号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

奇跡も魔法もないんだよ。

映画「マジカルガール」の事です。ネタバレです。

 

「でも言えません。持ってないから。」

 

私は基本現実逃避で物語を見る為、あまり文学的な感じの作品は見ません。

だからかもしれませんけど、この映画は良く出来ている気がします。とにかく映画の基本が上手い気がする。

実は他にも多く上手い映画があるのかもしれませんけど、見て無いので知りません。

ただこの映画はスペインの映画だそうで、それをわざわざ日本で上映して高評価を得るのだから、たぶん世界的に見ても上手い映画なのだと思います。

 

よく「物語は台詞で説明するな」と言われます。私は時間の関係や、絵で説明が上手く出来ない位なら、いっそ言葉で説明しても良いと思っています。

しかしこの映画は言葉で説明しない様に上手くやっています。教科書に載ってもおかしくない位な出来である気がします。

夫が家を出て行ったのを空のクローゼットで示したりします。

ルイスが古本屋で本を売ろうとする。安くて売らないと言う。金がない奴だと分かるし、心の狭い人間に見えるなど、キャラがどんな奴か分かる作りです。

この映画を見ると「なるほど、言葉で説明するより、絵で説明した方がずっといい」と言うのがわかりますね。確かに言葉で言わない方が味がある。

 

他にも見せない所が上手いですね。

トカゲの部屋の中の事を見せないのはもちろんの事、「赤ちゃんを窓から投げたらどんな顔をするか」と言った後の皆の態度、ダミアンに会いに行ったバルバラの傷付いた顔を見せないとかの事です。

それに何があったのか説明もわざとしない。ダミアンとバルバラに昔何があったのかとかわざと言わないし説明しない。

台詞も最低限分かる事しか言わない。感情ものせない。

この映画を見ると「必要以上の事はいらないのだな」と分かりますね。

逆に言わない事、説明しない事で想像し、客が考える余地が出来る。それが深さにもなるし、面白さにもつながります。

そして必要な事以外で時間をさく事も無いのです。

つまり、いらない事を伝えるのはマイナス面になるので、極力なくせと言うのが分かる映画です。教科書のようです。

 

しかし味はあるが、淡々とした無駄そうなシーンには時間をかける。

それも裏に考える状態があるからこそ、何も言わない無駄そうなシーンも味があるし、意味がある。

押井さんが「ダレ場」と呼んでいた「映画だけに流れるダラダラした味のある時間」の事を言ってましたね。これに似ています。

言葉が何もなくても裏に何かがあれば、意味がある味のある価値のある時間になる。そういう時間もあるのだと示しています。(押井さんの方は裏に何もない時間でも良いと思ってる様なので、似ているが少し違いますけど)

わたりやすい例で言うと、例えば「告白しようとしているがなかなか言えない時間」です。それを第三者の目から見ていたら面白くありませんか? なかなかグダグダ告白しないで、変な動きや、おかしな喋りを繰り返すだけの時間であっても「告白しようとしている」と言う裏情報だけで、価値が出て来る映像になります。

他にも「離婚を言おうとしている」「家が破産したと言おうとしている」「あなたは病気で長く生きられないと言おうとしている」等、似たような状況でもそうです。

そういう状況だと、キャラのちょっとした表情や台詞や体の動きが大事になってくるし、皆が注目します。それで大きな動きもセルフの無いシーンでも、見れる価値のあるシーンになるのですね。

逆に言えば、そう言う葛藤も考えも思いもない所だと、意味が無いシーンに思えそうです。

例えば、物語が始まり、何も分からないのに急に戦ってるシーンがあっても、何も感じないですね。どういう人間がどういう状況で戦ってるかが分かり、始めて意味がるシーンになります。

つまり動きより言葉より、その置かれた状況の方が、よっぽど客の心に話しかけているのだと分かります。良く出来てますね。

 

その他にもジグソーパズルで一枚無くて完成しない所。それを壊していく所等、とても分かりやすい暗喩なのに効果抜群です。

いやみにならなく、ちゃっちくもなく、しかし分かりやすい、良い所をついてくる暗喩だと思います。

 

この映画は一つのジャンルにおける、演出の教科書の様な作りですね。

制作者にはためになるのでは無いでしょうか?

