号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

ヌーヴェルバーグ

ゴダール監督の映画「気狂いピエロ」見ました。1965年の映画です。

感想、ネタバレです。

時代的に、寺山修司も見て、参考にしたろうと思います。

 

ゴダール監督が亡くなったそうです。

いや、逆にまだ生きてたんだ。

私は映画通でもなんでもなく、そもそも監督の名前もよく知りませんでした。

だけど、最近ここのブログで書いてるように、物語制作を考察するのが趣味になったので、少しは監督の名前とかを知るようになりました。

そしてよく出てくるのがゴダールです。

私のような一般人にとったら「誰だよそれ?」って人でしたが。

 

どうも、映画の新たな時代を切り開いた人のようですね。

気になったのは「新たな物を提示した人」なのか「優れた人」なのか? という事です。

よくあるのが「新たな物を見出した人」ではあるが、まだまだこなれて無く、今見ると古臭い、と言う事です。

ちなみに、手塚治虫がすごいのは「物語性がある日本の漫画の発祥の人」であるばかりか、今見ても唸る物をいくつか書いてるからです。個人的には火の鳥とかブラックジャックです。

で、ゴダールの方は「どうなのか、怪しい?」と思ってたという事です。

なぜなら、手塚と違い、一般人に名が知れ渡っていないからです。一般人は名を知らなくてもいい人だ、と言う事でしょう。

 

結果から言うと、この映画「気狂いピエロ」は古臭いですね。

たぶん、これから始まり、この後の物語が色々真似たのだろうし、だからこそ価値はあるのでしょうけど、この映画自体が今でも通じるか? と言うと微妙ですね。

 

少し話がズレるけど、ゴダールと言えば出てくる言葉「ヌーベルヴァーグ」と言うのがあります。

これも何故か、映画通でもない私でも、名前だけは知っていたと言う物です。

だから、あちらこちらに、何かと出てくる言葉なのでしょう。

しかしこれって「ルネサンス」の様な、ただの歴史上の言葉です。

歴史を語るのなら必要だけど、逆に言えば、歴史を語らないなら知る必要もない言葉です。大化の改新みたいなものです。

つまり、今を語るのには意味がない言葉です。

この言葉を、そもそも映画通でもなかった私が知っているという事が、引っかかります。

物語の歴史ばかり語り、物語を語る人が少ないのではないのか、と思ったからです。

「日本には、哲学歴史学者みたいな人が多く、哲学者はいない」と言うような事を誰かが言ってました。それと同じではないでしょうか?

つまり知っているだけの学者が多く、それを理解してる人が少ない気がするのです。

知っているというのは、ただの「歩くウィキペディア」です。AIが発達すれば、意味がなくなる商売なので、今の内にそこから脱却しておきくべきです。ただ知っているという学者は「今後なくなる商売」の一つでしょう。

今の映画を語るのに「ヌーヴェルバーグ」という言葉を使う人は、今の日本の事を語るのに「大化の改新が」などと言っている人くらい、意味不明です。

「ヌーヴェルバーグ」なんて歴史の一地点を表す言葉です。

 

さて内容です。

面白いのは、微妙に象徴画になっている所です。

つまり「見ているその物が実際にあった」というより「それらを象徴して表している」という所です。

これは何処から出てきたのか? 考えてみました。

 

演劇はまずそうでしょう。本当にあったそのままのセットなど作れないのだから、どうしてもそれが分かる程度の象徴したセットで演じます。

何も無い所で「ここは道路だ」と言い、椅子をおいただけで「次は家の中だ」とやるのが演劇ですね。

そこからさらにミュージカルがあります。これは「気狂いピエロ」でも少し歌っていたので、意識してるのでしょう。

ミュージカルはさらに象徴画ですね。現実では、誰も急に歌いだしたりはしない。あくまで、それをイメージできる物を象徴的に表す手段として、急に歌いだしてるだけです。

ゴダールはフランス人であり、フランスは絵画なども盛んでしょう。

絵画は不思議な絵がたまにあります。一枚絵で表すために、そのまま見たら不思議すぎる絵を平気で描くのが絵画です。

気狂いピエロでも、平気で海か川に入り歩いてたりします。必要がない所でも水の入り歩いてました。

しかし絵画ならそういう風に描いて、足元が見えず危なく不安定な状況、を醸し出すこともするでしょう。

これらを元に出てきて、それを動く映像でもやってみたのではないでしょうか?

