アニメ「輪るピングドラム」、やっとこさ正体が分かってきた気がします。
昔々ある所、ガンダムを見てた時に思ったのが「15少年漂流記みたいだな」と言う事でした。
どうもその感じはあってたようで、ガンダムの始めのコンセプトとして「15少年漂流記をしよう」と言うのがあったようです。
その後のアニメ「バイファム」がもっと15少年漂流記っぽかったのですが、wikiによるとスタッフの誰かが「ガンダムでやろうとしたのに上手く出来なかったで、バイファムでやった」と言う事です。
たぶんガンダムの時は他の要素で面白い事が色々浮かんでしまい、始めのコンセプトの「15少年漂流記」が段々薄くなって来たのかと思っています。
これには、二つの意味が付いて回ります。
一つは「初めのコンセプトより面白い要素が思いついた」と言う事は、始めのコンセプトの方が弱い内容だった、と言う事です。だからアニメ「バイファム」はガンダムに比べると人気も物語も弱かった気がします。
二つ目は「始めのコンセプトもそこそこ良かったから、またやりたくなった」と言う事です。今バイファムをやればもっとうける気がします。コンセプトは単純だけど悪くないですからね。
ただガンダムは結果として、始めのコンセプトからずれても、他の面白い要素を強く押し出した事で成功したと思っています。
始めのコンセプトより後に思いついた要素の方が、面白い事もたまにはあると言う例です。
一見自伝のようで、たぶんその時代の暗喩ですね。
そして「学生運動後の親世代との和解」の話がコンセプトだった気がします。
これも一見自分の思いの叫びの様で、「寺山修司をやろう」と言うのがコンセプトだった気がします。
これは「エヴァをやろう」と言うのが、そもそも始めのコンセプトだったと分かってきました。
あまりに多いので、ピンドラはそもそもの始まりが「エヴァと庵野秀明」だと思えてきました。
そう思い見ると「なんでこうしたのか?」と言う細かな所の謎が解けてきます。
まず、三人のボロ屋です。カラフルに塗られてましたね。
ぶった切った様な家で、切れてなくなった方が公園になっています。設定上だと、たぶん長屋だったが、権利の関係でそっちを切り離し、その後地主が土地を国に返したりして公園になったのでしょう。
この家が庵野さんの会社「カラー」の暗喩ですね。カラフルなのはそこからです。
そして庵野さんがいた元の会社「ガイナックス」から人を連れ独立した事を表すのが、ぶった切ったボロ屋です。
その後ガイナックスの方は中身が無くなって行きました。だから公園になった事で表したのでしょう。
そうなるとキャラの方も、始めの設定では誰かを意識して作ったと思っています。
ただこの辺から、始めに言った様に「元のコンセプトより面白い事が思いついたので、少しずつずれて行った」様に私には思えます。なのでこの暗喩は完璧では無くなった。つまり他の要素を入れる為に、実在の誰かの要素を足す事の完璧さが無くなって行った、と思っています。
まず冠葉(かんば)が庵野さんですね。闇に落ちて行きテロを起こそうとした人です。庵野さんで言うと、テロはあくまでアニメ内の事ですけど。
晶馬(ひょうま)は今一分からないのですが、たぶん元々は摩砂雪さんかな? 61年生まれですが1月なので、庵野さんと同学年ですね。この辺の事から、ピンドラ内では冠葉と同じ日生まれなのに「冠葉が兄に選ばれた」としつこく言うのではないでしょうか?
もしくは鶴巻さんの可能性もあります。
そして陽毬(ひまり)です。たぶんアスカだと思います。髪の色が同じです。「全然キャラ違うだろ」とお思いでしょうけど、だからこそ他の要素の為に、始めのコンセプトからずれて来たと思っています。
ただプリンセスオブクリスタルの性格は似せてます。
陽毬は母に捨てられますね。親の愛情が無い人でした。少し違うけど、これはアスカからでしょう。
そしてエヴァ破で死んだように見えるけど、復活する事を表す為、陽毬も生き返る。
苹果(りんご)は、そうなるとレイです。だから姉に似ているし、その劣化コピーだと悩む物語でした。
元々の設定では、親の要素が入ってるのがエヴァでした。だからペンギンも親の要素が入っているし、1号とか番号で呼ばれるのでしょう。理由はないけどエスメラルダはたぶん零号機かなと思います。他にいないので。
ペンギン1号が初号機ならシンジ君とペアです。だからシンジ君事庵野さんで、そこから冠葉です。
ペンギン3号が3号機で、エヴァ破で3号機に乗ったのがアスカです。
なら2号機は? エヴァ破でマリが乗ってますね。
ならマリは誰か? 寺山修司を知ってれば物語「毛皮のマリー」を思い描く筈です。あれは男が女装する物語です。ならマリは誰かが女装しているととらえると、鶴巻さんの可能性が高くなります。眼鏡であり、エヴァではマリは鶴巻さんが作ったキャラのようです。(どうも摩砂雪さんも眼鏡っぽいですね。やっぱりこっちかな?)
