」と諦めて、無視してました。自分には関係がない世界のものだと思ったのです。

 

しかし吉本さんが言った様に暗喩だとすれば、映画の方の田園に死すと同じ様な物かもしれないと思ったので、もう一度考えてみようと思った次第です。

 

結果から言うと、暗喩だろうと思って見たら、確かにそう見えそうなものがいくつかあります。

そしてそう見る事により、分かる内容のものが見付かりましたので、書いていこうと思います(もちろん分からない短歌も沢山あるし、間違ってるかもしれないけど)。

 

ネットで見て、出て来たのを基本に書きます(つまり面白そうだと他人が思った物であり、だから良く出来ているだろう作品です)。

その中に映画の「田園に死す」には出て来ない物もあるかも知れません。だとすれば詩集の方に出て来る物ですが、どっちに出てたかは確認してないのでご了承下さい。

 

まず大事なのは、暗喩と言うより比喩と言えるものです。つまり素直に見れば分かるものです。

 

[ たつた一つの嫁入り道具の仏壇を義眼のうつるまで磨くなり ]

 

これは映画の中でもやってましたね。母が仏壇を丹念に磨いていました。

意味は「母は(親は)家や祖先に執着していてそれを馬鹿みたい大事にしている」そして義眼と言う事は「本当は何も見えてない」と言う事から「真実など見えてない」と言う事ですね。

たった一つとは「それだけしか大事な物だと思う物を持ってこなかった」と言う事です。「家を大事にする、と言う感覚だけを持って嫁に来た」と言う意味です。

これは分かりやすい比喩ですね。

 

短歌や詩は比喩を多用すると思います。

だからこれだけだと普通です。

普通でないのは「暗喩」だからです、影に隠れたもう一つの比喩があると言う所が、寺山の真骨頂なのでしょう。

 

では暗喩は? と言うと、この詩には元々あったのかは分からない。

しかし、もしかしたら映画の「田園に死す」の大きな暗喩と同じ物がかかっているのかもしれない。

だとしてら「学生運動」になるのですが、1964年だとどうでしょうね? まだ盛んではないだろうけど、たぶんあるにはあったと思います(1940年生まれの富野由悠季さんが学生時代係わりそうになったと言ってたしね)。

だとしたら、自分の家の事を見ていて周りを見て無い事の暗喩かも知れない。

上の世代が家、つまり国ばかり大事にしていて、周りが見えて無い事の暗喩かも知れないのです(60年安保を通そうとする政治家などの事です)。

 

他の詩です。

[ 村境の春や錆びたる捨て車輪ふるさとまとめて花いちもんめ ]

 

花いちもんめとは有名な歌ですね。

内容は、花を安く買って喜んでいる人と、安く買いたたかれて悲しんでいる人の話です。

 

多分これは「車輪が錆びている」事から「働く事をさぼっている」そして物を安く買おうとか高く売ろうとか、そんな事ばかりを村総出で話してる様になった、と言う苦言でしょう。

生産性が無い事をずっと話しているし、働く事を止めている人への苦言です。

今風に言えば、デイトレーダーへの苦言の様な物です。

 

[ 新しき仏壇買ひに行きしまま行方不明のおとうとと鳥 ]

 

仏壇とは「家の真ん中にある大事な物」です。

さっき言った様に「過去から連なる守るべき中心」とも言える物です。

それを買いに行くとは「新たな価値観を買いに行く」つまり「過去の価値観に縛りつけられない様に、新たな自分の価値観を得に行く」と言う事です。

さっきも言った様にガンダムの監督の富野さんが1940年生まれで、たぶん60年安保の方に係わりそうだったのかな?(富野さんはノンポリだから距離を置いたようですが)

そして寺山さんが1935年生まれで早稲田中退ですね。

だから60年安保で係わった学生は寺山さんの弟位の年だと言う事です(実際には兄弟はいないけど)。

つまり60年安保に係わった若い人は、新たな価値観を得ようとしたが行方不明になったと言う事です。

新たな価値観とは社会主義でしょう。

鳥とあるのは「弟と一緒に飛んで行った」と言う事でしょうか?

社会主義国家などへ飛んで行ったまま、どこかに行ってしまった事を表している。

ここで面白いのは「新しい仏壇」だと言う事です。

新しくなっても仏壇だとは、つまり物が変わっただけで結局やってる事に変わりはないと言う事です。

そして仏壇と言う事から、この頃は理想に見えている社会主義でも「死がまとわりついている価値観だ」と言う事でもあります。この辺が面白いですね。

 

さて最後です。

一番有名であり、詩集でも映画でも初めに出て来る短歌です。

つまり一番大事な詩(短歌)だと言う事です。

 

[ 大工町寺町米町仏町老婆買ふ町あらずやつばめよ ]

 

確かに良いですね。始めは何言ってるか分かりませんでしたが、それでも何か良さそうに見える詩でした。

つまり「分からなくても良さそうに見える詩である」と言う事でもあり、その事自体でも既に価値があると言う事です。

 

まず表から「つばめよ」とある事から、空を見てつばめを見て言ってるのでしょう。これだけで絵になります。

しかもつばめに言っている。だから「誰に言えばいいかもう分からない事だから、つばめに言っている」事から、困惑している、頭に来ている、落ち込んでいる、などが見えます。

そしてつばめだから答えが返ってくるわけがない。「答えなど出て来ないだろう」と言う事ですし「答えなど出す人などいないだろう」と言う諦めでもあります。

諦めや残念な気持ち(憤り)が、つばめに言う事により出て来るのです。

 

老婆買う町はないのか? とは?

