「薔薇の名前」、1986年の映画。ネタバレ、考察です。
かなり前にも一度言ったのだが、もう一度分かりやすく書きます。
元は有名なウンベルコ・エーコの小説です。それをショーンコネリー主演で映画化したものです。
私は元の小説を読んでないのですが、たぶん映画では忠実に描き、まとめられている様に思います。
もちろん、時間的に無理なので、色々端折ってはいるようですが、ちゃんと雰囲気は伝わっている気がします。
小説では細かな説明もあるようなので、小説の方が完璧でしょう。
ただ長いようなのですが、それでかまわない人は小説の方が良いでしょう。
二時間でパッと雰囲気を知りたい人には、映画でも良いと思います。
このブログで、前に一度この映画の事を書いたのですが、あらためてみたら良く出来てたのが更に分かったので、もう一度書きます。
映画だけ見る人様に、映画内の歴史背景を書いておきます。
時は1327年11月、イタリア北部の山の中の修道院だそうです。
この頃のカトリックの教皇は、ローマからフランスに移っている頃です。
この頃、カトリック内でのもめごとであったのが「清貧論争」と「普遍論争」です。
映画では「清貧論争」の事しか出て来ませんが、「普遍論争」こそが小説の裏メッセージだと、世の中には思われているようです。そうでしょう。
清貧論争は、簡単い言うと「貧しくあれ」と言う事でしょう。「清らかな貧しさ」と言う事です。
映画の主人公、バスカヴィルのウィリアムは、フランチェスコ会の人間です。
フランチャスカ会は、カトリックの中の派閥で影響力があった派閥(会派かな?)らしいです。
彼らが「清貧であれ」と言う派閥ですね。なので染色もしない服を着ていて、映画でも分かりやすかったですね。
映画でもミケーレと言う人物が出て来ますが、彼は実在の人物でフランチェスコ会の総長です。
対する教皇派はその反対であり、財を持つ事を認めようとする派閥です。映画では分かりやすく高そうな服を着てましたね。
実在の人物で、フランチェスカ会の有名人物で、オッカムのウィリアムと言う人がいます。この人が「オッカムの剃刀」と言う言葉の元です。
映画の主人公、バスカヴィルのウィリアムの元ネタがこの人です。始め原作者はオッカム本人で行こうとしたが、キャラが小説と合わなかったらしくて、創作した人にしたそうです。なので、原作で主人公は「オッカムの友人だ」と言うようです。
オッカムはイギリスの土地名です。
バスカヴィルもイギリスの土地名であり、ホームズの「バスカヴィルの犬」を思い描くと思いますが、たぶんそこが元ネタでしょう。
主人公はオッカムとホームズを合わせたような人、と言う事で作られたと言う事です。
なので、ウィリアムの若き弟子、メルクのアドソの元が、ワトソンですね(音が似てます)。
アリストテレスの「詩学」と言う本には、本当に幻の「二巻」があったようです。
そして、本当に「喜劇の事が肯定的に書いてあったのでは無いのか?」と言われているのだそうです。
映画では、この本が本当にあって、笑いを禁じる古きカトリック信者が、見ようとする人を殺していると言う話でした。
これは「古き権力者側のカトリックが、おかしくなって来てる時代だった」と言う事を表しています。
それはあとで出て来る、拷問や火あぶりにされる事からも、おかしなカトリックの時代を物語っています。
この時代の教皇は、反対の意見を言う奴などを「異端」とみなし、捕らえたり火あぶりにしていたようです。
教皇は、清貧論争で争っていたフランチェスコ会が段々疎ましくなり、弾圧を強めて行ったようです。
ただ大きな組織だったフランチェスコ会を急に邪険にはしないで「会って話そう」と言うのが、映画の内容です(この事自体は創作でしょうけど)。
教皇がフランスに行ってるので、間を取ってイタリアの山の中で、会おうと言う事にしたのでしょう。
別にフランチェスコ会も元々教皇と敵対していたわけでもないし、流石に教皇の方が強いです。はむかえはしない。
なので総長ミケーレも「教皇に強く歯向かうな」と言う姿勢だったようです。だから映画でもウィリアムの方をとがめてましたね。
ただ、この映画の後だと思うのですが、ミケーレたちは教皇に呼び出され、フランスのアヴィニョンに行きます。
