「押井守の映画50年50本」と言う本の感想です。
名前は有名ですが、押井守さんて良く知りませんでた。こんな人だったのですね。良くも悪くも、もっと天才肌なのかな? と思っていました。
学生時代に一年で映画1000本見てたそうです。どうかしてますね。
そして映画を見て考えて、正体を探ろうとしてきたようです。頭で考え理解しようとする人のようです。
この本は一年で映画一本縛りで語られる内容です。それを50年分です。
この一年一本縛りと言うのは面白いですが、こういうのは映画を語るとしたら意味が無いと思っていました。年間で良いのが沢山ある年と、駄作が多い年があるからです。
しかし押井守が語る事により、押井守の映画50年と言う事になり、押井守の考えの50年分になるので、そうなると本としてあっている訳です。
映画を沢山見てきて、アニメも実写も監督をして、そして考えて正体を探ってきた人の50年分の考えの良い所取りな内容です。
選んでいる映画は、良い映画と言うより語りたい所がある映画と言う選び方だそうです。だからつまらないというのも入っています。そしてなぜダメだったのかが書いてあります。
もちろん50本もやるので一本あたりは簡単な内容になる。たぶんもっと深く考えがあるのだろうけど、どうしてもその中の大事な所しか言えて無いと思います。
でも50本もやってると長くなるのでそれはしょうがない。それに端折っているからこそ本当に大事な所だけで出来るので、読んでる素人には丁度いい物になっています。プロの方には「大事な所は言ったのであとは自分で見て考えろ」と言う事にもなり、これはこれであってると思います。
ちょっと話はずれますが、この限られた範囲で結果を出すというやり方が、監督と言う仕事のメタファーにもなっているので、なお更面白い訳です。この事は押井さんも編集も考えて作ってはいないでしょうけどね。
読んだ結果から言うと面白いです。
出て来る映画はそこそこ有名な物ばかりです。それは押井さんがわざとそうしたようです。
映画通だったら半分くらいは見てると思います。ちなみに私は半分も見てはいないです。だから映画通とかではない人です。
そんな私が知らない映画の事なのに面白い。それは知らなくても読めるように押井さんが言葉を選んでいるのか? 編集が上手いのか? その両方か? ですが、とにかく良く出来てると思います。
別に押井さんの考えに全て乗れと言う事でも無いのだけど、間違っていると思っても考える元ネタにはなるので良い本ですね。
さっきも言った様にいい所取りな本なので、面白い所の内容を言ってもきりがないです。
だからその中でも私が気になった所の、しかも大きな目線で映画を見た話の所を、メインで感想を書いていきます。
4ページ 前書きでいきなり大事なまとめが書いてあります。
「映画を見る事」と「映画を語る事」は同一の経験である。
「映画は語る事でしか存在しない」
「見られた映画」と「語られた映画」は別に存在する。
これが「映画を見ると言う行為の真相」である。
と書いてあります。なるほど長年映画を見て考えてきた人の答えなわけです。
分かりにくいので、この言葉の私なりの受け取り方を書きます。
映画を語るとは何か? つまり思い出です。記憶なのです。
映画を見終わったすぐに語ったとしても、言葉に出さずに思い出したとしても、すでに記憶なのです。映画を見てる途中に思い出してもです。思い出してる時点で記憶なのです。
アトラクション的な映画もあります。まるでジェットコースターに乗ってるように感じる映画です。これはこの瞬間を楽しむ物です。
しかしほとんどの映画は思い出すものです。そして思い出せるものが良い映画です。次の日にもう忘れてる映画は普通は駄作です。
(ちなみに私はジェットコースター物も認めますけどね。ただそれはまた違う物だと思っています。普通はディズニーランド等にあるべき物です)
つまり語らない物はもう忘れている物であり、すでに何も無い物です。
あるのなら語れる筈です。そして語った時には記憶なのです。
記憶以外の映画は、つまり見ている瞬間の映画の事です。一分ずつ、もしくは一秒ずつの事です。細かく正確に言えばもっと短い瞬間の事でしょう。
だから個人が見た映画として、見終わった時に残った物はすでに記憶であり、思い出です。そして語った時に出て来るものが映画の全てなのです。その人にとっては語れるものがその映画の全てなのです。映画とは普通は思い出なのです。