一つ考えられるのは「老婆を売りたいから教えてくれ」と言う事。

ここから寺山個人の事かもしれないと、普通は思うのでしょう。

つまり「母を売ってしまいたい」と言う事から「母の呪縛から逃れたい」事かな? と勘ぐれます。

 

もう一つは「老婆買う町など他にはないだろう」と言う意味です。これらの他の町でも老婆を買ったりはしないだろう、と言う事です。

つまり「これらの街とは別の自分の町は、あろうことか老婆を買う様な町だ」と苦言を呈いてる様にも聞こえるのです。

これも寺山の母の事の様にも聞こえるのが上手いです。

父が死に、子供の寺山のもとを離れ働きに行ったのが母です。これが売られて行ったかのような感じに見えたのかもしれません。

ただそうは言っても当時の母の年齢から「老婆」と言うのは違うでしょうから、この意味はあまりないか、全くないと思っています。

 

ただ、寺山個人の事を言っている様に聞こえる所が、秀作です。

この作りが映画の方の「田園に死す」の元になってるのは間違いがないですね。

 

でもそうなると、その前の数々の町は何なのか? が問題として残るのですが、これが暗喩でないと解けない所なのです。

ここで天井桟敷の名前の由来になった映画「天井桟敷の人々」が効いてくるのです。

 

結論の前に、これがファンタジーの世界の様な不思議な世界をかもし出していて、面白い所ですね。

実は暗喩の為に作った所が、不思議過ぎてファンタジーになって良い味を出してしまう時もあるのです。この要素がきいているのがエヴァでありピンドラなのは言っておきます。

 

結論です。

大工町とはソ連です。映画ではトンカチがよく出て来ました。ソ連の旗にのっているトンカチの事ですね。

寺町とは、寺の地図記号の卍から、逆卍のナチスになり、だからドイツの事です。まあダジャレみたいですが、他の要素と表の感じを同じにするための苦肉の策です。

米町とは、米国、アメリカです。

仏町とは、フランスですね。

これらは一つ一つの可能性だと小さいが、まとめて考えると他は考えられないので、間違いがないと思います。

 

では町が各国となると、老婆は何なのか?

ここで戯曲「身毒丸」がヒントになるのです(逆にこの戯曲がないと分からないよ)。

身毒丸では金で義母を買ってきて「最後は俺を生み直してくれ」と言います。ここから義母はアメリカで「親として日本を民主主義国家として作り直してくれ」と言う事です。その事の当時の苦言でしょう。

だから「老婆売る町あらずや」ではなく「買う町あらずや」と言う事から「老婆を金で買う様な国は、これらの国にはないだろう?」となり、それを買う様な日本に対する苦言になるのです。 

老婆とはアメリカです。ベトナム戦争をしている頃で、既に枯れている仕組みを持った(様にみえる)民主主義国家に対し「金で仲間になってくれ」どころか「親みたくなってくれ」と言っている日本はどうなんだ? と言う苦言でしょう。

 

そして初めに戻り、それをつばめに言うしかない状態だ、と言う事です。

その事に誰に言う事も出来ず、誰に言っても治りようがないと言う諦めです。

 

この短歌は、この短い中に、表の不思議な田舎の町を表し、しかも寺山の個人的な悩みを表している様に見せている。

しかもそれすら、売りたいと言ってる様にも、買うような町は無いだろうと言う苦言にも聞こえる。

そこから更にその両方の気持が揺れ動いているとも取れる。

 

それに加え裏の世界がある、暗喩の世界です。

そこには社会の問題が隠れている。社会の、国への苦言や諦めが含まれている。

 

個人から国まで両方含まれ、更に両方とも売りたいともとれるし、この国の様に買うような愚かなこの国はないだろ、とも取れる。

まさに寺山の真骨頂であるし、集大成でもあるし、最高傑作でもある。

 

だからこそ、ここいらで詩(短歌)は止めたくなったのでしょう。

もうこれ以上は無いだろうと言う事です。

 

ここから始まってるのだから、映画の方の「田園に死す」の作りになって行ったのが分かります。

たぐいまれな天才性が出てたのが良く分かる短歌でした。

 

ちなみに、この短歌の多種多様な要素をまとめた映画版「田園に死す」にたどり着いたのがアニメ「ピンドラ」だと思っています。

もしくは超えたかもとも思います。

ただずっと後の作品なので、作品として超えたとしても、寺山自体の天才性にたどり着いたのかとは、話が別です。

個人的には、イクニさんは寺山を超えた作品を作ったとしても、寺山自身を超えたとは思ってません。

なのでまだです。

まだまだイクニさんには馬車馬のように働いて行ってほしいものです。