号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

中二病の誤魔化し嘘

アニメ映画「すずめの戸締り」見ました。感想です。

(2023年9月21日、後半に文を足しました。後半は辛辣です。注意です)

 

いや、やりたかった事は、間違って無いのじゃ無いのかな?

 

始めに、問題点から言っておきます。

 

イケメン兄さんなのはどうなのか?

あれでは、急に出会ったイケメンに、田舎の女子高生がのぼせ上っている話、にしか見えない。

途中、無茶をして押し通す所も、さっき会ったイケメンに惑わされている馬鹿な子供、にしか見えない。

私ならイケメンに絵柄を描いても「イケメンだ」などとは絶対言わない。それは客に任せればいい。

そして私なら「さっき知り合ったイケメンについて行く馬鹿な子」に見せないために、知り合いにします。

昔、近所(東北の町)に住んでいた、何歳か年上の男(昔は男の子)にしておく。

そして(よくある話だけど)無精ひげの、クタっとした上着を着ている、大学生にしとくけどな。

そうして「久しぶり。覚えている? ちょっとこの辺に用事があって……」と言って会わせます。

なので、すずめは昔を思い出す。そして彼について行くのだけど、恋愛感情なのか? もしくは過去に会った彼から過去を思い出し、過去の幻影を追っているのか? と言う状態にしますけどね。

理由もそうだし、昔の知り合いと言う事から、イケメンについて行く馬鹿な子みたいな感じが、もっと薄れたと思うのです。

あれでは、恋愛のぼせあげ物語に見える所が、残念でした。

 

それと、みんなが言うように、今一面白くない。

ミミズ退治の三回目はいらないだろ。

三回目なら、普通もっと違うようにするのだけど、この時も普通に閉めて終わったのが下手でしたね。

 

全体を見ても、どうも上手くない。

ただ、この途中の「面白くなるネタがない」状態と言うのは、奥が深い。

私も真ん中あたりの話は「どうしたら面白かったのか?」と言われても、思いつきません。私でもあんな流れにしてしまいそうです(私は素人だけどね)。

(9/21 ちょっと追加。そうだ。すずめが良く出来た子だからダメなんだ。あれが半分引きこもりの子ならよかった。そうすれば外に出て、外の世界の人と交流を持つ事に、すずめにとっての意味が出た。細田さんもそうだけど、新海さんも「良く出来た子で、更に顔立ちも良い子供」を出しますね。なんでだろ? のび太が活躍するのが物語の基本ですよ)

 

その「ネタがない状態」の中で、どうにか面白く出来ないか? ともがいた様子が見受けられ、そこは好感が持てる。

好感がもてるが、上手く行ってないのは事実でした。

 

どうも盛り上がらない。

ミミズを封じるシーンとか、もっと盛り上がる筈なのに、何とも感じない。

どうも「上手く行くだろう」と思えてしまう所が良くない。ドキドキが無い。

そこに主人公たちの葛藤も無いので、見ていて「だから何?」と思えてしまう。

 

おばさんの事もそうだし、すすめの事もそうなのだが、どうも感情移入が出来ない。演出が下手なのか?

だから心に刺さらない。

刺さらないが「どうにか感情物語を描こう」ともがいているのも分かり、ここも好感はもてる。

もてるが、やはりここも、上手く行ってない事には変わらない。

 

この辺の事は、もはや感情を描く物語、つまり「昔ながらの純文学を上手くやれ」と言っている話なので、そもそもが難しいのです。

 

ちょっと似ている、細田監督の「竜とそばかすの姫」よりは、感情を描くのも、話を面白くしようとしてるのも、「やろうともがいている」のが見える為、ずっと好感はもてるけどね。

 

 

さて、このブログの題名にある様に「中二病の誤魔化し嘘」満載の話です。

本当にそう言う監督なんだなあ、と再認識しました。

しかし、やってくれたね。

その問題点を、良い方に(今度こそは)持って行ってくれたと思います。

 

嘘には「言ってはいけない嘘」がある。

特に子供を惑わす嘘は禁句です。

それは「君の名は」の最後であり、「天気の子」の全てでした。

 