 

話の内容の事です。

物語としたら、別に言う事もあまりない気がします。

私は、言いたい事は持ってないのです。

 

しかし魔法とは何なのか? と考えさせられたので、書こうと思います。

この話、監督が「まどマギ」も気にして作ったらしいですね。題名もそうですが、魔法が大事な要素です。

 

魔法とは? 「物理法則を無視したありえない事が出来る」ものですね。

「ろうそくにライターで火をつける」のは魔法では無いが「遠くのろうそくを睨んで火を付けれる」のは魔法ですね。

「お金で自動販売機でジュースを買える」のは魔法じゃないが「百円で百本ジュースを買える」は魔法です。

でもこの両方とも手品の様にタネがあれば出来ますね。裏で誰かが仕込んでおけば出来る事です。しかしタネも仕掛けも無いのに出来たら魔法です。

つまり出来る内容では無く、物理法則を無視して出来た時に魔法になるのです。

 

ではすごい事が出来たら魔法か? それも違いますね。

百万円の束があっても缶ジュース一本しか買えれないのなら、それも魔法です。

これもハイパーインフレとか裏やタネがあれば出来るが、何も無いのにそうであったら、これもまた魔法です。

 

では対価があるのが魔法か? これも関係ないですね。対価が無くても魔法です。

しかし対価はあるものです。何か問題があったりします。

ただこれは魔法の方ではなく「物語の呪い」です。物語の方が呪われているのです。

まず何もなく不思議な事が出来る。それは面白くないものです。

ドラクエで全ての敵が一撃で倒せる、それで何が面白いのか? つまり制約があって始めて面白い。

しかし制約が強すぎのはどうか? そもそも現実逃避でドラクエをやるのに現実的すぎるのもつまらないのです。人間がどう頑張ってもドラゴンなんて倒せないが、それではつまらないのです。現実が良ければスポーツをしなさい。

なので物語である時点で人を楽しませるものです(ほとんんどは)。だから面白くする必要があるのだが、それが「ある程度の制約」です。「誰でも頑張れが英雄になれる」のがドラクエに求められた制約なのです。

だからなんでもできる魔法は制約が必要です。そうじゃないとつまらない。そもそも偽物です。フィクションです。だから楽しませるのに必要なのが「対価」なのです。

ちなみに強くさせるだけではなく、弱くさせるのも魔法だが、主人公が弱くなってもだいたいつまらないので、たいがいの魔法は強くなるものです。そして物理法則を無視して強いからこそ対価が必要なのです。

これらは「物語の呪い」なのです。魔法についてくる呪いでは無い。

 

ではなぜ私は魔法について細かく考えるのか? です。

それはこの映画「マジカルガール」の魔法についてつながるからです。

バルバラアリシアも少女の時に魔法をかける。

その結果、二人の男が犯罪者になる物語です。

始めのシーン。バルバラが少女の時、先生のダミアンに魔法をかけます。

教室で渡せと言われた紙が、手の中から無くなってる事を見せます。これが魔法ですね。魔法をかけれると言う事、魔法をかけたと言う事です。

もちろん象徴なのですが、事実でもここから先生がバルバラに心を掴まれてしまうのでしょう。無邪気な悪戯好きな少女の魔法にかかるのです。

ルイスもアリシアの魔法にかかる。ただこちらは子供なので、まあしょうがないですが、しかしこの子の為なら犯罪でもかまわないと言う魔法にかかるのです。

バルバラは大人になり、またダミアンに魔法をかける。だまして邪魔なルイスを殺させるのです。しかしもう魔法少女ではないのですね。魔女なのです。

ここで「まどマギ」がかかってる事がきいてきます。魔女は魔法少女ではないのです。

それがダミアンにバレる。嘘をつく魔女なのだと気付かれる。だから魔法がきかないのです。

最後の浮気の証拠の携帯を渡しませんね。携帯を手の中から消して見せて「持ってない」と言います。

これはダミアンがバルバラの魔法に打ち勝ったと言う事です。

そして映画の初めにされた事を返す事により、今度はこちらの番だと言うのです。今度はダミアンがバルバラを支配する魔法にかける番だと。

実際には浮気の証拠の携帯で脅すと言う事ですね。

そんな事をするのは、相手が魔女だからです。もう魔法少女では無い。嘘つきの魔女になったお前の魔法は、もうきかないと言うのです。

 

