号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

頭の体操 4

youtubeなどを見て、思った事の羅列です。

 

数学の図形の問題があります。youtubeでもたまに出てきますね。

これを解ける人はどんな人か?

頭がいい人なのか?

もしかしたら頭がいい人なのかも知れないけど、一番可能性が高いのは「解き方を知っている人」です。

 

学校で学ぶ事の多くは、良い大学に入るための勉強です。

だから、入試試験に受かる為の勉強です。図形の問題もしかりです。

入試の限られた時間で解かなければならない問題に必要なのは「解き方を知っているか?」という事です。

図形の問題であっても「それに似た問題を解いた事があるのか?」が大事なのです。

だから自力で図形の問題を解いてる暇なんかない。それはテスト中はもちろんだが、勉強中でもです。それは良い大学に入るためには無駄な時間だからです。

 

だから限られた時間内で解かなければならない数学の図形問題も、なぞなぞや脱出ゲームなどでも、大事になるのは「同じ様な問題を解いたことがあるのか?」になるのです。

 

この、聞いたことが有り、見たことが有り、覚えているという意味の「知っている事」こそが、この国で「頭が良い」と言われている物の正体です。

 

もちろん、この内容の「知っている」という事で「頭が良い」と言われたとしても、間違ってはない。

ただ「頭が良い」と言っても「種類がある」という事です。この場合は「多くを覚えていると言う意味の、頭がいい」なのです。

そして問題は、この今までの「詰め込み教育から得られた、日本式頭が良い」というのは、AIに駆逐される事です。

 

なぜこれを思ったのか? と言うと、この「日本式頭が良い」事を目指す教育って、流行りの「タイパ」の事じゃないか、と気がついたからです(タイムパフォーマンスの略ですね)。

 

私は「タイパがなぜ流行るのか?」と考えていて「ネットから得られる情報が多くなったからだ」と考えていました。

今でもそうなのですが、それだけではなく、この「タイパを目指すのが素晴らしいのだ」と「学んで来たのが全ての人」なんだなと、気がついたのです。

だからこそ、タイパを目指すクセが付いている事は、自然の流れだったのです。

(だからタイパを求める人は、大抵、すぐ答えを求めます。それが素晴らしい事なのだ、と教えられてきたからです。でもそれは人間Wikipediaになるだけなので、注意です)

 

東浩紀さんとかがタイパを毛嫌いする理由が、これで理解できます。

そんな物は「上っ面の情報を知っている」だけであり、もう通用しなくなるものだからです。それは詰め込み教育をしている事と、同じだからです。

 

ただ、前にも言ったけど、タイパ自体を否定はしません。

それは「ただ上っ面を知っている」だけでも、かまわない事もあるからです。

例えば、医者じゃない人が知る、病気についてです。詳しくは専門家がしっていればいいだけであり、一般人は気になる情報の上っ面だけで十分だからです。

他にも、法律でも建築でもなんでもそうです。それらの専門家になるだけの情報を知っている時間はないので、上っ面だけでいいのです。

 

問題は「全てが上っ面だとダメだ」という事です。

自分で考えて、それから応用できる人でないと、新たな事は何も出来ないからです。

 

この事は、今までは「上っ面だけでは、良くない」程度でした。

しかしAI時代では「上っ面だけの知識の人は、もはや、いなくてもいい人になる」という事です。

だから自分で考えて応用できる人でないと、いち早く「いらない人」になるので注意です。

 

東さんは、みんなには「自分で考えて欲しい」と思っているようです。

ただ最近は「でもスマフォで調べて分かるのだから、自分で考える事が、大事かが分からなくなってきた」みたいな事を言ってました。

しかし、やはり考える事は、大事です。

生きている事の意味、全ての存在する理由は、人のみが与えられるからです。

人にとっては、人にとっての意味が全てだからです。

だからどこまでいっても、人が主役なのです。

主役の人が何をしたいのか? を考えるためには、ある程度の哲学的な考えは、どこまで行っても必要だからです。

だからどこまで行っても、考える事は必要です。

考えない人は、世間にとって「いらない人」になるので、そうなりたくない人は自分で考えましょう。

 

