号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

勇者前田

映画「桐島、部活やめるってよ」感想です。二回目です。

 

前田は主人公では無い。では何か?

 

ネットで皆の感想を聞き、よく考えると面白い要素が色々あるので書こうと思います。

同じ事を言っても意味が無いので、他の人が書いている事は、面白い事でもなるべくはぶきます。会話がリアルだとか、学校の雑音もリアルだとかです。

これを書く為にも、前回このブログで「主人公」について書きました。前提の説明が必要かと思ったからです。

 

その他の前提条件として

この映画、原作者と監督が考えて出来ている所もあるでしょう。

しかし、思ってはいないが、そうなっている所もある。

でもそうなっていたら、作者が考えてなくてもそういう映画だと言う事です。

絵画を書いた画家が「これは喜びの絵だ」と言った所で、100人見て全ての人が「これは悲しみの絵だ」と言ったらそれは悲しみの絵なのです。作者の考えなど最終的には意味が無い。

 

菊池 宏樹(元野球部)

彼が主人公ですね。

彼は苦悩して、悩んで、迷って最後に答えを出します。ただ答えは私達には見せませんけどね。そこに良い悪いの可能性を残す。

その可能性を残す事により、客がそれぞれ考えるように出来ている。良く出来てますね。

答えを言ってしまうとそれが「良いか悪いか?」と考えてします。

しかし言わないからこそ、答えをまず考えて、それから「良いか悪いか?」も考えるので、少なくとも2倍は考える余地を残すと言う事です。

苦悩して物語の中で答えを出す人が、正式の主人公です。だから彼が主人公です。

では何の答えを、いつ出したのか?

それが最後の屋上でのシーンです。前田の話を聞いて涙する所ですね。

前田は映画監督になるのは無理だと言います。つまり何かになる為にやってるのではない。好きだからやってるのです。

宏樹は野球が上手いのです。しかしこの学校は負けてばかりです。たぶん宏樹は中学で一生懸命野球をやったはずです。じゃないと上手くはならない。しかし挫折した。野球の名門高校に行けるだけの実力は無かったのか、もしくは自分であきらめたのです。しかし高校でまた野球をしてしまう。しかし勝てない高校です。そこで頑張っても甲子園にも行けない。プロ野球選手にもなれない。なのになんでこんな頑張っているのか? 意味が無いのじゃないのか? と思い辞めてしまうのです。

しかし野球部キャプテンの言葉と、前田の言葉で気が付くのです。始めは何かになる為に野球を始めたのではない。もちろんプロにはなりたいし、勝ちたい。しかし元々はなんでやってたのか? 始めた頃、たぶん小学生、あの頃はただ好きだからやってたのでは無いのか? 

宏樹は野球が好きな事に気が付いたのです。プロになる為にではなく、甲子園に行くためでもなく、始めはただ好きだから野球をしてた事を思い出したのです。だから泣くのです。

 

沢島 亜矢(ブラスバンド部部長)

ネットの感想を見ると「うざい」と言う人が結構いましたね。でもね。

宮部 実果(バトミントン部)

一般的に彼女の方が印象が良いみたいですね。弱そうなバレー部の元補欠の肩を持ったりするからですね。

でも沢島と宮部、どっちがうざい大人になると思いますか?

沢島は最後自分で「こんな事をしててはいけない」と気が付きます。自分がおかしいのだと気が付き、自分でけりを付けるのです。

その為にも宏樹が彼女と待ち合わせをしていた所に行く。そこで現実を見て気持ちにけりを付けたのです。宏樹は自分にとってただの幻でしかないのだと。

逆に宮部は最後「自分が正しい」と言う答えを出す人です。元補欠のバレー部の彼に「行かなくていいよ!」とか言ってましたが、バレー部の彼は行ってしまいます。大きなお世話なのです。

この子はバレー部の彼の考えや気持ちを考えてはいない。ただ自分でそうだろうと思い込んでいるだけです。

そして最後嫌な宏樹の彼女に手を出しそうだったが、友達が先に手を出したので彼女は何もしませんでした。しかし結局「自分が正しい」と言う答えを出したのが彼女です。

「自分が間違っていると気が付く沢島」と「自分が正しいと思う宮部」どっちが今後うざい人になると思いますか?

ただ、原作者だと思いますが、実は優しさがありますね。

宮部は良く出来た姉妹が事故で死んでしまっている。だからまあ、尖った思いが積もるのもしょうがないと思わせる物語なのです。そして沢島も後輩に「部長はもてますよ」と言われ、そんなに可哀そうでもないよと言っているのです。

 

東原 かすみ(バトミントン部)

ヒロイン的に見える人物ですね。

個人的には、この子が一番面白い。たぶん元になる人物がいたと思います。一人ではなく数人を集めたのかもしれませんけどね。だから人物像が良く出来てます。

他のキャラには役割があります。だからそれにより性格が決まってきます。宏樹の彼女は嫌な奴にならなければならず、だから誰が演じてもあんな感じでしょう。他の女のキャラもそうです。誰が演じても同じような感じにしかならない。

しかしこの子は違います。この子は少し優しさを前田に見せればよく、それだけです。リアルさを出すためにも聖女になる必要もない。制約が少ないのです。

だからこそリアルさがあるのでしょう。役柄から決まった性格を出す必要がないので、リアルな誰かにしてよかったのだと思います。

この子の性格は何か?