だから映画は語った時のみに存在するし、何を記憶に残すのか? が大事だと言う事になります。
なるほど。面白いですね。
24ページ 「映画の半分は音楽だ」と押井さんは言います。そうなのですね。
セリフだけをいれても盛り上がらないでしょうから、音楽が大事なのでしょう。
大事なのは素人でもなんとなく分かりますが、半分も音楽なのですね。
音楽は押井さんではなく、音楽担当の方の腕の見せどころなのでしょう。だからそれを映画の半分だと言ってしまう所に、この人の公平性が垣間見れます。正確に映画を分析しようとしていると言う事です。
25ページ 「ダレ場」とは漂う時間、たそがれる時間の事だそうです。そして押井さんはダレ場はアクションシーン位値打ちがある、と言います。
30ページ 快感原則は繰り返すと減衰する、と言います。
ずっと盛り上がっていると慣れてきますね。そして感動が薄くなる。アニメ「キルラキル」がそうでした。頑張っていましたが最後は息切れしてましたね。最後の印象が大きく残るのだから、逆算して作り、最後に一番盛り上がるようにするべきですね。
だからこそ「ダレ場」が必要だともいいます。そうだと思います。
ただ「ダレ場」でも本当にダレてはいけないと思います。やり方があるのだと思います。飽きさせてはいけないと言う事です。
例えば、普通の日常でもやる事が特になくダレているが、心地いい時間がある。同じようにやる事が無くつまらないな、と思う時もある。心地いい時間の方を演出するべきですね。
「パトレイバー」なら整備班が昼に釣りをしてたり、皆で集まってわちゃわちゃ昼飯を食べてたり、昼休みに相撲してたりする時間です(実際にあったシーン以外も言っています)。
他にも、実際でもなんとなくダレている時に話しかけると本音が出たりしますよね。強がっている人の弱音が出たり、冷たい感じの上官が「皆を無事に帰したい」と言ってみたり、気の強い上司が(女の人がいいかも?)よだれ垂らして寝ていたり。そんな何気ない日常です。
その時間が心地いいし、人間味が出るとリアルさが増すし、人間味を知ってしまった人達だからこそ守りたいと客も思うし、だからこそそれ以外とのギャップが大きくなります(戦闘シーン等との)。
他にも効果があるのは、展開が早い時に、客が内容を自分自身の中で落ち着かせる時です。ラピュタなんかは魅力的な世界なのに、落ち着く前に次のシーンに行ってしまう。ディズニーランドで付いてすぐ景色も見ないうちに次の他の遊園地に行くようなものです。もうちょっと見たい時がある。
他に、内容がごちゃごちゃしだすと分かりずらく、一回落ち着いてみたい時もあります。ラピュタでもムスカの人達と空賊の人たちが両方パズー達を追うので一見分かりずらい。それを落ち着かせる時間は本当は必要でしたね。(ただラピュタはそれをすると時間が長くなりすぎるので、あれで正解な気もします)
または、特にミステリーなんかでは内容がごちゃつくし、そもそも分かりずらくする物なので、落ち着かせるシーンが必要ですね。そこで客が「あれが犯人だ」とか「これがトリックだ」と考えれる。その考える時間が面白いので、その時間を作ってやる必要がありますね。このシーンはつまらなく内容的にも必要が無いシーンにするべきです。意味があるシーンだと考えられないからです。つまりそんなつまらないシーンも必要な時もあると言う事です。
他には、都会から大自然に来た時とかに、その大自然を映したりする。単純に大自然も上手くとれば10分ぐらいは見てられるものですね。それで世界観も出るし、美しい映像も見れる。それに大自然を守ろうとする映画なら、大自然の良さをあらかじめ客に売っておく必要がありますね。
なので「ダレ場」は考えもなく描いてはいけない物ですね。じゃないと本当にいらないシーンになります。例えその後の盛り上がる前の落ち着かせであっても、つまらないのなら無い方がまだましになるからです。
逆に見てられる「ダレ場」を描ければ、効果が強い物になりそうです。
30ページ 押井さんは「駄作を回避するな」と言います。
ジャンル物は沢山見る事で共通性が見えてくる。駄作を見れば、何が足りないと駄作になるのかが分かりやすい、と言う事だと思います。
これは監督とか制作側に必要な方法論ですね。
31ページ 自分一人では本質を見極めれない。他人の経験も自分の経験にする。だから沢山見てパターンを見極める。
早くも大事な本質が出てきますね。映画もそうですが、なんでもそうです。自分一人で出来る事などたかが知れていると言う事です。
