号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

北風と太陽

1971年の映画です。

北からの風が、とても強い時代でしたね。

 

寺山修司監督、映画「書を捨てよ町へ出よう」。考察です。

 

まいったね。この映画を半世紀も放って置いた、多くの日本人は何をしてたのか?

だから私は、何も考えずに来たこの頃の若者、団塊の世代が嫌いなのです。

親の世代を悪く言えるのは、子供の世代の特権です。

文句があるのなら、そう育てた自分達を呪えばいい。

 

寺山さんは北風か? 太陽か?

この映画、一見すると北風に見えます。

青森出身の寺山さんが、新宿近辺に強い風を吹かせていた時代でしたね。

そう、この映画は力業に見えるのです。

 

書を捨てて町に出ろと言う。

それを表すのに、初めから客に向かい話し始める「そんな所に座っていても何にもなれない」と。

そして最後にも「これは映画だ」と言うシーンが入る。これは映画で嘘っぱちだと言うのです。それに気が付き外に出ていけと、言いたいように見えます。

これエヴァンゲリオンですね。庵野さんはこれの影響が強かったのでしょう。そして富野さんからの影響も強く、作り物から目を覚まさせる方法として、現実に気が付かせ外に押し出そうとしたのでしょう。

しかしです。大きなお世話ですね。

そもそもこの映画「書を捨てよ」も、映画でやりながら「ここには何もないので現実に出て行け」と言うのは本末転倒です。支離滅裂です。情緒不安定です。

まるで煙草に「煙草は体に悪い」と書いておけば、みな煙草を止めるだろうと思う位バカバカしい話です。

症状が軽い人は「出て行け」とアニメや映画で言われたら、怒りながらも出て行けます。

しかし問題は症状が重い人です。ドップリつかってる人です。その人はこんな言葉で煙草も映画もアニメも止めません。そのアニメが気に食わなければ、他のアニメを見るだけです。

しかも強く言われればトラウマになり心を捕らえてしまうので、逆に逃げられなくなります。だからこそここから出て行かせたいのなら、強く言ったりするのは違うし、これは偽物だよと言うのも効果的では無いですね。

つまり、力業で客の心を外に向かわせようとするのがこの映画「書を捨てよ町へ出よう」です。

だから北風なのです。

そしてだから間違いなのです。北風では男の上着を取る事は出来ないからです。

 

太陽であるべきですね。

自分から上着を取る様に仕向けるべきなのです。

物語でも自分から外に向かうように仕向けるべきです。

単純で良いなら「本を読んでばかりで上手く行かない人が、外に出て良い事がある」と言う物語を作るべきです。

これはエヴァもそうですしガンダムもそうあるべきです。そして「書を捨てよ」もそうです。

エヴァガンダムの方は気が付いたようです。力業だと誰も出て行かないのだと気が付いたのでしょう。

では寺山修司は?

寺山さんはもっと狡猾です。

まいったね。やはり世に名を残すべき人だったようです。

 

あのサッカー部、おかしいでしょ? どこのサッカー部だよ。

なんで飛行機なのか? 「私」が何処かに飛んでいきたいと言う思いだろうけど、どこに行きたいのか?

映画など見て無いで外に行けと言ってる様にみえる。本当に言いたい事は映画の事なのか? まるで本当の事の様に思えてくる「幻」の事では無いのか?

なんで捕まって終わりなのか?

 

1970年、よど号ハイジャック事件

1971年、映画「書を捨てよ町へ出よう」

1972年、あさま山荘事件

 

良く見るとヒント満載でしたね。もっと早く気が付くべきでした。

近江(私があこがれる先輩みたいな人)は左翼かぶれでなぜか金持ちです。

しかし左翼かぶれじゃなくて左翼なのです。しかも違法な事もする過激な左翼なのでしょう。

サッカー部は違法な事もする左翼の組織の暗喩です。だからレイプもする。

そこに憧れる金もない「私」の物語だったのです。

「私」は飛行機で飛んでいきたいのです。よど号に乗り北朝鮮にでも行きたかったのでしょう。だからオープニングで飛行機で北に行こうとした男が墜落した事がショックだったのです。

そして最後に尊敬してた近江の嘘に気が付いた。だから夢が燃えた。飛行機が燃えたのです。

そもそも近江は左翼的な事を言っておきながら、レストランで高そうなワインを飲んでいる奴です。つまり自分の利益になる事をやってるだけの、偽左翼なのです。

近江が渡した屋台車は盗難でした。近江は嘘つきで犯罪もする奴だと言う事です。

そしてこいつが渡す仕事道具も嘘だと言う事です。北に行き皆が平等に幸せに働けると言うのも嘘なのです。

そしてこいつらに係わる事は捕まる事です。この時代に過激な左翼に係わると最後は捕まると言う最後だったのです。

 

こう見ると、全てが納得する作りの映画です。流石です。

一見、物語に溺れている人に目を覚ませと言ってるようで、夢の様な左翼の話を聞いて、そうかもしれないと思ってる人へ目を覚ませと言ってる物語だったのです。そう思いながら最後の「私」の話を聞いて下さい。納得するはずです(なんでここであの三人の映画監督の名前を出すのかです)。

物語中でもあります。「私」は高そうなレストランに妹と行く。前に連れてきてもらった事があると言いながら。つまり普通は食べれない物で勧誘されてたと言う事です。

娼婦の所に行った時も「またお願いします」と近江は言います。つまり女もあてがい勧誘していると言う事です。

これがこの頃の左翼の勧誘です。もちろん一部でしょうけど。

映画で「映画に来て何になる?」と言うようなメッセージも本末転倒なのだが、実は言いたいのはそこでは無いのです。嘘の夢から目を覚ませというのです。

 

