号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

頭の体操 2

もう今年は書く事も無いだろう、と思っていたのだが、まだ書きます。

 

youtubeで落合陽一さんと東浩紀さんが話してた動画を見て、面白かったので感想を書きます。

 

「AIが作ったエロ画像で、人妻脱いじゃいました、は成立するのか?」と話していました。面白いですね。

東さんは、AIが作ったのだから「人妻じゃないじゃん」と言い、落合さんは「でもアニメでも成立するのだから、世間には成立する」と、まっとうな意見を言ってました。

 

エロ動画は、漫画でもアニメでも成立する。

アダルトビデオで演技でも成立する(人妻とか学生とか)。

だから成立はする。

そもそも、エロ物ではなくても、映画、漫画、アニメなどの嘘のものでも、人は感動もするし、泣くし、怖がるのです。

つまり明らかな作り物でも、人は一喜一憂出来る。

これが人が持っている特徴ですね。共感力と想像力です。

想像力があるから、未来を予測して危険を避けられるのです。

共感力があるから、仲間を大事に出来る。これは群れる動物には必要です。

それに、見えない、形もない物も信じられるから、宗教のような物も存在するし、お金のようなものに価値も見いだせる。人の歴史に置いて、お金も宗教も、人がまとまって力を発揮するには必要なものです。

 

それはそうなのだけど、嘘のものより現実のもののほうが、人は更に心を動かすのは、間違いがない。

例えば、大谷翔平が出た2023年のWBCの事です。

あの話を10年前に物語で作って見せたら、客はどう思うのか?

たぶん「嘘っぽい」「ありえないから感動しない」などと言われるのです。

しかし実際に起きた。起きたら感動するでしょ?

嘘の物語だと感動はしない。しかし本当なら感動する。

他にも、橋の上の手すりに子供が乗って遊んでいたとする。落ちそうになった時、間一髪近くの男が手を掴み、防いだとする。これを映画で見たら感動するのか? いやしない。演出が足りないとか言われるだけです。しかしそれが本当にあり、たまたま動画で撮ってた人がいて、それを見たら感動するのです。

 

すなわち、人は「嘘で、しかも嘘と知っていても、心が動く」

しかし「それが本当なら、さらに強く心が動く」と言う事です。

 

「人妻脱いじゃいました」もそうで(好きな人には)嘘でもいい。しかしそれが本当なら、更に良い。という事です。

 

東さんは「人は人が良いと思うのじゃないのか?」と言うような事で、この事を話していました。

つまり「人は、人である事が大事なのだから、AIは人と同等には感じられない」と言うのです。その通りです。

 

人は人が大事なのです。だから人だと思えないAIは、人と同等には感じられない。

そこで、さっきの嘘問題です。

しかし嘘であっても、そこそこ同等に感じられる。

それはアニメでも、動物でもそうです。

人自体でなくても、人は心を動かせる。

しかし本物にはかなわない。つまり本当に人だと思えなくては、同等には感じられないのです。

 

ここで面白いのは「本当に人だと感じられるか?」も大事だ、という事です。

つまり、嘘でも嘘だと分からなければ同じだと言う事です。

AIだと分からなく、人だと思えたら、それは人と同じく感じられる、という事です。

これは動物もそうで、ペットが本当に家族だと思えれば、人と同等に感じられる。ただそういう人は、そうはいない。可愛がっていても普通ペットは人よりは下に思っていて、同等には思っていない。

川で溺れた子供が2人いて、右を助けるか? 左を助けるか? は悩むが、人と動物が溺れていて、動物を助ける人はほぼいないからです。

 

さて、なぜ人は人が大事なのか?

それは、ただの本能です。生まれつき持ってるだけです。

その本能がないと、種として絶滅したので、残って無いだけであり、残っているのはこれらの本能があったからです。ただそれだけです。

 

では人の本能は大事か?

