相変わらす、辛辣な意見です。閲覧注意です。
最近、アニメ業界にはサイコパス系の人が多い気がしてます。たぶんあっています。
そう言うと差別だと言われそうなので、大きな声では言いたくありませんでしたが、事実なのでしょうがない。
ちなみに私は、岡田さんの事は嫌いではないです。
岡田さんは新海さんよりずっとサイコパスだと思ってますが、それでも嫌いではない。
だから「サイコパスだから嫌いだ」とか思ってる訳ではないと言う事です。
しかし、若い時の岡田さんを、昔に知ってたら、その時は嫌いだったと思います(平気で不倫してたようですし)。
違いは何か? と言うと、単純に昔の方が酷いサイコパスで、当時は他人に迷惑をかけ、他人を不幸にしていたからです。
つまり、サイコパスかどうかなんて関係がなく、他人に迷惑をかけ、他人を不幸にした時点で、人としてダメなので嫌いなだけです。
「すずめの戸締り」を岡田さんが見て「新海作品はもういい」と言ってました。
なぜだろう? とずっと思ってたのですが、ちょっと分かった気がしてきました。
それは岡田さんにとって面白くないからです。
それを考えて分かった事があります。
「新海作品の魅力は、サイコパス要素」だったのです。
今回の「すずめの戸締り」は、かなり気を使った作りだとは、前に言いました。
しかし、気を使い過ぎた為に、新海監督の面白要素「サイコパス要素」がなくなってしまい、だからつまらなかったのだろうと、思えてきました。
象徴的なシーンで言うと、「君の名は」のヒロインが米か何かを口にして、もぐもぐして吐き出し、それで発行させてお酒にするシーンです。
あれ物語上いらないでしょ?
考えてみて下さい。あのシーンを「面白いな」と思うのはどういう人か?
それは「中二」です。
中二は、あのお酒の造り方を知ったら「おもしれー」と言うのです。
しかしどうでしょう。大人だったら、面白いとは思っても、あのシーンをわざわざ入れるでしょうか? いや入れない。あのいらないシーンを入れるのは新海さんだけです。
つまり、中二なら、あのシーンを面白いと思い入れる。大人なら面白いと思っても入れない。
普通は社会に忖度して入れないシーンを、平気で入れて来る。
だから「永遠の中二」と呼ばれ「サイコパス」だと言われるのです。
つまり、サイコパスだから入れて来る面白要素を平気で入れて来るのが、新海作品独自の面白要素だったのです(今の時代に男と女が入れ替わったり、変電所爆破したり、震災を無かった事にしたり、どこかに運命の人がいる等と言ってみたり)。
それを「すずめの戸締り」では封じたから、岡田さんは頭に来たのでしょう。
「それでは面白くないだろ」と気が付いてしまったのでしょう。もちろん感覚的にでしょうけど。
確かに面白くはなかったです。
毒が面白要素だったのに、毒を無くしたら、何もなくなったのでしょう。
まあ、そうなのですが、しかし私は「気を使うと、ちゃんとした物語に仕上げられる」事には感心しました。
「やれば出来るのがすごいな」とは思ったのです。
思ったよりも器用で、だから上手く出来上がってしまったのが、また闇が深い話ですね。
なまじ器用で上手いだけに、問題点に気が付かない事でしょう。
シャアみたいなものです。シャアも上手くなければ復讐など諦め、普通に生きていけたのに、なまじ上手かったから最後まで行ってしまった物語でしたね。
そしてシャア事、富野さんもまたそうです。富野さんもなまじ器用だったから、上手く行き、おかしくなる所まで行ってしまいました(その後復活したけどね)。
同じく新海さんも、上手く行ったが為に、間違っている事にまた気が付かないで、今後もあのまま行くのでしょう。
「すずめの戸締り」は、思ったよりずっと良く出来てました。
しかし記憶には残りません。歴史にも残らないでしょう。
それは面白さが無いからであり、尖って無いからです。
では、新海さんが、面白さを回復する為にはどうすれば良いのか?
それは、小さくまとまろうとしないで、サイコパスを全開にすればいいのです。
ただ、注意点があります。
宮崎駿を、もっとよく観察しましょう、と言う事です。
「すずめの戸締り」では、宮崎駿のオマージュがあったと思います。
あれは何なのか? 一つは単純に好きだからかな?