新興宗教は信者に泊まり込みをさせます。

社会から遮断させ、常識を狂わしていくのです。

だからそこから逃れる為には「町へ出る」事が大事です。

この社会は良くないと思って、この国を転覆させようと思ってる人が、町に出るとどう思うのか? 「別に悪くないじゃないか?」と思う筈です。

だから町で多くの人が歩いている所を映す。別に武力で転覆させるような悪い国じゃないと気が付け、と言う事です。

その悪くはない世界で行き来している人達。その中で一人どこにも行けずウロチョロ同じ所を歩く「私」。しかも多くの人の中で、文句を言ったり、話しかけたり、情緒不安定であるのが「私」だけなのです。これがこの時代の過激な左翼につかまった青年の暗喩です。

 

面白いのは、コカコーラのビンの中で大きくなったトカゲの話です。

これはアメリカの中で大きくなった日本が、アメリカに捕らえられていて自由に出来なくなった事を言ってるように聞こえます。

しかしアメリカ批判をしている左翼の事を表している様にも思えるのです。だから誰が言ってるか分からない話でしたね。

でも多分ですが、これはどっちでもない筈です。右翼や左翼ではなく、アメリカやソ連でもなく、悪い奴は悪く、問題はどちらにもあると言いたいのだと思います。

貧乏でどうする事も出来ない「私」が左翼に惹かれるのも分かる内容です。しかしこれは格差が大きくなる社会に対する問題提起でもある気がします。それでも左翼の筈の近江が金持ちです。つまり右翼左翼関係なく、悪い奴は悪いと言いたいのだと思います。

 

時代的に寺山さんは、この頃のただ騒いでいるだけの左翼かぶれを多く見ていたのでしょう。だから問題に気が付き、目を覚ませと言ったのです。

そしてこの後のあさま山荘事件で皆が気が付くことになる訳です。つまり寺山さんは先どってた訳になります。良く分かってた人なのでしょう。

ではなぜ分かりにくい物語にしたのか? もちろんこの頃の過激な左翼は人も殺すような奴らなので、直接は言えないからですね。

そこで自分の本「書を捨てよ町へ出よう」から映画の題材を取る事により、まるで「本に溺れず町に出ろ」と言うメッセージだと聞こえる様にしてきた訳です。確信犯です。

 

そしてこれは物語の中にメッセージとして「それっぽく聞こえ、しまいに本当の様に思えてくる幻である過激な左翼思想は間違いなので、目を覚ませ」となっているのです。

これは太陽です。

つまり嘘に溺れた「私」が近江に騙され、最後捕まると言う普通の話をもって、客に気が付かせようとしている素直な話なのです。

力業の北風のように思わせておいて、実は太陽だったのです。

そしてこの頃の「北からの強い風は偽物だ」と言う物語だったのです。

さらにだからと言って、この頃の日本の社会情勢が正解だとも言って無いのが素晴らしいですね。

表では「青年の叫び」の物語の様で、裏では暗喩的にこの頃の危ない左翼思想から目を覚ませと言う話になっている。

この時代にこれが作れる寺山修司は、そりゃ歴史に名を残すでしょう。

 

おまけ、として

エヴァ庵野さんはこの映画の表に引っかかりましたね。

この表は、たぶん誤魔化しです。だからやってる事が本末転倒なのです。

だからこれが良いと思ってしまった時点で間違いですね。これは寺山さんのせいでもありますけど。

ではイクニさんは? たぶん少女革命と言ってる時点では気が付いてなかったのじゃないのかな? と思います。

ウテナでは革命と言っています。これは「革命はやり方が間違ってたのだ」と言う事だと思います。イクニさんも革命の幻に引っかかって無かったのか?

しかしピンドラでは気が付いてた筈です。

「書を捨てよ町へ出よう」では表では私小説のようであるのに、裏では社会的な問題を説いてます。

ピンドラは表では社会的な問題を解いておきながら、裏では個人的な問題を言っているのです。それはエヴァの問題の事です。つまり逆転させている。

面白いのは、これはエヴァの事を言ってるからこれで通るのです。つまり私小説的なものは、裏で分からない様にするべきだと言うイクニさんの答えだったのでしょう。

ピンドラは「書を捨てよ町へ出よう」要素まで含まれてましたね。

50年前にこんな事をしてた寺山さんはすごい人だったのでしょう。

その40年後にピンドラを出したイクニさんは天才ですね。

サヴァン症候群のように偏った天才はいるだろうけど、偏ってない天才はいないと思っていた私が、イクニさんは天才に認定します。

ちなみに、ただの通りすがりの一般人である私が認定する天才は、価値が無い事だけは言っておきます。

 

2023年 4月 8日 ちょっと見なおしたついでに、訂正。

 

ウテナは「革命」と言っておきながら「自分自身の革命」であり「自分で自分を変えろ」と言う話だった事に、今では気が付いてます。

だとすれば、イクニさんのウテナの「革命」は間違ってないと言う事です。

「革命と言うのは、自分の中で行うのが正解」と言う事なのだから、実際に起こった学生運動の革命の問題点が分かっていたようにも思えます。

やはりイクニさんは天才ですね。まいったね。この辺のバランス感覚では、寺山レベルなのが分かります。

そして良く出来過ぎていたウテナから、十年以上も次を作れなかったのが分かります。

これは詩をやめた寺山の様な状態であり「これ以上はもうないだろう」と思ってしまったのかもしれないのです。

しかし出て来た次回作「ピンドラ」。これがウテナを超えて行ったのが、イクニさんがまたアニメをやり始めた事の答えでしょう。

ウテナの向こう側が見えたので、また歩き始めた」と言う事です。