しかし嘘と分かっている嘘なら、たまには嘘を聞きたい事もある。

言って良い嘘もある。

そもそも物語のほとんどは「ただの嘘」です。ゲームも小説も全て「ほぼ嘘」です。

「すずめの戸締り」は「たまには物語の嘘でも聞いて、逃れられないし変えれない現実を、誤魔化す時間があっても良いのではないのか?」と言う話なのです。

 

「震災は防げない」し「過去は変えれない」

その苦しい現実を見ながら人は生きて行く。

しかし、ずっと現実を見てると辛いのです。

だからたまに物語の嘘を見る。嘘と分かりながら見る。

「震災を暗示させる」、その後「救われる物語を見せる」事により、震災の恐怖心が薄れるのです。

 

前にも言ったけど、震災時に専門家が言ってた言葉が印象的だった。

「震災後に子供が[震災ごっこ]や[津波ごっこ]をやったりする時があるが、大人は「不謹慎だ」とか言って止めてはいけない」と言う話です。

気持が落ち着いている時、つまり安心している時に、過去の辛い事や怖い事を思い出す。その事により、「辛い」と強くむずび付いたのが「震災の記憶」だったのが、「安心」と「震災の記憶」の結びつきに変わり、トラウマから解放される。と言う仕組みです。

「すずめの戸締り」もその理屈です。「震災を思い出し」しかし「上手く行き、生きて行ける物語」を見せる事により、トラウマから解放させるのです。

 

これが「君の名は」みたく恋愛ものだと、間違える子供がいるのです。

「いや、アニメなのは分かっているよ」と言うでしょうけど、人は「いやどこかに運命の人がいて、現れるのじゃ無いのか?」などと夢見るものなのです。

つまり(主に子供を)「惑わす物か?」「惑わさない物か?」が大事なのです。

 

震災は防げない。だから誤魔化しても良いのです。

もちろん忘れてはいけないし、次の地震の準備も大事です。

しかしそれは「沢山の人で共有している事」であるし「頭で理解している事」だから惑わされる状態にはなりにくいのです(逆に恋愛関連は、細かくは誰にも言わないし、自分の中の感情の問題なので、惑わされやすいのです)。

 

日々、起きてしまった震災でトラウマを背負って生きる位なら、誤魔化して日々生きるのも、人の生き方なのです。

 

もう一回言うけど、完全に忘れたらいけないのは間違いが無い。

しかし、必要な事を忘れてないのなら、それ以上はマイナスなので、そこは誤魔化そうと言う事です。

これも何度も言ってるけど、お酒をたまに飲むのは良い。日々辛い事があり、たまに酒飲んで誤魔化すのも良い。

しかしずっと酔っている人はアルコール中毒です。それはダメなのです。

つまり「誤魔化していい物」があり「誤魔化していい時」「誤魔化していい度合い」があると言う事です。

 

新海監督の、この誤魔化し癖は嫌いでした。

そこを「誤魔化さず行こう」としないで「いい誤魔化しで行こう」と努力した所が「プロの中二病だな」と感心しました。ちょとうけますね。

 

物語上でもそうでしたね。

すずめがトラウマから解放される話です。

イケメンは椅子に変えられるが、その椅子がすずめと旅をして、椅子に助けられる話です。

椅子が「思い出の象徴」です。

母はもういない。しかし思い出が助けてくれる話なのです。

しかも「思い出」に「イケメン」が加わる。

それで「新たな思い出」になるし、「自分のこれからの人生」にもなって行く、と言う話なので、ここも合っている作りです。

「自分のこれからの人生」とは、男であるのが大事です。つまりそこに将来の家族を思い起こさせ、母は亡くなったが、次は自分が母になり家族を作るのだ、と言う繋がりを予感させるからです。だから上手いのです。

 

最後どうするのかな? と思って見てましたが、「母を出さない」と言うのも見事です。

死んだ人を出さず、あくまで「自分が自分を乗り越えていく話」にする為に、最後子供の自分に会ったのが、大きくなった自分と言う作りであり、ここは見事です。

 

大体がスピリチュアルな話なのだが、死んだ人を出すとそれは「言ってはいけない、強い嘘」になってしまうのです。

それでは「死」が嘘に思えてくる話になり、それは避けないといけない。

だから、全体が大嘘物語なのに、死人は出さないと言う「やっていい、分かっている嘘」を通せたのが見事なのです。

 