行ったが最終的に逃げ出し、色々あり結果、教皇と仲が悪かった神聖ローマ帝国に逃げるのです。
(映画内が11月なのは「12月の前にしないといけなかった」なのだそうです。その理由は書いてありませんでしたが、たぶん教皇の呼び出しが来るのが12月だったのでしょう。
11月は冬にしたかったからです。冬じゃないと動物をばらしたりしなかったからです。映画でブタの血が出て来ますから、冬にする必要があったのだそうです。)
火あぶりにされる「ドルチーノ派」と言うのが出て来ます。
彼らは清貧派であるが、フランチェスコ会よりずっと過激な行動をしたようです(左派の過激派みたいなものです)。
なので異端だとされ、火あぶりにされます。
「その残りが生きていた」と言う事にしたのが、映画の内容です。
(映画でウィリアムとアドソが「同じ清貧派だが、全部同じではない」みたいな事を言ってた理由がこれです)
とにかく、教皇派が敵対者を異端として、投獄や火あぶりをしている時代だと言う事です。
それに対するのが、科学的であり論理的であり人間的なウィリアム、と言う話だったのです。
(ちなみに、ベルナール・ギーは悪く描かれているが、本当はそうでもなかったようです。そう思って見ると、映画でも火あぶりの前にちゃんと「悔い改めるか?」と聞いてましたね。悔い改めたら、火あぶりは避けられたのでしょう)
最後に出て来る詩が、ラテン語で「stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus.」と書いてあります。
この意味の考察で、色々言われてたようですが、原作者がヒントを言っています。ベルナールと言う人の詩からとったようです(映画内のギーの事ではない。同じ名前なだけだが、わざとか? ダジャレか?)。
「始めのバラはその名に留まり、ただその名前だけを持っている」と言うような意味から「始めの(昔の)バラと言う名は残ったが、今やバラと言う名前だけを持っている」と言う事であり「バラと言う名は残ったが、中身は変わってしまった(昔のバラはなくなってしまった)」と言う意味です。
映画では、映画の内容に合うように翻訳家が勝手にかっこつけて訳すので、意味がちょっと変わってしまっています。難しいのは分かりますが、映画の翻訳では意味が通らないでしょう。
元のベルナールの詩が古いので、写本が沢山残っているが、しかし物により中身が変わっているようです。
その中でこのバラ「rosa」と書かれている本も、確かにあるのだそうですが、そもそもの本ではローマ「roma」と書いてあり、都市のローマの事をうたった詩です。
つまり元の詩は「ローマと言う名は残ったが、中身は変わってしまった」と言いたい詩でした。ローマの都市の仕組みが変わった頃に書かれたようです。
ネットを見ると「ウンベルト・エーコはこの元の詩を知らず、写本の偽物の方を使った」みたいに書かれている文がありましたが、そんな訳ないだろ。分かっていてこれを使ったのでしょう。
このバラの詩は、もちろん内容に沿っていて、あの名も知らない女性をバラに見立てている詩、と言う事です。と言うよりこの詩に合わせて、女性が出て来る内容を作った気がしますが。
そして元の「ローマは変わってしまった」と言う詩の方です。
この詩に「ローマカトリックは、名だけを残し変わってしまった」と言う事をかけているのでしょう(火あぶりをしたりして、おかしなカトリックになった事を表している)。
この時教皇はローマにいなかったので、昔のローマカトリックは無くなってしまった、とも取れますね(これもまともだった頃のローマカトリックは無くなった事とかけている)。
それとこの名前変え(ローマからバラに変えた事)は、ダジャレであり、ギャグでもあります(元はそう言う意味での書き変えでは無いだろうけど、ダジャレに見える、と言う事)。
そこに笑いを認める「詩学二巻」と、アリストテレスと、ウィリアム自身にかけているのでしょう(ダジャレを入れる事で「笑いを認める」と言う意味です)。
ウンベルト・エーコは作家だが、哲学や記号論を学んでいる人です。
エーコの「薔薇の名前 覚書」と言う、薔薇の名前に付いてどう思って書いたか、と言う内容の本も読みましたが、エーコは、言葉と言う物に強い力を感じていると、私にはみえました。
