号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

3 回る生存戦略周り

生存戦略の中心は説明したつもりですが、まだまだその周りに付随する細かな言いたい事が、大小の衛星のようにぐるぐる回っているのでそれらを説明したいと思います。

とにかく隠された意味が多すぎますね。ピンドラ。

 

前も言ったように、なぜ大事な言葉 生存戦略 を皆無視するのか?

それはこの言葉が大外に位置しているのに、言葉が物語の中にある為、皆この言葉の意味を物語の中で探してしまう為だと思われます。

中を探しても決して見付かりません。なぜならピンドラの物語をすっぽりおおっている為です。

しかもピンドラ自体がこの言葉が無くても成り立つように独立して完成している為、無視してしまいたくもなります。

そして物語をすっぽりおおっていて空気のように何処にでもある為、突拍子もなく急に出てきます。だから尚更困惑します。

突拍子もなく出てくるのに、物語の演出としてはおかしくない様な所に置いとくので、あまり不自然にならないのも良く出来てます。

山田玲司さんが、昔あった演出で「人が急に起きて意味の無い事を言うのがあった」と言っていて、なるほど、私も子供の頃の記憶に薄っすらですがそんな演出があったのを覚えています。

何処にでもあるものを、そうであると分からなく出す為に、昔の急に意味の無い事を言う演出で表し、物語上おかしくないように見せる。もしこれがミステリーの様にわざと隠しているのだとしたら完璧ではないか! と思ってしまいました。でもわざとそこまでして隠すものですかね? ミステリーですね。

 

あと私が 生存戦略 という言葉が メインテーマ なのか? と思った意味ですが、何度も言うようにこの言葉 生存戦略 が無くても成立し完結している物語なので、もっと他の意味に思えたわけです。

この物語は、輪るピングドラム(相互愛や助け合い)をメインテーマとして作られた物と見てもいいように出来ています。その後評論家が物語全体を見て導き出す言葉が 生存戦略 であった方が自然に思えます。つまり物語の後に出てくる言葉です。

もちろん物語の中には、その物語を総括して導き出された言葉を、最後に自分で言ってしまうものもあります。しかしそう言う物語はちゃんと物語の中で言ってますものね。ピンドラは説明しない。導き出される最後の言葉を暗号の様に置いておく。

つまり見方によっては生存戦略は「隠されたメインテーマ」と見る事も出来、もしくはメインテーマは他にあり完結していて、その後の「総括して出てきた答え」をも自分で劇中で言ってしまう。と見ても成り立ちます。

まあ「どっちでもいい」と思う方が多いと思いますが、この物語の作りが完結してる二重の深さのある物語になっていて、初め思った物語の意味に加え、更に奥に深い意味がある作りがとても面白いな、と思った次第です。

 

あと、細かな事で言うと

高倉剣山(お父さん)がテロを起こす時に「これが我々の生存戦略なのだ!」と言っています。これは分かりやすい間違った使い方の例ですね。

例えば、愛がテーマの物語があったとして、その中でストーカー男が包丁で女を刺し「これが本当の愛だ!」と言ったとします。ほとんどの人がこれは間違った愛の使い方と思うでしょ?

剣山もテロの時に 生存戦略 を叫んでいるので同じです。間違った 生存戦略 の例です。

 