科学が分かりやすいですね。今の自動車や飛行機をゼロから作り出せる人はいない。誰かの作り出したものに、何かを足していくしかないのです。
映画もそうです。昔の人は馬鹿ではない。今の人が自分一人で生み出した事などは、昔の人はもうやっている可能性が高いのです。それを学んだ方が早いし、それでしか高いレベルには達する事は出来ない。大金持ちであっても、誰からも学ばす宇宙船を作れる人はいない筈です。宇宙に行きたかったら他人の努力も自分の物にするしかない。
32ページ しかし全ての経験が他人の物だとwikiになってしまう。自分の経験の裏付けがあって始めて自分の物として使う事が出来る、と言う事を言っています。
自分の経験がなければどこまで行ってもwikiです。他人の経験を自分の経験に置き換えられて始めて自分の物として自由自在に使えるのです。
ここも本質ですね。押井さんもwikiで例える人ですね。良く分かってる人だと思います。
細かい事を言えば、自分の経験からでは分からない事もあります。それはただ他人の経験をそのまま使うのみですが、それも部分的には良いでしょう。例えば猟奇殺人を犯す人の気持ちが分からないけど、猟奇殺人者が出て来るミステリーを書く場合です。それはステレオタイプになりつまらないですが、しょうがないです。なんでも経験できないので、出来る範囲内で結果を出すしかない。
ただ自分の経験に重ねて見れれば使い方に幅が出ます。それが大事だあり、だからこそ実際の人生の経験が大事だと言う事です。
37ページ アクションと暴力は別物
なるほど。言ってみればそうですね。アクションはアクションで良いでしょうけど、暴力は色んな意味が含まれていて、文学的にもなるし、人間の本質的にもなる、とても面白い映画の要素なのだと気が付きました。
押井さんは「銃が置いてあるだけでもいい」と言います。なるほどですね。ただ過激なものが好かれるという簡単な物では無いと言うのです。そこがどれだけ人の気持に訴えれるのかが大事だと言う事でしょう。
例えば机に座り男ががつがつ飯を食っている。その前に縮こまった女が座ってみているシーンがあったとします。これはただのシーンです。しかし男のすぐ前の机に刺さって立っている包丁があったそしたら? これが暴力シーンですね。何も暴力をしてないですが、明らかに暴力シーンです。そしてこれで物語も出て来るし、緊張も生まれ、忘れられないシーンになりそうです。これこそが暴力シーンだというのでしょう。なるほどね。
42ページ 映画は国境を越えない。
これもなるほどですね。国によって知ってる事や感性が違うのだから、国を超えた普遍的なものでは無いと言う事です。
押井さんはこの後に言いますが、だからこそ時代背景が必要だというのですね。バブルでうかれている物語をバブル後に見ても誰も乗れないのです。その時の人々の感性で、見てる映画の感想が変わってくると言う事です。だから物語を作る人は時代背景を知っている事が大事だと言う事です。
映画はまだヨーロッパやアメリア産が多いです。そうなるとキリスト教の影響が大きいですね。だから押井さんはキリスト教を勉強したそうです。確かにそうしないと欧米の映画を理解は出来ないので、映画の正体を探って生きている押井さんには必要なのでしょう。一般人でも知っていると欧米の映画をより理解出来る事でしょう。
43ページ 映画監督の無意識を言葉にするのが映画評論家だと言います。確かにここまで出来て始めて映画評論家として価値があるのかな? とは思います。
映画監督の意図を読み取れと言う事でしょう。しかも無意識の意図も読み取れというのです。なぜこのような映画をこのように撮ったのか? と言う事です。
ただ面白いつまらないでは評論家では無ないですね。これはハッキリした線引きは無いですが、感想を評論とは認めないと言う事だと思います。(ただ感想はそれで意味があるのだけど、価値が薄いのはいなめないとは思います)
67ページ オリジナリティなんて幻想でしかない。
世の中の制作物何て、出来た物を切ったり貼ったりして編集で勝負しているだけだ、と言います。ほぼそうでしょうね。
とても沢山の映画を見て来た押井さんが言う事に意味があります。沢山見ていると誰かが何処かでやっているのだと分かるのです。もう一度言いますが人は馬鹿では無い。良い物は誰かがやっていると思うべきです。
