号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

Trio

まだ書く事があるのが「田園に死す」。

もう書く事もないだろうと思ってもまだあるのは、その後を継いだ「エヴァ」と「ピンドラ」にも通じるものがありますね。

 

映画「田園に死す」の始めの方の出て来るチェロを弾く男。

この男が「セロ弾きのゴーシュ」だと分かると色々見えてきます。

ゴーシュはフランス語で「左翼」の意味もあるようです。

(ちなみにセロ弾きのゴーシュ宮沢賢治ですね。ピンドラはここもかかっていますね)

 

1971年「書を捨てよ町へ出よう」が左翼に勧誘され捕まる青年の物語。

1977年「ボクサー」が戦争か安保闘争で弱った日本が、ベトナム戦争で弱ったアメリカと手を組んで、頑張ると言う話。

1978年「サード」が安保闘争で失敗して捕まり少年院に入れられ、そこから出たら左翼の事は忘れてバリバリ働くぞ、と言う話。

 

なら1974年「田園に死す」は?

学生運動なので戦ってるのは親世代なのです。そして学生運動が下火になり治まって行く時代です。

だから親との仲直りの物語になるのです。

 

映画「書を捨てよ町へ出よう」の題名の元は本ですね。しかし映画版は使っている意味が違います。

過激な学生運動家に「頭だけで考えてないで、街へ出て、現実を見ながら頭を冷やせ」と言うような意味です。

映画「田園に死す」の題名は寺山さんの歌集から取ってるそうです。元の意味は分かりませんが、今回も映画だと違う意味で使っていると思います。

田園は多くの日本人の原風景ですね。この頃は今より更にそうだった事でしょう。

そして現代的ではなく、皆平等に汗水働くイメージです。それに食べる為だけに働く。

つまり共産主義のイメージです。そして日本のイメージと繋がり、この頃の日本の共産主義だから学生運動になります。「学生運動にて死す」の事です。

 

ちょっと話がずれますが、シンエヴァの田園のシーン、ちょっと共産主義っぽく見えませんか?

なぜかと思ったら上下が無いのです。監督者や管理者がいない。災害があった後だとしても、普通一年もたてば何かしらの上下関係は生まれます。それが無いのがエヴァの田んぼのシーンです。

私はわざとだと思っています。

もっとちなみに、この辺のシーン、私はジブリっぽく見えました。宮崎さんも左翼ぽい人でしたね。どの程度かは分かりませんけど。

高畑さんは自分で「共産党には投票しないけど共産主義者だ」と言ってたと思います。今はソ連のイメージと学生運動のイメージで危ないイメージの方が多いですが、元々共産主義は別に悪くも怖くもないですね。ただそれを利用した奴らが危ない奴らだっただけです。

今思えば、この辺がジブリっぽく見え、共産主義っぽく見えた私の感覚は正しかったと思います。庵野さんはこの辺の事をよく知っているので、わざとやったと思っています。

第3村の「3」は映画「サード」から来てると思います。そしてサードは野球のサードからで、左側を守っている(つもりの人)と言う事で左翼の事です。ちなみに「レフト」にしないのはバレて怒られるからです。

そしてエヴァは「田園に死す」の内容にもかけ、左翼っぽくジブリっぽく描く。毒はあるけど、別に悪い意味だけでもない筈です。さっきも言ったけど共産主義自体は悪では無いのです。

さらにちなみに、アニメ「さらざんまい」は主役級キャラはサッカーをやってました。「さらざんまい」は庵野さんの会社カラーの話です。映画「書を捨てよ町へ出よう」でサッカー部が左翼を表していました。だからイクニさんはカラーは左翼的だと言いたかった気がします。

カラーは「ちゃんと給料などを社員に分配するべきだ」と言う意味も込めて庵野さんが作った会社だそうです。だからここでも悪い意味ではなく左翼的だと言いたいのかもしれません。そしてカラーは、ちょっとジブリっぽいのも面白いですね。

さらに言えば、しかしジブリ社会主義っぽかったですね。宮崎さんが君臨していました。庵野さんはそれを嫌がっていた気がするのですが、どうでしょうかね?