象徴画だと思えば、気狂いピエロの作りで見れる映像になっています。面白いですね。

 

ゴダールもフランスなのですね。映画にとってフランスは、色々と優れていたのでしょう。

寺山修司がフランスの映画「天井桟敷の人々」から劇団の名前をとっています。

気狂いピエロ」は日本公開が1967年とあります。

寺山の映画「書を捨てよ街へ出よう」が1971年ですね。

だとしたら、寺山が見てないわけがないでしょう。

他のゴダールの作品や、他のヌーベルヴァーグを飾る人達の映画も見てるだろうし、それ以外の人の作品も参考にしてるだろうけど、この映画も参考にしたと思います。

 

ゴダールは評論家から映画監督になったようです。

色々見て、考えていく内に「自分ならこうする」というアイデアが湧いてきて、どうしても自分でやりたかったのだと思います。

寺山もそういう所があります。インテリであり、本とか映画とかの物語をよく知っているのも同じでしょう。

私が見たゴダールの「気狂いピエロ」より、寺山の方が後の作品になるので、はっきりは言えないのですが、寺山の方が天才性が見える気がしました。

寺山も他の作品を見て「自分ならこうする」と思い、それを実行する人だと思います。

しかしその使い方、つまりその印象を伝える意味を強く持つことや、暗喩で表すこと等は、寺山の方が優れていたのかも知れません。

ただもう一度言うけど、前にゴダールが一度やったから、その価値ややり方が分かり、それをさらに膨らます方向で進化したのが、寺山だった気がするのです。

それにもしかしたら、ゴダールの後の作品は、もっと優れているかも知れないのですが、どうもこの「気狂いピエロ」などが最高傑作じゃないか? と世間に言われているために、怪しいなと個人的に思っているのです。

 

気狂いピエロ」での暗喩と言うか、イメージしてる物を書きます。

 

始めの方のパーティーで上半身裸の女がいること。

パーティーでいる女が、媚を売っている娼婦のようだ、と言いたかったのでしょう。ゴダール自身がパーティーでそう思っていたのだと思います。

寺山も上半身裸になる女を出しますが、同じ様な意味合いでも使ってますね(違うのもあるけど)。学生運動の女性で危ない所に身を置く人に対し、体を売ってる娼婦のようだと、表していたと思います。

 

主人公が、危なさそうな少し高い所にすぐ登ります。

不安定な奴、危ない事を平気でする奴、そして危ない状態になっている事を表しているのでしょう。

 

さっきも言ったけど、水に入るのもそうです。

不安体で足元が見えない所に入っていき、浸かっていく事を表している。

 

ピエロは分かりやすい。

自分を隠している者であり、何か別の者を装っている者であり、笑われる者である、と言う事でしょう。

ピエロと他人には言われるが、頑なに否定している主人公でした。しかし最後には自分自身で認めてしまう。

 

ヒロインですか、アンナ・カリーナという女優ですね。

実際のゴダールの奥さんで、気狂いピエロの公開年に離婚してます。

だから、気狂いピエロとはゴダール自身だろう、という事です。

アンナに裏切られたゴダールは、まるで自分はピエロのようだ、と思ったのでしょう。

だから主人公は文学自慢の男であり、パーティーも得意じゃないのでしょう。

この、自分の事を暗喩にして書いてしまう、という所も、寺山は参考にしたかもしれませんね。

 

この映画でやった事は、後世の人に影響を与えて、新たなやり方を伝えたのでしょう。

その一人が、寺山だったかもしれません。

ただ、今一まだこなれて無く、中途半端だった気がする映画でした。

歴史上重要で、参考にもなる映画、それが私の今回の総評になります。

 

2022年 9月 16日 追加

 

誰がピエロなのか?