ただもしかすると誰それではなく、色々な人の集合体かも知れません。つまりガイナックスからカラーに移ったスタッフの集合体です。
剣山がテロを起こし警察にバレ、姿をくらます物語でした。これが95年当時のガイナックスの社長でしょう。現実で脱税して社長を退いてますからね。
最後冠葉と晶馬は、陽毬と苹果と別れて二人で歩いていきます。これはアスカとレイだからです。エヴァも終わればアニメキャラの二人から離れて、また少年から、つまり始めから何かを始める為に歩いて行くのです。
ちなみにそう考えると、ピンドラの最後のシーンは、シンエヴァの最後を予測してたとも見えますね。
では他の人々は? と言う事になりますが、この辺ははっきりしません。業界の人だと分かるのじゃ無いでしょうか?
ただ多分ですが、夏芽家はジブリです。夏芽家の会社は木の文様でしたね。
だから冠葉は家から出て行きます。そしてガイナックスに行くわけです。
家から飛び出す左兵衛の息子は五郎さんですね。アニメでは悪い人だったけど、別に悪い人だと言う意味ではな無いでしょう。アニメの物語上そうなるしか無かっただけです。
同じく宮崎駿さんもそうです。これが左兵衛ですね。左寄りの人だと言うのでしょう。
真砂子と連雀ははっきりは分かりませんでしたが、たぶんジブリの女性スタッフです。
マリオは左兵衛に厳しく鍛えられてましたね。真砂子に「このままだとマリオさんが殺されてしまう」と言われてたと思います。マリオさんはマモルさんですね。近日公開の「竜とそばかすの姫」楽しみにしてますよ。
さてそうなると、ピンドラはかなりエヴァとその周りの事を、しっかり引用していると言う事です。
これはこの時代に見れば面白いでしょう。しかしその時だけの物語です。
寺山修司脚本「サード」これは暗喩が分からないと何も面白くないですね。しかし暗喩さえもこの時代でしか通用しない事であり、今見ると私には何も面白くはありませんでした。逆に暗喩でやろうとしている事が邪魔になり、足かせになり、物語自体がつまらなくなってるように感じました。
逆に寺山修司監督「田園に死す」これが今でも愛されるのは、今でも通じる普遍的な要素があるからです。親や家や女との葛藤です。
しかし「田園に死す」の左翼を表した暗喩の方は、もはや今になると意味が無いものです。つまりこの暗喩が分かっても大して面白くは無いと言う事です。
ではピンドラは? これもそうで、エヴァ周りの暗喩が分かっても、今はもう面白くは無いのです。
しかもとうとうエヴァが終わりを遂げる。今後はなお更意味が無くなっていく事でしょう。
もちろん「その時しか分からない、その時代の物語」と言うのは否定しませんけど、時代を超えて愛されはしないと言う事です。
だがピンドラは作って行って、最初に始めたテーマの暗喩以外が、時代を超えた普遍的で面白い物になってしまったのです。
ガンダムと同じです。後で思いついた要素の方が面白く、その方が普遍的で時代を超える物語になってしまった。
しかも、ピンドラでも暗喩要素を入れる為の内容が、足かせになっています。暗喩の為の要素、設定が必要になるからです。
そして逆に、その後に思いついた要素の為に、元のテーマ「エヴァと庵野さん周りの話」の方さえも、完璧さからは外れてしまったと思います。だから「さらざんまい」で「庵野さん周りの物語」の完璧さを求め、またやったのでは無いでしょうか?
エヴァが終わり、ピンドラでエヴァ要素以外も面白い、いやそれ以外の方が普遍的で面白いとイクニさんが気が付いたとしたら?
だとしたら、このタイミング、つまりピンドラ十周年であり、エヴァが終わるこのタイミングで「エヴァの暗喩要素を外したら、より完璧な物語になるのでは無いのか?」と思わなかったか?
ならピンドラ映画版が、このタイミングで出て来る意味が分かるのです。今しかない。
さてあってるでしょうか?
あっていれば、ピンドラ映画版を今やる意味が出て来ますね。
ピンドラは元の裏テーマより、表の方が普遍的であり、時代を超えて愛される内容です。
これは田園に死すと同じです。
だからこそ、それを目指した物語を作ってくれる事を、私は願います。