 

他の事です。

養老孟司さんがよく言う言葉で「脳化」というのがあります(養老さんの造語だろうけど)。

これは「質量があるか、どうか?」が大事な要素らしいです(落合陽一さんがそう表したようだけど)。

となると、つまり、それは「情報か?」はたまた「実態を持っているのか?」で分けられる物だという事でしょう。

 

パソコン内で、例えばメタバース上にいる人を「脳化」した、と言ってるようです。

それは「情報内の事であり、実態がなく、だから問題がある」と言うような事を言いたいのだと思います。

 

まず細かな事から。

情報は質量がないのか? ないです。

ただ情報を溜めておくには、質量があるものを使うのが普通です(電気も質量はある)。だから実際は質量がなければ無理なのだけど、正確に言えば情報自体に質量はないです。

例えば、光でも情報をやり取りできるのだから、情報には質量がないのです(質量がない光で表せられるからです)。

 

では質量が無い物の何が問題か?

それは体がないからです。

つまり人には体が必要なのです。

体が有り、だから出来ないことがある。高い所から落ちれば死ぬ。病気になっても死ぬ時がある。

お腹もすくし、叩かれれば痛い。

それら、体があることから生じる本能的反応、上手いものを食べたいとか、異性が好きとか、がある。

それら自体、本能が「人」なのです。

痛みもない、だから恐怖もない、だからやりたい事も、不安もない。それはもはや人ではないのです。

単純に「原始的な本能自体が、人である要素のすべて」なのです。

 

だから、それらから離れれば、離れるほど、人からも離れていくのです。

なので、人にとったら、体が無い情報だけではダメだという事です。

どこかで「戦争が有り人が死んだ」という情報があったとする。それも大事なのだが、それだけでは人は感じられない。恐怖心がない。だから大事さが分からないのです。

だから映像とかで見ることも大事なのだが、それだって「自分の体が有り」、だから痛みが分かり、だから自分と重ねる事が出来る。

生まれてから一度も痛い思いをした事がない人や、恐怖心を感じた状態になった事がない人だったら、映像でも恐怖心が薄れる事でしょう(SFの設定でも無ければ無理ですが)。

これはSF設定でなくても、体から離れた、頭だけで知った情報だけだと、感覚が鈍るのは、分かると思います。

動物としての感覚を鈍らせないためには、体で体感することが大事だと言うことを、養老さんは思っているのだと、思うのです。

 

動物として感覚が大事なのは「人も動物だ」という事であり、だから「人であろうとするのなら、その実在の体から来る感覚は、ずっと大事だ」という事です。

人である事すら必要でない人が出来ることは、死ぬだけです。

(「世界を滅ぼそう」と思った人がいたとしても、その感情は人としての本能から出てきた呪いの感情でしか無い。もしくは本能のバグでしかない。どっちであっても本能があるから、何かをしたいと思うのです。何かをしたいと思わず、だから生きたいとも思わない人が出来る事は、死んで物に戻るだけだと言う事です)

 

ほとんどの人は、人らしい暮らしの中での、平和を望んでいると思います。

だとしたら、それらを強く意識する為にも、体が大事だと言う事であり、脳だけ、つまり情報だけだと不完全だと言う事です。

 

 

他の事です。

yahooニュースで、辻信一さんという方の話が出てきました。

「脱、陰謀論」の話です。

大事なのは「分からない、という事に耐える事だ」そうです。なるほどです。

これは養老さんも言っていて「分からない事が当たりまえで、分からない事を、分からないまま覚えておく事が、大事だ」と言ってました。

これはその通りだとは思うのだが、この意味が(感覚的に)今一分からなかったのだが、辻さんの言葉で(感覚的に)理解できました。

 