もしくは言い訳です。言い訳として使ったのなら、私が大っ嫌いな使い方です。
宮崎作品があれで良いのなら、俺の作品だっていいだろ? と言う言い訳です。
細田さんもまた、元々ジブリに入りたかった人で、宮崎作品が好きな筈です。
なのにこの人も分かってない。宮崎作品の特徴がです。
新海さんも細田さんも、どっちも現代劇をやります。しかも子供を主人公にしてです。
なぜでしょうか?
たぶん現代が好きなのでしょう。
しかし現代劇は難しいのです。
社会や子供への問題を回避しながら、皆がよく知ってる世界設定を、おかしくならないようにちゃんと調べ上げて構築しないといけない。
ファンタジーなら、社会情勢など自分で決めればよく、社会への影響も誤魔化せるのです。
宮崎駿は上手いのです。現代劇をしないからです。
あれで多くの問題を、始めから回避できます。
そして多くの作品で、初めにリアルさを見せてしまいます。ここも上手い。
カリオストロの城で、始めに札束を背負って出て来ます。もちろんあんなに紙を背負えるわけがない。
それを見せて時点で、あの作品のリアル差が客に分かるのです。つまり大してリアルじゃなよ、と言う事です。
だから後で屋根の上を走って飛んでみたりしても、通じる。冗談だと思うからです。
冗談だと思ってるから、他の事も気にしなくなる。警察の行動とか、国のあり方とか、沢山飯を食べるシーンなど、全てが始めの冗談シーンにより、このリアル差が基本設定の物語だと思ってみるので、ノイズにならないのです。
(逆に新海作品も細田作品もリアル路線で行くから、細かな描写が色々ノイズになる)
紅の豚もそうで、大方リアルなのに、主人公を豚にしてしまう。
あれで、色々なおかしな点が気にならなくなる。
物語の基本として「奇跡は一度きり」と言うのがある。
しかも始めの方が良い。
始めの奇跡とは、ただの「設定」だと思うからです。
物語とは嘘です。だから嘘の設定から入るのは、誰も気にしない。
未来からドラえもんが来るのは奇跡だし、明らかな嘘だが、誰も気にしない。
それは「ドラえもんが来た」のが基本設定だと思うからです。
しかし二度目の奇跡は無い。それでは何度奇跡があってもよく、そうなると物語は成立しなくなる。危なくなっても、毎回「奇跡的に神があらわれ、救われた」となれば、もう物語の流れなど、どうでもいいでしょ?
しかし始めだけです。行って、戻って終わりです。
だけど細田さんの「バケモノの子」だと、不思議な世界に行ったり戻ったりします。ああ、もう基本がダメダメだ、と気が付かいのかな? あれでは嘘っぽくなるからです。
奇跡的に神の世界に行くのは一度だけにしないは、ただの失敗です。
宮崎駿が上手いのは、客の目を覚ますノイズを入れないようにしてあるからです。
それをするのにやりやすいのが「現代劇をしない」と言う事です。基本は無いでしょ?
千と千尋は現代だが、だから町も学校も出て来ない。あくまで不思議な世界の話です。
ポニョはもはや時代も場所も分からない、絵本の中みたいな世界でしたね。
後はファンタジーか、昔です。
千と千尋で、千尋が建物の外で、階段か? パイプか? 忘れましたが、それを伝って建物の外側を登って行くって言うシーンがあったと思います。
あれがもし、まるっきり同じシーンだが、現代の学校の廃屋だったらどうだったでしょう?
たぶんクレームが多く来るのです。「子供が真似したらどうするのか?」と。
これは杞憂ではなく、本当にマネする子供が出てくる。学校の外側をパイプを伝って渡ろうとする子供が出てきたりするのです。
やってる事が同じなのに、不思議な世界なら誰も真似をしない。
しかし現代の学校なら真似をする子供が出て来るし、クレームも沢山来るのです。
だから、それを避けて来る宮崎駿は上手いのです。
しかし細田さんと新海さんはどうでしょうか?