この子は計算高い女です。でも悪い子ではありません。そこが救いです。

いっつも頭で計算をしている女です。それで損得を考え周りに合わせているのです。

だから前田と距離を置くし、美人グループでも空気を読む行動をする。

宏樹の彼女はぶりっこしますよね。あれは自分では上手く装っているのだと思っているでしょうけど、上手くないのです。実は上手く装っているのが、かすみです。この子の方が策士です。

こういう計算高い女が付き合うのはどんな相手か? 計算高くない奴です。正直な一見馬鹿っぽく見える奴です。それがあのパーマ男です。良く出来てますね。

悪く言えば、自分の手の上で転がせる様な男を選ぶと言う事です。良く言えば、安心するのです。計算してない男だと、自分はその時は安心していられます。計算する男だと、いつまでも安らげないのです。

これは男でもそうです。計算高い男と計算高い女だったら、どっちもいつまでも落ち着けない。だから違うタイプの方が上手く行きますね。

かすみはなんとなくパーマ男と付き合ってるのだろうけど、実はあっているのです。この中で一番計算高くない奴で、しかもいけてるグループ内の男です。

でもかすみは悪い子ではありません。でもいい子でもありません。普通の子です。そこに弱さも強さもある普通の子です。だからこそ良く出来た映画ですね。聖女では無いのです。

かすみはパーマ男と付き合ってる事を隠しますね。「やりそう」って思ってしまいました。計算してるのです。しかしです。これを逆に男がすると怒るタイプです。「なんで付き合ってる事を隠すのよ」と怒るタイプですね。こういう子はいつか「策士策に溺れる」事になりがちですね。気を付けましょうね。

 

桐島

彼は象徴ですね。だから出てこないのでしょうけど、出ない事で象徴だと分かるし、彼以外の人の話だとも分かるので、出ないで正解です。

彼は「当たり前にある筈の、自分の為にある理想」の象徴です。

それは幻と言う事です。そしてその幻にすがっている人達だと言う事です。

桐島と言う幻が、学校と言う幻に重なりますね。

学校を「当たり前に自分の為にある筈の物」と思っている人達が困惑する物語ですからね。

でもそれでも彼はどんな人でどうなるのだろう? と思う人もいますよね?

なら宏樹を見ましょう。原作は分かりませんけど、映画は宏樹がほぼ桐島ですものね。

そもそも似すぎてます。ドラマ「あぶないデカ」でもする訳ではないのだから、優れた人を二人も出したりはしません。キャラがかぶってます。ならわざとです。

桐島の今後が宏樹です。それで成り立つ物語です。

 

前田 涼也(映画部)

彼は主人公ではありません。

では何者なのか? 彼はヒーロー枠です。

始めから最後まで変わらない存在であり、始めから最強の力を持っている人物です。ウルトラマンです。スーパーマンです。

彼は力もなく彼女もいない。これは彼は何もないと印象付ける為ですね。しかし唯一持っているもがある。それが一番価値があるのだと言う物語です。

それは好きな事ですね。好きな事をやっているだけで成功者ですからね。

お金も地位も、結局は好きな事が出来る可能性が増える為に必要なものです。好きな事が出来た時点で既にゴールにいるのです。彼はすでに持っている人なのです。

逆が宏樹ですね。何でも持っていそうなのに、持っていない唯一の事、それが好きな事です。それが無いのなら他の全ては意味が無いのです。それを伝える物語ですね。

ちなみに、この話は学校カーストの底辺の物語では無いですね。前田は底辺ではない。

彼は持っている人です。ヒーローです。しかも映画部で監督もしているし、友達も仲間も好きな事もある。成功者ですね。

それに先生にも口答えをするし、バレー部にも「謝れ」と言える。ヒーローです。底辺ではない。

ブラスバンド部の彼女も部長です。バトミントン部の二人も美人グループの一員です。元補欠バレー部の彼も、六人しか出れないバレーに出れるのだから、別に底辺では無い。この話は底辺はいないのです。

これは原作者か監督か? または両方の影響ですね。学校カーストの上位にいたのか? その周りで見れていた人なのでしょう。だから学校カーストの上位を描くのが上手いのです。

私から見れば、この話は「ベルばら」です。持っている人達の話なのです。選ばれた地位にいる人達のお話なのです。

ではそれでおかしいのか? ですが、これはしょうがないですね。

戦国時代を描くのなら、武将を軸に描くしかない。武将は良い家にたまたま生まれた人達です。でも農民を軸に描いても物語にはならない。だからしょうがないですね。

実際のリアルな世界でもです。やはりある程度の力、やる気、勇気が無いと何もできない。何も出来ないと物語にはならないのです。

家と学校を行き来してるだけで、家でゲームを一人でしている人がカーストの最下層にいたとしても、彼を物語の主人公には出来ない。何も起きないからです。

だからこそ前田がいるのです。彼はヒーローなのです。

最下層に物語が無いと言っても、宏樹にはなれない。でも前田にはなれるかもしれないじゃないですか。

だから、最下層の人であっても、前田こそが目指すべき人なのです。しかも前田は宏樹さえも持ってないものを持っていた人です。それになれる可能性があるかもしれないと言う物語なのです。

それこそカースト上位から最下層まで、勇者前田にはなれるかもしれないと言う物語なのです。希望の物語なのです。

 

キャプテン(野球部)

彼はサイコパスですね。でもいい方のサイコパスです。自分の中で完結している、わきまえている人だからです。

彼は何なのか?

彼は賢者枠ですよ。主人公に進むべきヒントを授ける役です。

 

あらためてこの映画の事を考えると、やはり人の物語だと言う事ですね。

でも大人が今更学生を思い出しどうなるのか? 懐かしむだけなのか?

やはり大人は今の学生の事を考えてやるべ気だと思います。

前田は勇者です。でも彼の好きな映画を作ったのも、映画を作るチャンスを与えているのも大人です。勇者は大人が作り上げるのです。

自分は勇者になれなかったとしても、次の世代に勇者が生まれれば素晴らしい事ではないでしょうか?

素晴らしい事だと思える大人になりたいものですね。