鬼太郎は、なぜ左目がないのか?
アニメ映画「ゲゲゲの謎」感想などです。
この映画を見て思ったのは「鬼太郎は、やはり水木しげるなのだな」という事です。
水木さん(本名 武良 茂)は戦争で左手を失っていますね。だから「鬼太郎も左目がないのか」と今更ながら気がついたのが、この映画でした。
面白いのは、墓場で鬼太郎を見付ける人間もまた「水木」と言う役名だと言うことです。つまりこいつもまた、水木しげる本人です。
ゲゲゲの鬼太郎とは、水木しげるが、水木しげるに出会う物語だったのです。
その前に、まずはこの映画の事を軽く書きます。
この映画はゲゲゲの鬼太郎の、親の話です。
よく出来てます。
まず第一に、鬼太郎の親の話をしようとして「横溝正史」を持ってきたことが、正解です。ほぼこれが正解の理由でしょう。
なんでも正解と言うのがあるのです。バットマンのダークナイト、ゴジラのゴジラ−1.0などの事です(もちろん唯一の正解かは分からないが、一つの正解というのがある)。
この描く方向性の正解に気がついたのが、全ての正解の元だったのです。
横溝正史に佐田啓二(主人公の声優にこうしてほしいと言ったようです)に小津安二郎(これも声優に参考に見せたようです)。この雰囲気で行こうと、方向性を分かっていたのが、良かったですね。
一貫性があり、今は失われた雰囲気があるからです。
だから今見ると、若者には新しいのでしょう。
話もちゃんと水木しげるをリスペクトしていて、最後に鬼太郎誕生の「墓場鬼太郎」からの「ゲゲゲの鬼太郎」につながる所がいいですね。
ちょっと内容の細かなことも書いておきます。それに気に入らない所も書きます。
最初に現代の記者が出てきます。あれはいらないね。
その時鬼太郎も出てくる。これはしょうがない。
でも猫娘はいらない。最近の猫娘で美少女猫娘でしたね。だからいらないって。
もちろん、上からの命令だったのかも知れないけど(ウケを狙うため)、残念ですね。
ただ、鬼太郎が無言で歩いていくのを後ろから撮っていけば良かったと思います。
その時に周りを映し「あの滅んだ村の名残が見える」でいいじゃないですか?
あと気がついのが、キャラがアニメ調なのもどうかな? せっかくなので、もっと現実の人間に近づけても良かったと思います(別に劇画調にしろというわけではないのだけど)。
特に沙代(ヒロインっぽい子)ですね。なんであんなアニメ調でお目々パッチリにしたのかな?
老害問題や親問題も気になる。
親や上の世代(軍人)が、ただの悪者としか描けてない。
もちろん、物語上の敵として描くために、わざと分かりやすく悪く描いているのだろうけど、ちょっと雑だった気がする。
水木しげるは戦争で傷つくが、戦争に行った世代で、言ってみれば小津安二郎など近い世代です。
彼らはその後の団塊の世代とは違う。団塊の世代は戦争に行ってないし見てもいない。だから綺麗事を並べるし、戦争の世代を悪く言うだけです。
同じ世代に生きたものは、もちろん彼らの上の世代の悪い要素も見ていたが、一緒にも生きていて、同じ人とも見れたのです。
だから上の世代に人間を感じている。もちろん自分の親もそうだし、まともないい先輩もいたことでしょう。
だからただ悪いと描かない。良い悪いあるのが上の世代だし、そもそも全ての人である、と言う描き方をする。
水木も小津も、上の世代を単純に悪だとしか描かないわけではいと、私は思っています。
そして多面性を描けているから人間っぽく描けるんだよ。
そこが分かってないのがゲゲゲの謎でした。これが一番気に入らなかったですね。
ただ物語としたら、老害を描くのは意味は分かります。
それは水木が戦争で上官にひどい目にあってたようなのと、そもそも戦争に行かされて死にかけた事も含めて、上の世代からひどい目にあってたからです。
それを描くために、老害問題を描いたのでしょう。
つまり、ゲゲゲの鬼太郎を通じて、作者「水木しげる」自身を描こうとしたのだと、思うのです。
これは他の親子問題で解決します。
最後エンドロールでだが、水木が鬼太郎を墓場で見付ける。そして殺そうかと思うがやめて抱きしめます。
「水木という人間に救われたために、人間の味方になる鬼太郎」という話につながるのです。
でも元々の漫画(墓場鬼太郎)では「水木が鬼太郎を怖がり突き飛ばす。それで墓場にぶつかり左目を失う」という話です。
その後、墓場鬼太郎の鬼太郎は、別に正義の味方でもなく、ただの不気味な少年です。
それがその後少年誌で作り直した漫画「ゲゲゲの鬼太郎」では、水木が目を潰したのではなく、元々片目が無かった事になっています。
つまり、この映画は墓場鬼太郎からゲゲゲの鬼太郎への変化、つまり水木と鬼太郎という「義理の親子の和解を表している」とも見えるのです。
最後が「親子の和解」であるのだから、その前の本編では「親世代との確執」を描く必要があり、だからあの様な内容になったのでしょう。
「水木と鬼太郎との和解」とは「人間と妖怪の和解」とも見えます。
これは、鬼太郎を抱く水木を見ていた、目玉おやじも関係します。
映画では目玉おやじと水木が仲良くなる話です。これもまた、人間と妖怪の和解でもあるのです。
目玉おやじもまた、人間に嫌気をさしていただろうが、水木という人間に会ったおかげで「この後を見てみたくなった」言っています。
目玉おやじもまた、水木を通して、人間に希望を持ち、だから人間を助けるようになる。
では妖怪とは何か?