最終話で駅の看板を模したやつで 95番目の駅[運命の至る場所] とあります。あれは95年の地下鉄サリン事件の事ですね(物語上はそれを模した事件ですけどね)。

まず初めに、運命の至る場所 も惑わされている人がいるので説明します。

 学校の勉強の弊害ですかね。言葉に一つの答えがあると思っている人が思ったより多いですね。

運命の至る場所 は何かを指しているのでは無く、言葉の意味そのままです。

至る場所は行き着く所で、何の行き着く場所かでその場所は変わります。人生とか仕事とか旅行とかで変わり、どこかを指してはいません。

運命もそうで何の運命かで何を指しているのかが変わります。事故にあっての事か宝くじに当たった事か結婚した事かで変わり、何かを指していません。

なので 運命の至る場所 も時と場合で変わります(イクニさんはこの一つのものが複数のものを指すと言う事がテーマの様にさえ思えますね。あっちこっちに出てきます)。

最終話ではテロ事件の事をさしてます(ただこれも95年の昔の事件と冠葉のやろうとしてる新たな事件の両方を重ねていて、複雑で確かに分かりずらい)。

そこで、95番目の駅[運命の至る場所] の前の駅、94番目の駅が[生存戦略]とあります。

これは94年の事ではなく94番目の駅の事でもなく、95年の事件の前にちゃんと生存戦略に沿った行動をしたか? と言う意味です。

この事件が起きた時は「皆が生存戦略に沿った行動が出来てなかった」ばかりか剣山達は「間違った生存戦略をおこなった」、その結果95年のテロが起こった。

言い方を変えると、失敗し間違った行動から導かれた運命の至った場所がテロだ。と言う事です。

逆に、もし正しい生存戦略が行われていたのなら、運命の至った場所が変わっていたのではないのか? テロも無かったのではないのか? と言う事でもあります。

だからこそ 運命の至る場所 は何か決まった場所を指してはいないのですよ。

 

太陽の周りを地球が回り、地球の周りを月が回るように、じゃあ月の説明(生存戦略の説明から出てきたもの、から出たものの説明)をします。

だから含まれた言いたい事が多すぎだって、ピンドラ。

 

実際にあったサリン事件を題材にしておきながら、内容を変えています。

実行犯の剣山がいい人だったりして、初め違和感を覚えませんでした?

一つは流石に被害者の関係の人もまだ生存している事件なので、その人達の感情を考慮したのと、訴えられたりしない様にとの大人の事情もあるのでしょう。

しかし出来なかっただけでなく、わざとやらなかったのだとしても、私はこのやり方であってると思います(どこまでが計算かは分かりませんけど)。

つまりこの事件そのものでは無く、このような事件全てを含めたものを 生存戦略 で事前に無くしていこう、減らしていこう、と言う事なので物語としてはあっている。

もし、この事件そのものに実際に向き合いたいのなら、私はフィクションでやるべきではなく、ノンフィクションで誤魔化さず向き合うべきだと思います。

人に何かを伝える言葉を表すのには適材適所があります。

漫画、アニメ、実写のドラマ、ノンフィクションのドラマ、ノンフィクションの本、ドキュメント、演説、解説、音楽、紙芝居。それら全てに特異不得意があり使い分けるべきです。ピンドラはちゃんと使い分けができています。

では実際の事件の内容を変えるのなら意味が無いのではないのか? と思う人もいるかと思います。

想像してください。シャーロックホームズに出てくる殺人事件を、名探偵コナンに出てくる殺人事件を。これと実際にニュースで出てくる殺人事件を同じように感じれるでしょうか? たぶん同じには感じれない。アニメだが実際の事として真剣に考えてもらいたとするならば、この方法しかなかったと思います。実際の事件を想像させないと、生き死にが感じれなかった筈なのです。

実際の事件を題材にしながら、内容を変える。一見ぶれているように感じるでしょうけど、実はとても考えられていてバランスよく物語に使われています(イクニさんはとてもバランス感覚がいいですね。それは物事を良く分かってないと出来ない事だと思います)。

 

さっき言ったように、剣山が良い人だと描かれています(良い所もあると言う意味でしょうけど)。

それにイクニさん(幾原さん)のコメントだと、どうも犯罪者側に寄り添っているように感じる時があり、初め違和感がありました。

出所する犯罪者は町で生きていくのだから無視してはいけませんけど、取り返しのつかない犯罪をした者にはどうしても寄り添えません(これこそただの個人的な意見にすぎませんが)。

ただよく見ると、この物語ではちょっと違うようです。

犯罪者も犯罪を犯す前は普通の人です。殺人を犯す一分前でも普通の人です。

もちろん流石に殺人をする一分前の人は、その一分後の人と中身はほぼ同じでしょう。

でも一年前は? 十年前は? 子供の頃は? どこかに普通の人として仲良くなれた時が無かったでしょうか?

犯罪者もどこかでまともだった頃が(たぶん小さな子供の頃)あった筈です。

それを示す為に、冠葉が犯罪者になっていく物語なのです。しかも大人に騙されて。

良い人に出会った人は救われ、悪い人に流され騙された人は犯罪者になる。

でも前は普通の人ではなかったのか? 冠葉も剣山も。

生存戦略は前もってする事です。それが結果として現れる。運命の至る場所で現れる。

メガネ先生とファビュラスマックスが子供の時に救われる事からも、まだおかしくない子供の時に仲良くなっていれば、その人も、その人が犯す事件の被害者も救えるのではないのか? それが 生存戦略 だ。と言っているように感じられる物語でした。