号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

6 量子論

皆大好き シュレーディンガーの猫 の話が出てきますね。

しかし、マルクス主義を叫ぶ学生運動の如く、良く分かって無いんじゃないのかな? と言うものが多い気がします。

残念ながら私も良く分かっている、と胸を張って言えない所が同じ穴のムジナなのかもしれませんけど。それでももっと分かって無い人の為に、少し話そうかなと思います。

物質は誰かが観測している時に存在する(もしくは存在が確定する)。観測してない時は存在しない(もしくは観測している時と同じ状態では存在しない)。と言う所でしょうか? まあ与太話だと思いますが面白いのでよく使われます(もちろん絶対ではない、仮想空間やそれに近い世界なのだとしたら、あるかも知れない)。

シュレーディンガーはそれを思考実験として猫の生死で示しました。「つまり死んだ状態と生きた状態の重なり合った猫が、人が観測する前なら存在すると言いたいのだろう?」と。

ただシュレーディンガーは「そんな分けあるかい!」と言いたかったので、これを物語で使うなら普通は否定的な意味で使うべきであるのに、肯定的に使っている人が多いですね。

ピンドラの物語では、前は多くの子供達の中の一人だったのに犯罪者の子と注目されてしまうと、そこに名と顔のある特殊な個人の存在にされてしまう(そして消しゴムを投げられる)。

その後は逆に普通に生活してるのに(しかも目立つカラフルな家に)世間が見ようとせず、いないものとされてしまう。

と言う事を言いたいのだろうけど、そこには「そんな分けあるかい!」と言う気持ちがある物語です。

つまり「特別と注目されるのも、いるのに無視されるのも間違っている」と言うように否定的に使われてました。

なのでピンドラは使い方があってるな、珍しいな、と思いました。

 

イクニさんは、ピクトグラムとかメタファーとかが好きに見えますね。

と言うより正確には、複数の意味を持つものが好きですね。

ピクトグラムやメタファーや文字や人の心やキャラクターや物語自体。とにかく複数の意味を持つものを沢山詰め込んでます。

なので分かりにくい。複数の意味を持つものが複数あればそれだけ爆発的に複雑になります。

例えば、二個の意味を持つもの二つで答えが出るとしたら四種類の意味があり、その中の一個が答えならいいが、その四種類すべてが答えなら、なお更分からなくなる(流石にピンドラはそこまでは複雑ではないけど)。

これがミステリーの謎解きに使われたら、確かに分かりずらく、複雑で面白くなるだろうなとは思ってました(ピンドラはミステリーが主ではないだろうけど含まれてはいるし、謎解きの挑戦はしていますね)。

 

学校の勉強の教え方の弊害だろうけど、一つの答えがあると小さい時から教え込むからそれが染み込み、一つの答えを探してしまうので、分からない人が多いのだと思います。

人の心も物事も、一つだけではなく複雑なものの集まりなのだから、本当の物事を見るには複雑なものを最小単位と考えて計算していかないと、何も真実は見えてこない。

面白いのは量子論ですね。いくつもの状態があるものを最小単位で計算するのだから、同じですね。

計算と物事を見る事が近づいています。だからこそ学校教育は今のうちに考え直さないと、新しい計算も物事も、両方とも見る事が出来ない国が、いつまでたっても治らないですね。

 

複数の意味を持つものでたまに見かけるのは、どっちにもとれる物語ですね。ハッピーエンドなのかバットエンドなのか? 成功か失敗か? 死んだのか生きてるのか? 等、特にエンディングでやります。

これが面白いのは客は好きな方を勝手にとる事です。なので不満が少なくなる。

これを突き詰めていくとシャアの物語になります。こんな事が昔あったと大体しか言わない。そうすると勝手にみんな好きなように物語を脳内で作るのですね。だからシャアは人気ありましたね(オリジンで昔のシャアやってしまいました。見たかったですけど、やはりつまらなくはなりましたよね?)