その中で、乗り越えるのは自分自身の事だ、と言う合っている作りでした。

子供のトラウマを見て、それに大丈夫と言うのが、過去のトラウマの克服シーンになるので、上手く出来ていました。

正直、最後ここまで上手くやれるとは思ってなかったのですが、侮ってはいけませんね。

 

「君の名」はみたく、過去を無かった話にしなかったのも、作家として前に進んでましたね。

 

猫みたいなダイジンが「かわいそう」と言う感想が、世の中には多いようです。

ただダイジンは昔亡くなった人だし、もはや神だからね。

生き返ってもおかしいし、神が現世を闊歩しててもおかしい。

「すずめの子になれなかった」と言わせた意味が分からないのはありますが、神が子供になると言う事は、すずめも神になる事であり、人が神になる時は、日本だと死んだ時でしょ? だから、母にはなれない方がいい。

どうもダイジンは昔に要石になった子供だったようで、確かにかわいそうだが、昔の不幸であり、それを回避出来ないのもまた、母が生き返らず、会う事も出来なかったのと同じです。

(そうそう。だと言ってもこのダイジンの扱いが雑なのは、新海監督のサイコパス要素からの所業です。ダイジンにも感情移入できる人じゃないと、これ以上客の心に響く話作りは無理だろうと言うのは、間違いが無い。だからこれ以上を求めるのなら、脚本家か補佐が別に必要だろう、と言うのは細田守監督とおなじですね)

 

メタ的に見た暗喩で言うと、「戸締り」シーンとは、災いが出て来る扉を閉める事ではなく、災いの記憶がトラウマとして出てきているのを閉じてしまう、と言う事です。

 

地震は止められない。だからそれを防げることは、ただの嘘です。

ただ地震のトラウマが出て来る事は、閉じてしまう事が出来る。

それを象徴的に表したとするのなら、やはり上手くやったと思うのです。

 

 

2023年9月21日 追加

 

いつものように、言っとくべき事を言い忘れてました。

それと、気が付いた残念要素が見付かったので、書きますが、本当残念です。

 

結構、気を使った作りなのが見て分かりました。

プロでも、大人でも、そうあるべきです。

 

すずめが旅に出るが、船にたまたま飛び乗ってしまた為、と言う事。

まあ、これは上手くもなんともないのですが、一応気にしている、と言う事。

 

流石に女の子が一人で出て行くのは危ない。

だから椅子がついて行きます。

椅子は元イケメンで、大学生であり、面接だが実習だがに行けなかった、とあるので、たぶん二十歳は超えてるのでしょ?

だから保護者付き、だと言う事です。

 

しかし、そうは言っても男と二人旅はどうなのか? となるので、椅子にしたのでしょう(もちろん他の意味、過去の思い出であり、トラウマと旅に出る、でもあったのですが)。

 

だが、途中から椅子がいなくなります。

だから親代わりが、ここで出て来るのです。

彼女が付いてくるから、これもまた、保護者付き、と言う事です。

(彼女が付いてくるのに、すずめが進む場所に行けるように、チャラ男が車で出て来たのです)

 

旅で会う人達がいるのは「一人じゃない」と言う事です。

どこにでも、分かち合える人がいる、と言う事です。

どうしても震災に会い、その後他の地域に移り住むと、一人ぼっちな気になりがちだと思うのです。自分だけ不幸があったと思うのものです。

その為に、一人じゃない、と言う事が必要です。

 

夜のスナックで手伝うのに文句を言うネットの人がいます。

あの位よくね?

あそこも、あくまで、助けてくれたおばさんの店であり、しかも裏方で表には出ない。親族でお店をやっている人っていないのか? 裏方なら、手伝う位するだろ。

すずめは高校生だが、手伝ったのは、たぶんそんな遅い時間ではない。これも狙ってそうしたのだと思います(だから途中で飛び出す)。

 

すずめのおばちゃんが好きな男が出て来るのも、安心感を置く為ですね。

「あなたのせいで」と本心が出てきてしまったおばちゃんフォローです。

 

と言うように、結構気を使った作りでした。

なのに、ダイジンの扱いがおろそかでしたね。残念です。

 

ここから、新たに気が付いた、文句を言います。

 

おばちゃんが本心を行った時に、裏に黒猫がいましたね(本当は猫じゃ無いけど)。

そこで「あなたのせいで」と言うのは、黒猫の本心かもしれません。

猫が「私が犠牲になった」と思ってるのかも?