この人が「清貧論争」と、もう一つの同じころにあった論争「普遍論争」の方を書かないのが不自然です。
この「まるっきり触れない」のはもはやヒントだと思っています。つまり「普遍論争要素、入っているよ」と言うヒントです。
ただこれは皆思うらしくて、ネットで「薔薇の名前」の考察サイトを調べると、この本にはまるっきり書いてない普遍論争の事に触れている文が、とても多かったです。
普遍論争とは、実在論と唯名論のどっちが正しいか? と言う論争の事です。
特にこの映画の時代の、カトリック教徒の間での論争の事です。
「名がある物」は普遍な物である、すなわち、そもそもそう言う基本の分類が存在している、と言う方が「実在論」です。
逆に、ただ後から人が分類の為に名を付けたのであり、基本の分類など無い、と言うのが「唯名論」です。
(これは右派と左派の様な物であり、どっちも細かな分類が無数にあります。だから人によって言ってる内容が変わってきます。この間を取る人もいる。なので、あくまでここで言うのは、大雑把な分類として聞いて下さい)
ウィリアムが唯名論推しですが、これは元ネタのオッカムも唯名論だからです。
主人公が推すから、唯名論が正しいと言う物語であり、エーコもそうだと言う事です。
逆に実在論は間違いであり、それを推すこの頃の教皇派もしかり、と言う話です。
キリスト教徒の教皇派は「元になる基本が存在する」と言う方が簡単なのです。
「人は白人が優れている」とか「キリスト教が正しい」とか「カトリックは正義」などの「理由もなく、その存在が正しく、元々ある」とした方が都合が良いのです。
逆に「人が勝手に付けた分類上の記号が名前」だとしたら、全ての正当性がなくなる。だから権力者ほど、認める訳にはいかないのです。
では唯名論者はどうなのか?
これが面白いのは、唯名論者もまた、キリスト教徒だと言う事です。
唯名論者は、「目の前になくとも、バラと言う名を言えば、バラは目の前に現れる」と言ったようです。バラという名を呼ぶだけで、美しいバラを想像できると言う事です。
これは「言葉の力」の事を言っているのです。
「例え人が、分類上付けたのが名前であったとしても、その名前には力が宿るのだ」と言いたいのです。
だから、キリストもカトリックも教皇も、全ての価値がなくなる訳では無い、と言ってるのが、唯名論者なのです。
「名前が人が付けたただの記号でも、力があり、価値がある」これは記号論者のエーコが、今現在も感じている物なのでしょう。
それは、作り物であり、フィクションの小説を書いている、エーコならではの言い方なのです。
人が勝手にこしらえた小説もまた、力も価値もあると言いたのでしょう。
さて、話は戻り「ローマと言う名は残ったが、中身は変わってしまった」と言う詩の内容に戻ります。
これは「ローマと言う基本の存在はない」と言っていると言う事です。あくまで、人が分類の為に付けた記号でしかなく、ローマと言う普遍な街は存在しない、と言う事です。
もちろん、元の詩を作った人はそんな事を思って作ったのではないのですが、エーコが唯名論にかけた、と言う事です。
作中のウィリアムの推す唯名論、それは元のオッカムもそうだし、エーコもそうです。そこにかけて来たのが、この詩だったのです。唯名論が正しいと言う意味です。
更にそこからバラの詩の方に戻ります。
これは、逆説的には「バラの中身が変わっても、名はずっと残る」と言う事になります。元がなくなっても、変わってしまっても、バラと言う名は残るのです。
すなわち「バラに見立てた、あの名も知らない女の人との淡い思い出は、ずっと残る」と言うのです。
「名も知らず、だからこそバラで例えた女性は、バラだからこそ、永遠になった」と言う事です。
このキザな言い方。だからエーコはイタリア人なのです。
この最後のラテン語の短い詩は、この様に幾重にも意味が重なった詩でした。
まさに記号論者であり、哲学者であり、小説家であり、イタリア人だったウンベルト・エーコ、渾身の出来だったのです。
なので、思わずヒントを出してしまったのも分かります。
「とても良く出来てるから、気が付いて」と言う叫びだったのです。分かります。
大丈夫です。分かる人もいますよ。