人は「分から無いこと」が不安なのです。

だから分かろうとする。

その、分かろうとする事自体は必要ですね。

ただ問題は「分からないのに、分かったつもりになりたいから、簡単な答えに飛びつく」事だったのです。この事を辻さんは言ってました。

それがおかしくてもなんでも「これが答えだ」という事に飛びつき、間違った答えを信じる人がいる事が、問題だったのです。

これが、「陰謀論に飛びつく人達」の事です。

 

これも結局「考える力がない」事が問題なのです。

考える力があれば、少なくとも明らかにおかしい陰謀論を信じることなど無いからです。

(コロナのワクチンは人口を減らすために作られた、などの事です。世界中で使われていて、世界中の研究者が見ている物なのに、そんな怪しいワクチンなど作れないと、常識で考えられない人がいるのです。

ただ、そうは言っても、どこまでも可能性でしかないのは事実です。絶対はない。

絶対はないが、それならアメリカ大統領は宇宙人が操っている、と言うのも可能性は変わらないでしょう。

あくまでその時点での可能性の高さを図るのが常識であり、それが考えるという事です。

どこまでいっても、100%の答えは無いと分かって考えるのが、考える基本です)

 

だから始めに戻ります。

東さんが昔思っていた「みなが考える事が大事だ」と言う事に、結局戻るのです。

 

 

他の事です。

落合陽一さんが「みなが知っている本(情報)だけでは、今後は役に立たない」と言ってました。だから「みなが知らない本を読もう」だそうです。

まあ、そうなんだけどね。

ここで大事なのは、みなが知っている本「だけ」で、と言っている所です。

あくまで「みなが知っている本を読んでいて基本情報を知っている人が、さらにみなが知らない本を読んで力をつけよう」という事です。

だから、あまり本を読まない人だったら、まずは有名な本を読んでおけば良いと思います。

その向こう側に知らない本(情報)を読もうなので、勘違いしないように。

 

ただ気になるのは、どうもまだ昔の感覚から抜け出せてない気がするのです。

つまり、まだ知らない情報から今までどおりやっていける、と思ってないのかな? と思うのです。

それら、珍しい情報自体だって、世に出ている情報なら、結局AIは知る事は出来るようになる。

それらの価値だって、いつかは下って行く気がするのです。

 

これは最近みんな言う「オタク力をつけろ」というのもそうです。

これも、一つに特化した情報から、珍しい情報を知っていて使える人が重宝される、という事だと思うのです。

確かに過渡期はそうだけど、結局それらのオタク的な情報だって、いつかはAIは網羅して行くことでしょう。

 

だとしたら、珍しい情報や、尖った情報ではなく、それらをどう使うかの能力が、大事だと思うのです。

まだ出てない人の感情を予測する能力や、なんとなくのアイデアを出すなどの、能力が大事な時代が来ることでしょう。

 

それを認めれない(認める訳には行かない)人が、まだ昔ながらのやり方で、今後の自分の立ち位置も、なんとかなると思っているように、見えてしょうがないのです。

今後も金儲けは残るという川上さんや、珍しい情報は大事なままだという落合さんは、自分を守ろうとしている気がするのです(もちろん無意識でしょうけど)。そう思うと彼らも人の子なのだな、と思ったりもします。

 

 

話はちょっとずれるけど、「誰も知らない情報を作るために、情報を隠蔽する事が流行るかもしれない」とも、思っていますが、それは良くない未来ですね(限られたクラブ内で、実際の本でしか見ることが出来ない漫画とかね)。

 

 

さて、そうなると「未来は、漠然としたものを、漠然と理解する人が流行るかも?」と思っています。

あっていれば「やっと私の時代が来たか」とも思うのですが、私には遅かったですね。

10年後の未来だったら、たぶんもう歳とってきて、世に流行るかなんてどうでも良くなっている気がするのです。

私なんか、10年後は木々を見て散歩して過ごし、人知れず消えていく気もするのです。