わざわざ難しい現代劇をやろうと挑戦するのは良い事だが、やれないのら、やるなよ。
「子供を惑わす危ない教え」を見せるのなら、やらない方がいい。「竜とそばかすの姫」や「天気の子」の事です。
(世の子供を惑わす事で)他人に迷惑をかけた時点で、世の中に叩かれてもしょうがないのです。
この二人は宮崎駿作品が、たぶん好きなのに、何も分かってない。遠くおよばない。
さっきも言った様に「宮崎作品だって、子供が危ない事をするだろ?」と言うのを言いたいが為に「すずめの戸締り」でオマージュとして入れたのなら、それは間違いであり、私が大っ嫌いな、こすっからい所業です。
(9月27日追加、だから魔女の宅急便だったのか! と分かりました。あれは子供が一人で家を出て、一人暮らしを始める話でしたね。あれでいいなら天気の子も良いだろ、って事だと思います。あれは飛行船がある時代で、昔話です。戦前なんて遊郭にひろわれる子供がいる時代です。それと同じだと言うのは、頭が悪すぎる)
細田さんも新海さんも、現代劇を止め、ファンタジーにするか、もしくは過去にしてしまえば、ほとんど文句もなくなるのです。
だから、難しい現代劇が出来ないのなら止めて、ファンタジーにした方が良い。
新海さんなどは、ファンタジーにしてしまえば、得意なサイコパス要素だって入れ放題です。
そうすれば、あの人が得意な、誰も入れないサイコパス面白ろ要素てんこ盛りの、尖った作品を作れるし、文句も出ない事でしょう。
新海さんが天気の子を作ったのは、あれの社会の影響や、子供への影響が分からないからです。
子供への気持の影響が分からない人です。だからサイコパスです。
しかし、何かがまずかったとは分かり「すずめの戸締り」では、クレームになりそうな所は外してきました。
ちゃんと分析して、気を付けて外して作ったからと言って、普通は「すずめの戸締り」くらい上手く出来る人は、あまりいないと思う。
だから正直「この軌道修正は、本当に良くやったな」と感心したのです。
自分を押し殺しても、やってはいけない所を外してきた所に、責任がある大人だと思い、私は褒めたのです。
しかし気持ちが付いていけなかったのでしょう。
どうしても「俺は悪くない。何も間違ってない。ちょっとやり方を間違えてただけだ」と思ってしまったのでしょう。
だから言い訳を入れて来た。
分からないように、自分が正しいと思わせようと、物語を構築してきたのでしょう。
これが汚い。
器用な子供が策を練って、誤魔化して自分の意見を通そうとしているように見えてしょうがない。
言いたい事があれば言えばいい。
言えないのなら黙ってればいい。
しかし裏でこそこそ入れて来るのが、こすっからい。大っ嫌いです。
力ある者は責任を負います。
「あの俳優嫌いなんだよね」とSNSに素人が書いても問題がない。
しかし有名人だったら、意味が違います。
それがもし首相だったら、みんな「言ってはダメだろ」と言うでしょ?
「皆言ってるのに、なんで首相だと言ってはいけないんだ?」と言っても「いやダメだろ」と言うでしょ?
だから、力ある者は、無い者より「影響力が実際違う」のだから、責任の重さが違う。
有名な作品を作る監督とは、力ある者であり、影響力がある者であり、責任の重さが違う者なのです。
ちなみに、新海さんがずっと引っかかってるのが「自己犠牲」でしょうか?
自己犠牲とは難しいのです。世の中で上手く説明できる人を、私は聞いた事が無い。
もちろん私が知らないだけの可能性もありますが。
しかし自己犠牲に似た問題であり、もっと上位の問題として「性善説」があります。
「Humankind 希望の歴史」と言う、性善説を証明しようとした本が、世界的にベストセラーになったようです。
私は「まだ性善説が正しい、とかしか言えないのか?」と愕然としました。
まだ「性善説がなんなのか?」と説明出来ている人がいないから、世界でこんな本がベストセラーになってるのでしょう。
つまり世界中で性善説が何なのかすら分かってないです。
だから、それの下位問題であろう自己犠牲の問題もまた、分かってないだろうと思えるのです。
世界で専門家が分かってないだろう問題を、やろうとしたのが、新海監督です。
だから無理があるのです。
なのに無理だと思わずやってしまう所に、サイコパス要素が見えるのです。
分からない事に挑戦するのは良い。
しかし分からないのに、知ったかぶりで言う人は、迷惑です。
私には「君の名は」「天気の子」「すずめの戸締り」から感じられる、新海さんが言ってる事は「自分がみんな大事なんだろ?」と言う事です。
だから「五月蠅い」のです。
新海さんは自分がそうだから、みんなそうなのだと思ってるだけです。
「そうなんだろ?」「そうなんだろ?」としつこいから、黙ってろ、と思うのです。
それは物語として、いらない要素です。
いらない自分の心情を入れてる暇があったら、宮崎駿をもっと学んでみるべきでしょう。
下らない自分の感情に引っかかってるより、目の前の見えている筈の大きな山、宮崎駿が何一つ見えて無い事の方が、ずっと大事な問題なのだと、早く気が付くべきなのです。