複数の意味が大好きなピンドラももちろんやっています。

最後、冠葉と晶馬、生きての死んでるの? 問題です。

もう答えを先に言っているようなものですけど、これはどっちでも取れるようにしたのでしょう。それぞれの価値観でとってくださいと。

量子論です。運命です。決まってはいない。もしかしたら決まっているのかもしれないけど、それは誰にも分らないと言う事ですね。

 

しかしです。しかしですよ。ピンドラ考察サイトを見ると皆は死んだと思うらしいけど、イクニさんは生きてる方に重心を置いてはいないだろうか? と思うのです。

まず第一に二人は家の前を通り過ぎます。ただ通り過ぎます。基本死んだ人の演出は家の中を見ます。見ないなら何しに来たのか? 「二人が家の中を見る。陽毬、苹果が何かを感じ外を見る。しかしもう二人はいない。二人は歩いて去っていく」なら死んでいます。

第二に第1話に二人の子供が出てきます。その代わりに冠葉と晶馬が最終回出てきます。死んだのならこの演出が分からない。実際にいて生きてた子供の代わりを、冠葉と晶馬がする意味が無い。

第三にカンパネルラが死んだ話を、カンパネルラとジョバンニが死んだ話にする。意味が分からない。ふえてるやないかい。

なので生きてると思いますが、輪廻転生があるのならこの議論自体意味が無いと思いませんでした? その通りです。しかしです。イクニさんは輪廻転生を信じているのでしょうか?

物語の中で、死んだら終わりだと言う子供に対し、もう一人の子供が言います「むしろそこから始まると賢治は言いたいんだ」と。まるで肯定してるように聞こえますが、私には「賢治は言いたいんだ。俺じゃないよ」とイクニさんが言っている様に聞こえてなりません(幻聴かもしれませんけど)。

幽霊が出てくる物語や、ゾンビが出てくる物語を作る人が、必ずしも幽霊やゾンビを信じてはいない様に、輪廻転生を取り入れておいて信じていない事もある。信じてないばかりか否定している事すらある。と思うのです。

 

まあしかし、どうであれ。誰がどう思おうが(創造神イクニさんも含め)結局は見た人が答えを出す、それが全てですね。沢山ある答え、思い、考え、可能性、未来、その事自体が答えでありエンディングと言う意味なのかもしれません。

 

でもこれで終わりじゃつまらないので、可能性の一つの中にあるかも知れないイクニ少年の話をして終わりにします(幾原さんじゃないですよ。あくまで確率の世界の中に存在するイクニ少年です)。

 

イクニ少年は『銀河鉄道の夜』を読みます。カンパネルラが死にます。何度読んでももれなく死にます。気に入りません。

「鉄道に乗ってて死ぬなら降りればいいじゃん」と言います。

「降りれないんだよ」友達が言います。

「じゃあ乗り換えれば?」

「だから降りれないんだよ」

「じゃあ線路の分岐点を変えて、列車ごとどこか他の線路に入れば?」

「他の線路なんか無いんだよ」

しかし何を言おうが、どう思おうが必ずカンパネルラは死にます。何度読んでも死にます。それが運命だからです。本が作られた時から初めから決まっていて、必ず起こる運命なのです。変える事など出来ないのです。

月日が経ち、ふと思います。「線路が無ければ作ればいい」と。

力なき子供の頃は出来なかったが、今なら線路が作れます。

線路を作り列車を走らせます。カンパネルラとジョバンニも乗せて。

線路の先に分岐点を作り進路を変えます。

死の列車は進路を変え、列車は走り去っていきます……未来へ。

そう、運命を変えたのです。絶対に変わるはずの無い未来を変えたのです。

 

あまたの確率の中にイクニ少年はいたのでしょうか? それともこれはシュレーディンガーの猫なのでしょうか? それこそ神のみぞ知る、と言う事なのでしょう。