 

話を戻し。

田園に死す」が学生運動の事だと思えば、色々分かってきます。

顔の白塗りはノンポリの事ですかね? つまり右翼左翼または宗教などの色が無く、真白なのを表したのが顔の白い人達だったのかな? なんて思います。(映像を見直してみたら、子供もサーカス団の人達も白塗りでしたね。じゃあノンポリで合ってると思います)

赤い星はやはり中国か北朝鮮ソ連でしょう。(宇宙戦艦ヤマトも赤くなった星をヤマトが青く戻す物語です。戦中のヒーローヤマトを出すあたり、これも同じなのか? たまたまなのか?)

死んだ隣の綺麗なお姉さんの話だと「母は田んぼを守る事だけを考えていた」と言います。これは家をそして土地を守ろうとして、子供をないがしろにした為に、子供(綺麗なお姉さん)が不幸になり死んだ話です。

これは学生運動の親は家、つまり国を守るために、子供をないがしろにしたから死んだ人も出たのだ、と言う事です。学生運動は親にも責任があると言う事です。

間引きの女も、服が赤かったですね。これも左翼です。生んだ本人が殺していったと言う事です。左翼が内ゲバをして、自分とちょっと違う左翼を殺していったと言う意味です。

間引きの女の生むシーンの前の、誰か分からない赤い服の女が踊るシーンも、左翼の事ですね。一見魅力的だが、良く見ると怖いし不気味だと言う事です。

間引きの女に襲われるしんちゃん。これは精神的に襲われて、しんちゃんも左翼になったと言う事です。

そして最後、白くない顔の今の「私」、つまり左翼になった「私」は親を殺しに行きます。つまり親世代と戦い革命を起こそうとする。

しかし親の顔を見たら泣けて来た。敵じゃないと気が付いたのです。

これがこの頃1974年ころの日本です。親世代との仲直りだったのです。

 

寺山さんはマザコンですかね? 知らべても、どうも親との確執は見付けられない。

しかし「田園に死す」は親が一時期嫌いだったと言う話です。それを映画で作るのは大きなわだかまりがある筈です。でも40歳前の寺山さんが、親に憎しみがあるとは思えない。

なら昔にあったかですが、そのような話も出て来ない。映画にする位なら、大きな葛藤が昔になければならないのです。昔でも大きな葛藤は何処かの話に出て来ます。エッセイとか何かのお話などにです。

しかし見当たらない。

つまり「田園に死す」の「親に対する愛情と憎しみ、それからの和解」と言う話は寺山さんの人生のどこにも無いのです(ちょっとはあったかもしれませんけど、映画にするほどは無かったと言う事です)。

つまり自伝的に見えて実は「やるべきメッセージを載せて物語を作った」だけなのです。

自分の人生を下敷きにしてるでしょうけど、あくまで「この頃の学生運動家が、親世代と和解する話」を作っただけだったのです。

(追加、寺山さんの母はきつい人で、問題もあった人みたいですね。寺山さんの近くにいた他の人は悪く言ってたようです。ただそれでも寺山さん自体は「子供の頃母に近くにいてほしかった」と離婚した妻にぼそっと言ったようです。どう思い感じるかは本人次第ですね。だから寺山さんにとってはずっと、どこまでも憎めない母だったのでしょう)

 

これが分かると、なお更エヴァの方も「庵野さんが自分の事を叫んでいるようで、実は物語上メッセージを載せて作った」だけの気がしてきました。

 

この「表に話があり、その裏に暗喩としての話があり、その下に更に伝えたい話がある」と言う三重構造が「田園に死す」であり「エヴァ」であり「ピンドラ」なのです。

庵野秀明に、幾原邦彦に、そして寺山修司に乾杯です。