 

私は、ちょっとなめすぎてたかな?

露骨すぎるので、完全に無視してました。

思い込みは、良くない癖ですね。

 

この映画は、明らかにベトナム戦争の否定が入ってますね。

これが露骨すぎたので、無視してしまいました。

 

トリコロールが多い、とネットでの感想でよくあります。

なぜトリコロールなのか?

もちろんフランスの映画だからですが、トリコロールはフランスの旗のカラーですね(日本で一般的には)。

しかし赤、青、白の旗が、フランスだとは限らない。

 

最後のダイナマイトで死ぬ所、なぜ黄色なのか? 気になりますよね?

ベトナムの旗で星が黄色ですね。

赤と黄色のダイナマイトで死ぬ。つまりベトナムの旗の色で死ぬ。つまりベトナムで死ぬのがピエロ。

ベトナムで死ぬやつとは? もちろんアメリカです。アメリカがピエロです。

 

映画の途中で、主人公がアメリカ人のふりをします。その時にヒロインがベトナム人のふりをします。

つまり主人公がアメリカであり、ヒロインがベトナムです。

 

トリコロールカラーは、アメリカの国旗の色でもあります。

第二次大戦前のベトナムはフランス領ですね。だから戦前のベトナムの国旗には、フランスの国旗が混ざってます。

だから主人公もヒロインも、トリコロールカラーで間違ってはいない。

しかしそれを、フランスの国旗だと思わせたのが面白い訳です。

 

フランスは第二次大戦後、ベトナム第一次インドシナ戦争をします。

wikiによると、フランスは勝てず、その後をアメリカに押し付けたようです。

そしてベトナム戦争が始まるのです。

つまりフランスに騙されたアメリカが、ピエロだと言う映画です。

 

アメリカはヒロインも殺します。ベトナムだからです。

しかし結局勝ちきれず、アメリカ人もまた殺されて行く。

だから最後、ピエロの様に騙された主人公は、黄色と赤のダイナマイト(ベトナム)に殺されるのです。

 

最後が「海と太陽が交わったのが永遠だ」と言う意味の詩で終わります。

西側諸国と戦った、南ベトナム解放戦線の旗が、上が赤で下が青、そして真ん中に黄色の星です。これが海と太陽が交わったものでしょう。

それが永遠だ、と言うのは、ゴダールベトナム戦争をしているアメリカ嫌いだから、敵側が永遠になった、と言いたかったのだと思います。

 

こう見ると侮れなかったです。

なめてはいけませんね。

自分の事を描いているようで、社会の事を描いている。

そう思うとなお更、寺山修司が参考にしたと思えて仕方がないですね。

田園に死す」が、なぜ急にあんな完成されてたのかが、分かった気がします。この映画等が前にあったからですね。

ちなみに、アニメ「ピンドラ」を見た時も、なぜあんなに完成されてるのか? と思ったが、寺山などの作品がまえにあったからだと、今では分かります。

もっと言うと、この映画の前にも「天井桟敷の人々」などがあり、ゴダールはそれらを参考にしたでしょう。

映画でフランスは侮れないのは分かったけど、それが海を越え、日本で息づいているのは、また面白い物ですね。

 

ちょくちょく言い忘れるけど、ヒロインのハサミで切るようなシーンが、有名だそうです。あれがベトナムを南北に分断する例えです。

ああ、そうそう。アメリカを気狂いあつかいしてくるゴダールは、なかなかなキテる者ですね。

 

 

23年12月2日 今更だけど、ちょっと追加

 

最後の詩 アルチュール・ランボーの詩だそうです。

色々あったそうだが、最後この詩は「地獄の季節」と言う詩集の「錯乱Ⅱ」と言う章に入っている「永遠」と言う詩なのだそうです。

アメリカのベトナムを表すのに「地獄の季節」

アメリカを表す「錯乱」

そして「永遠」と言いながら南ベトナ解放戦線の旗を表す。

そう、完璧です。

これを最後に持ってきたのが素晴らしい。

だからこそ歴史に名を残したのですよ。