妖怪とは「不思議な存在」です。ただそれだけです。
過去にあった、謎の事件、謎の病気などで顔などが崩れた人、謎の生き物、謎の生き物に見えただけの木の枝、などを妖怪としてみていただけでしょう。
つまり、良くわからない「謎のもの」が妖怪だったはずです。
そこには悪でも善でもなく、ただの謎の、だからこそ「不気味な存在の象徴」が妖怪なのです。
始めに言ったように、水木しげるは、鬼太郎に自分を重ねていたと思うのです(始めからではなく、段々とだとうけど)。
漫画では「鬼太郎は最後南方に言って平和に暮らす」という話もあるようです。
水木が戦争で南方に言って、最後気に入って「ここに残ろうか?」とも思ったようです。もちろん結局日本に帰って来るのですが。
つまり鬼太郎とは「左側を失って妖怪になって、南方で平和に暮らしている、架空の水木自身の暗喩」でもあるのです。
この子供の鬼太郎が、義理の親の人間に墓場で救われるのが、鬼太郎の始まりです。
つまり傷ついて妖怪に生まれ変わった水木自身が、義理の人間の親、つまり(自分とは違う普通に生きて行けているサラリーマンの)親世代との和解になっていたのが、映画のラストだったのです。
面白いのは、その人間の義理の親の名が「水木」だという所です。
これは「もう一人の水木自信」です。
戦争に行かず、片手も失わず、だから普通にサラリーマンになっている水木です。たぶんちょっとした運命で自分も他人と同じになっていたと(深層心理で)思っていたのでしょう。
だから、親世代や、ただの金儲けのサラリーマンも、自分と何が違うというのだろう? と言う感覚があったのだと思うのです。
つまり、それらの嫌な感じがする親たちも、自分と同じ人間だと言う感覚があったのだとは、さっき言ったとおりです。
それに加え、今や普通に生きるために金稼ぎをしている自分も、それらサラリーマンと同じだと言う感覚もあったのかな?
ちなみに漫画の水木は血液銀行のサラリーマンですね。この頃は手術で使う時の血を買っていました。だから売る人もいた。それの仲介をするサラリーマンもいて、まるで命の売り買いをしてるように見える、卑しいサラリーマンにも見えるのが水木です。
もちろん卑しく見えても、必要だからいる仕事です。だからただの悪でもない。でも善でもない。それを仕事にしている、不完全な人の象徴が、漫画の水木です。
その不完全な男、水木こそが、もう一つの水木しげる自身の分身であり「そう言う要素も自分にもある」と言っていて、だからそういう事は「誰にでもある」とも言っているのが、水木しげるなのです。
金のために大事なものを売り買いしているサラリーマンの水木しげるが、普通とは違う妖怪(片腕の漫画家)になった子供の水木しげると出会うのが、墓場鬼太郎だったのです。
始めは水木は水木を傷つける。
だから鬼太郎は片目を失い、だから正義の味方でもない。
しかし映画では和解をする。
人間水木が、鬼太郎の親世代の目玉おやじと仲良くなる。これは「親世代の妖怪を理解する」という事です(水木の親世代のおかしな奴らもまた人ではない。妖怪だということです)。
そして人間水木が、子供水木(鬼太郎)を傷つけず、抱きしめる。これは不具な妖怪の水木自身を抱きしめる事ができた事を表します。
子供水木(鬼太郎)側からしたら、義理の親(漫画の水木)で卑しいサラリーマンである、親世代の象徴との和解を表します。
そして漫画の水木は親世代の象徴でもあるが、今の(戦後の)水木自身の象徴でもあるのです。
人間水木が、妖怪水木を認め、傷つけず、そして抱きしめられたその時、みんなを救うヒーロー、ゲゲゲの鬼太郎の誕生になるのです。
実際に、墓場鬼太郎で、ただの不気味な少年だった鬼太郎が、ゲゲゲの鬼太郎でヒーローになったことを、水木しげるの心の移り変わりとともに描いたとも言えるのが、この映画だったのです。
ゲゲゲの鬼太郎は皆を救うヒーローです。
「意味もなく、皆を救うのはおかしい」というのが水木しげるの考えであり、だからより人間らしいねずみ男がいるのだそうです。
だから鬼太郎は妖怪なのでしょう。
ただの正義感だけで人を救うは、普通の人としておかしい。だから妖怪なのです。
普通でないもの、妖怪しか人を救わないなんて、悲しい世の中ですが、それが幻でも救うものがいる、つまり希望はある(希望とは幻だからです)。
水木しげるは戦後の始め、鬼太郎が皆を救うとは描いてないし、描けなかったのでしょう。
それが描けるようになった。
それはまた「描けるような世になった」とも言えるのです。
「そんな話は嘘で馬鹿らしい」ではなく「世を救う幻のヒーローを描くことは出来る時代になった」のです。
これがこの映画です。
水木が水木との和解の歴史。
水木がヒーローの親となった歴史。
それを描いた作品でした。