もちろん人にとったら大事です。

人は「死にたくない」とか「好きな人にも生きていて欲しい」などの本能がある。その本能を達成するには、また本能が必要なのだから、必要なのです。

(それら本能を達成したくなければ、本能もいらないという事ではある)

 

逆説的には、人以外にはどうでもいい話です。

動物でも、地球規模に考えても、宇宙規模のに考えても、人もどうでもいいし、人の本能もどうでもいい。

 

東さんは「人間だという妄想から、どうやったら逃れられるか?」みたいな事を言ってました。

しかし逃れる必要な無い。人だからです。(普通は)逃れてもいけない。

 

ただ、なんでも部外者の気持ちにもなって考える事も必要だったりします。

主観的に考え、それと同時に俯瞰的に考えるのです。

東さんは「西洋哲学を学んだから、人目線で考えてしまう」と言いますが、別に悪くはないし、間違ってもいない。

ただ、それと同時に、たまに俯瞰的に考えることも必要だろう、ってな事だけです。

人を排除した、科学的、物理的、地球規模ではどうか? というのも考える事「も」必要でしょう。

 

ただ人なのだから、人目線で考えることも大事だし、そもそも人目線の方がもっと大事です。

 

東さんは「人はもういい」と、今回言ってました。

それがどういう気持ちなのかは分かりませんが、それは間違っている。

「人はもういい」となったら、それは人ではないからです。

人目線で考えなければ、人として考える意味はないのです。

例え人というのが、つまらなく、不完全で、汚い生き物であっても、それも踏まえて人目線で考えることが、人なのです。

 

たまに「人を超えたい」と思う人がいます。

量的にはあり得るかも知れないが、質的にはありえない。

質的に超えることはない。違うものになった時点で、超えたのではなく、変わっただけだからです。

人の基本の質には、上下がなく、レベルもない。

 

サッカーがあります。うまくなりたいと思う人もいる。

じゃあ「お前だけ、特別に、手でボールを持っていいぞ」と言われたら?

それは確かにチーム勝利に貢献するでしょう。

しかしその時点で、それはもうサッカーではないのです。

サッカーのルールがあります。それはやれない事を縛っているだけではなく、そのルールがある状態自体が、サッカーなのです。

つまり質が変わった時点で、それはサッカーではない。

 

しかし質は変えずに、量的に優れることは出来る。

足が早くなるとか、高く飛べるとかです。それで100メートル5秒で走れたとしても、サッカーは残ることでしょう。

 

人もそうで、量的に優れることはある。寿命が1000年になったりとかです。

しかし質が変わったら? それは、もはや人では無いのです。

 

人もサッカーと同じくルールがあり「ルールがある状態が、人」なのです。

つまり人である基本ルール「本能」を超越したいと思う人もいますが、基本ルールを書き換えた時点で、人ではないのです。

 

例えば、人は死にたくないと思う。これは動物だからです。

つまり動き続ける本能を持ったのが動物であり、動き続ける本能がない動物は、物に戻るだけです。つまり死んで、死体になるだけです。

人も、死にたくないという本能を超越したら、死ぬだけです。それは人ではなく、ただの物です。

 

人を超越したと思えること自体が、人の本能に沿った気持ちなので、その本能を否定した時点で、超越したという事実もなくなる。

あくまで超越したと思えるのは、人の本能にそった気持ちでしか無いからです。

 

東さんは、死にたいわではないでしょう。

ただ人と言うのを追うのが疲れたのでしょう。

しかし人であることを止めるのでは無ければ(死にたくないのなら)人を見て生きるしか無いのです。

むろん、人を考える事を止めることは出来る。動物とか鉱物とかの研究でもすればいい。

しかし、その研究がやりたいと思っている時点で、本能に縛られているのだから、結局人からは逃れられない。

 

ただの、動き続ける事に適していた遺伝が、本能です。

そのただ動き続けるだけに必要だった物が、人である事の全てなのです。

だから人でありたいのなら、人の本能を否定してはならないのです。

人間だという妄想自体が人なのだから、それを抱えて生きていくしか無いのです。