ただ押井さんも流石にそのままやるのは良くないとは言っています。元ネタを分かりずらくするのは必要です。分かりずらくするのは手が加わっているという事であり、パクリでは無いと言う事です。楽をしている訳では無いという事です。
68ページ 自分を引用する事が一番完璧になる。
自分の知っている範疇の事をするのが一番良く出来ると言う事ですね。
当たり前ですが、忘れがちです。成功者は成功すると勘違いをし、自分の範疇以外もやりだし、失敗しがちです。
チャレンジは良いですが、無謀はいけません。範疇以外をする事は難しい事なので、出来るか考えてやるべきでしょう。
78ページ 何もない人は社会性を求めテロを起こす。
人は大抵社会とのつながりを求める。自分は生きてるぞと叫びたい生き物です。そしてそれがテロにつながる事がある、と言う事だと思います。
テロも犯罪も、人と人がつながりコミュニケーションを取れれば少なく出来るという事でもあります。難しいですが、忘れがちな基本ですね。
物語で関係している事で言うと、こう言う社会的な問題は皆が気にしているという事であり、だからこそ物語には出てきやすいのですね。意外と作り物のフィクションも馬鹿には出来ないと言う事です。社会の気持ちが出てくるからです。
そしてたまにこのテロを起こす物語を作る人がいます。それは一見よくないですが、そんな映画を見る事で救われた人もいるだろうというのです。(見てスッキリして、自分は犯罪を犯さないですんだ人の事です)なるほどね。
ただ紙一重ですね。テロの背中を押すのと、誰かがフィクションでやってくれる事でスッキリするのとは。私は子供向けだったら良くないと思っています。特にアニメは誤魔化しが強くなるので良くはないですね。
逆に言うと大人向けはいいかもしれない、と思いました。もちろん大人も流される人もいるでしょうけど、大人は自分で何とかしろと言う事です。もちろんなんでも限界はあります。テロ推奨物語は大人向けでもダメでしょう。
84ページ 戦争映画は負け戦の方が緊張感があっていい。
これは細かな事だけど、一般的な物語にも応用が利きますね。単純に緊張感があった方が盛り上がるという事です。出来ない事、危ない事、分からない事、それらがある方が良いに決まってるわけです。
これは当たり前ですが、パート2とかパート3になると忘れがちですね。1の時点で解決してしまい、あまり緊張が無いまま2や3を作る時は結構良くありますからね。それは間違っているという事です。
戦争映画は的を絞るべき、とも書いてあります。
大きくなりすぎると、人が描けないですからね。戦争の歴史を教える映像ではなく、物語を見に来ているのですからね。
これも何を描きたいのか? 何を客が見たいのかが? を忘れがちだと言う事でもあります。例えば、真珠湾攻撃などでは戦争を俯瞰で表したくなりますが、それをずっと見たいのか? ほどほどにしとくべきでは無いのか? と考えろと言う事です。
87ページ 映画「ボディスナッチャー」は共産主義の恐怖を映画にしたのだそうです。
言われてみればそうですね。隣人が宇宙人に乗っ取られる事で、隣人が共産主義にいつの間にかなってる事の恐怖を表しているようです。
つまりその時のその時代の皆の不安事を形を変えて描くと、皆の興味を得られると言う事です。
皆の関心事に気を付けろという事です。ただそのままだと説教臭いので、SFにしたりするとなお見やすいのでしょう。
99ページ 冷蔵庫に銃
この映画では主人公の家の冷蔵庫に銃が入っているようです。今は良く見るシーンなので、たぶんこれが初めてなのでしょうか?
これも細かな事だけど、ちょっとした事でキャラや状況を説明が出来たり(用心しているし、いつも見る所にあり、敵には気付かれにくい所でもあるし、家でも危険かもしれない仕事だと言う事等)、雰囲気を演出できるというお手本ですね。
ちなみにこれを見てから押井さんはモデルガンを冷蔵庫に入れてるそうです。訳が分からない人ですね。ただ作り手としての効果は意外とあるかもね。冷蔵庫を開けるたびに、この映画を見た時の雰囲気が蘇る訳ですからね。
長くなったのでここでいったん切ります。
映画の大きな考えは、この前半に多く出てきます。それは本として始めにどうしても大事な事を言ってしまいがちなのと、大事な事は昔に学び、その後は細かな事を学んでいくのが人の流れなのでこうなるのでしょう。
私の様な趣味の人はともかく、作り手はこの内容をよく考えて読むと参考になると思います。映画を長年見て考えて来た人の集大成なわけですからね。