ではアリシアはどうでしょう? こちらは魔法少女なので父に魔法がかかる。

しかしわざとではないですね。

でもたぶん少女の時のバルバラも、わざとでは無くダミアンを巻き込んだのだと思います。だからこそ魔法がきいたのでしょう。

アリシアはわざとでは無いが、父に魔法がかかり、欲しかった品物が手に入る。そして「まどマギ」の様にその代償を払わされる。欲しかった品物を身に着けている状態で死ぬのです。ここは魔法少女になった状態で死んでいく「まどマギ」そのものですね。

 

しかしです。

まどマギ」では騙されてるとしても、自分の意志で魔法少女になっています。

しかしアリシアは違う。これはなんなのか? アリシアは何も悪くはないじゃないですか?

これは実写映画ですね。つまり魔法は無いのです。

ダミアンも父も、まるで魔法にかかったかのようです。

でも違うのです。なぜなら魔法など無いからです。あくまで物理法則から逸脱してはいないのです。

自分の意志でやっているだけです。おかしなダミアンと父が、自分の都合で犯罪を犯しただけでしかない。魔法などに係ってはいない。自分のせいです。

人のせいにするなと言う物語です。

魔法にかかったかのようであっても、自分の意思であり、父の意志で犯罪を犯し、父と子が殺されたのです。

アリシアはただの被害者です。父がおかしい奴だったので巻き込まれただけです。

この映画は子供が見るような映画ではないですね。たぶん見る事も出来ない。だから親が見る。親に向かい、お前の行動で自分所か、愛する人も巻き込まれるぞと言う話です。

 

バルバラは?

彼女は魔法が使えると勘違いたのでしょう。

だからダミアンを騙した。

しかし魔法など無いのです。だから今度はダミアンに脅されるのでしょう。

 

ダミアンは?

バルバラがばらせばダミアンはまた捕まり、一生出てこないでしょう。

ダミアンはそれでも良いのでしょうけど、幸せかは謎ですね。

魔法にかかっていると思いながら刑務所にいるのが一番幸せだったのでは無いのか?

魔法少女のためなら死んでも良かった。しかし魔女の為には死ぬ気は無いのです。

魔女の為に刑務所にいるのは幸せじゃないでしょう。いや、そうあってほしいと願いますね。

 

バルバラは警察にばらせば旦那に捨てられる。

ではどうするのか? それは分からない。

しかし結局誰も幸せではない。

 

犠牲者と加害者は紙一重な時もある。

発展途上国等で、食べるものが無く死にそうな時、誰かの財布を盗もうとする。その時バレて逃げる為に殺してしまう。そんな時もある。

殺す前はかわいそうな人なのかもしれない。もう死にそうな位お腹が減ってるなら誰かから盗んだとしても、それをやってはいけないとは、私には言えない。

しかし誰かを殺してしまったら、そこからはただの犯罪者なのだ。誰からも同情もされず、助けてももらえなくなる。

微妙だが間違えるな、と言う事です。

 

魔法があると思ってしまった人達の悲劇です。

奇跡も魔法も無いのだ、間違えるな、と言う話です。

あくまで夢の中でしかないのです。だからこそ魔法なのですから。

 

このブログの始めに「持ってないから」と私は言いました。

これは映画を模した魔法です。

これでこの文が気になった人がいたら、それはダミアンと同じ魔法にかかったのです。

しかしです。魔法など無いのです。

結局は、自分の意思で行動したと言う事です。

この手の事は誰であっても流されやすいのだが「気を付けて間違えるな、最後は自分で決めるのだ」と言う話でした。