「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」
良いフレーズですね。
山田玲司さんが言うには、昔は何者かになれと皆言っていたが、「何者にもなれなくていいじゃん」と言う意味がある。だそうで、確かにその通りですね。そう聞こえてくるといい言葉に聞こえてきます。ののしり言葉なのにね。
しかも多数の意味がある面白い言葉ですね(イクニさんらしいんでしょうかね)。
物語の初めの頃に感じた「何者にもなれない」は、つまりイメージとしては黒だと言っているとしましょうか。そこに「きっと」があるので、もしかしたら白かもしれないと言っているとしましょう。
それが話の途中まで来ると違うように聞こえてくる。周りの景色が変わると同じ事を言っているのに反対に聞こえてくる。
「何者か」は別にいい人ばかりでは無いですものね。ヒトラーだって何者かにはなれた。眞悧も自分で何者かになれたと言っています。
なので「何者にもなれない」は、お前たちは悪い人にもなれないような奴らだ。親の様にはならない。と言っている様にも聞こえてくる。色で表すと白だと言っている様に聞こえてくる。しかしそこにも「きっと」が残る。黒になる可能性もあるぞと言うのです。
まるっきり同じ言葉なのに反対に聞こえるが、白黒が反転して黒白になっても結局白と黒であり、やっぱり同じに聞こえる。そこからイメージできるのは背中合わせ、コロッと簡単に変わる、どちらにも見える、どちらの要素も一緒の所にある、と言う様な事でしょうか。面白いですね。
面白い言葉なのに物語の途中で消えていきます。言わなくなってくる。
物語全体の中盤で晶馬が「親が犯罪者だと分かり、きっと何者にもなれないと言う事だけははっきりしてた」と言っているので、ここに繋がる謎かけだったのかと思ってました。残念だなと思ってました。
イクニさんを侮ってはいけませんね。途中下車はしません。終点まで走り続けます。確かにしびれますね。
最後に子供になった冠葉と晶馬が出てきます。私は生きてると思いましたが、皆死んだと思うそうですね(この話も長くなるので今回は割愛します)。
生きてるとしましょう。
生きてるとしたらなぜ顔が無いのでしょうか?
それは取るに足らない人になったからです。
晶馬の友達の様に私達が見るに値しない、覚えるに値しない存在になったからです。
たぶん、つまらないなんて事の無い普通の人生を送る事でしょう。
しかしこの物語を最後まで見た人なら、私と同じ気持ちが生まれるんじゃないでしょうか?
この呪われた物語の主人公でなくなり、
何者でも無くなってしまった冠葉、晶馬、おめでとう……と。
ところ変わって
3話で陽毬は牛の着ぐるみ着て牛乳飲んでましたね。陽毬は牛乳が嫌いだと言って。
これは昔、猫に牛乳をあげたけど捨てられてしまった、殺されてしまった、事のトラウマじゃないかと何処かのサイトで言ってました。
そうだとしたら、20話の陽毬の意味深な言葉にも、意味があるんじゃないかと思った次第です。
「可愛いは消費されてしまう」と「選ばれる人と選ばれない人がいる」の事です。
そうです。だから陽毬はアイドルになりたかったのです。捨てられない為に。
9話「氷の世界」に好きなシーンがあります。眞悧に質問されながらも絵はずっとダブルHの出てくるテレビを見ている陽毬のシーンです。このシーン好きなんですが何を表しているのか分からなかったんですよね。陽毬の気持ちが分からない。
もちろんアニメですから全てのシーンのキャラの感情が上手く表現されているとみる方が酷ですね。しかしイクニさんをみくびるな、ですね。
陽毬はダブルHを「恨んでなんかいない」と言います。そうかもしれないけど強がりなんじゃないのかな? と思ってました。しかし強がりが感じられない。
その後「わからない」と何度も言います。
そう分からなかったのです。「なんであんなになりたかったアイドルに今は未練もないのだろう?」と。分からないと思いながら「なんでだろう?」とテレビを見ているシーンなのです。良く出来てますね。
それは捨てる筈の義理の親ももういないからです。生きていても二度と帰ってこないと思っているでしょう。自分も病気で死にかけたりして[生きる=アイドルでいつまでも可愛くある]が、心の中で成立しなくなっていた自分が良く分からなかったのです。
もう一度言います。大変良く出来たシーンじゃないですか?
そして最終話まで電車は走ります。
この回の最後、呪われた立場から解放された筈なのに、トリプルHじゃないですよね。
陽毬はダブルHのファンでしかない。不思議でしたよね。しっくりこなかった筈です。
しかしです。なる必要が無かったのです。可愛くなければ捨てられる。選ばれないと生きてはいけない。と思わないで生きていけるようになったからです。
何者かである必要がなくなった陽毬、おめでとう。そしてお幸せに……。