この事もそうだし、ダイジンもそうだし「犠牲になったのは、正解か?」と言ってるのでしょう。

ここは汚いけどな。

これは言い訳です。

「天気の子」間違ってなかったろ? と言う、監督の言い訳の為に、ダイジンも黒猫もああしたのでしょう。

自分の言い訳の為の物作りは、やってはいけない。

なぜなら「五月蠅い」からです。

 

別に天気の子の主人公は間違っていない。

「自分が好きな人の為に、沢山死んでもOK」と言っている、あなたが間違っているのです。あんなに東京が埋もれる位浸水して、多くが死なないと思っているのなら、ただの馬鹿です(ちなみに、人が死ぬ以外にも、何百万人も引っ越す事になる。それがどの位の大変か分かってない。津波原発事故での人が引っ越すのにあれほど大変なのに、もっとずっと多くの人が、住む所もないのに引っ越す事の大変さが分かってないって、どうなんだ?)

天気の子の少年は後悔しない。少年ならまだ分かって無くてもよく、それでもいい。

しかし、大の大人が後悔しない。ハッピーエンドかの様な終わり方にしたのは、監督がそう思ってるからに他ならない。

監督が自分の為に他人が死んでもOKだと思ってるから、あの状況にして、あれでハッピーエンドの様な終わり方にしたのです。

 

自分の意見を言いたが為に、神が子供を作り、腹話術のように思いを話させる。

少年なら良いだろう事で、誤魔化し、納得させようとする。

それが「神による詐欺」だと、まだ気が付いてなかったのか。

 

この事では「中二病の誤魔化し嘘」は、悪い意味になってしまいました。

「人は急には変われない」そう言う事ですね。

 

2023年9月22日 追加

 

ここまで書いたので、小難しい事も載せときます。

 

過去から、人は多くの他人を守る様にして生き永らえて来た。

他人と言っても、自分以外と言う意味で、赤の他人ではないけど。

女は家族を守るために、犠牲になって来た。

男は村を守るために、犠牲になって来た。

戦争時、誰も戦わないと、村が滅んで、少なくとも男どもは皆死んだ。

そもそも「多数が生き残る行動」が出来ない遺伝子は、滅んで行ったはずです。

群れる生物、人が、多数を犠牲にして来たなら、数が減って滅ぶからです。

 

今の時代、自己犠牲などなくても、大体は生きていける。

だから「自分の為の生きてもいいだろう」なんて軽く言う。

しかしそれでは、やはり世界は今でも持たない。

自分だけか、もしくは愛する者だけが生き残り、多数が死んでもいいでは、世界は持たない。

 

もちろん人はそこまで聖人ではないので、往々にして自分を守る行動をする。

しかし、多くの人が、どこかで犠牲になっているからこそ、世界は持っている。

天気の子は「しょうがない」と言う物語であり「ハッピーエンド」ではない。

だから、あの終わり方はダメなのです。

自己犠牲を勧めるのは今の時代どうかと思うが、自己犠牲を否定する事を進めるのは、危ない、子供を惑わす行為なのです。

 

「すずめの戸締り」はどうか?

たぶん表の気持ち的には「裏で犠牲になっている人がいる。その事を考えてほしい」と言うのだと思います。

おばちゃんもイケメンもダイジンも黒猫も、みんな自己犠牲です。だからあの作りだったのです。

今回は気を付けた作りだとは、前に言いました。

だから気を使い、自己犠牲をまるっきり否定する作りではない。

 

しかし、気持ちを乗せえてしまったら、所々に監督の「本音がにじみ出てきてしまう」のです。

もう一回言うけど、言い訳の為の物語作りは「五月蠅い」からしない方が良い。

黒猫やおばちゃんの文句や、ダイジンの最後の言葉などから、この話は「他人より自分が大事だろ?」と言う監督の本音がにじみ出てしまっているのに、気が付くべきです。

それは「五月蠅い」のです。

全ての人が、自分と同じくサイコパスだとは思わない方がいいでしょう。

(最後、ダイジンに祈りを捧げない。昔死んで人柱になった人なのに。それは祈ると、自己犠牲の死を肯定してしまう事になるからです。誤魔化して、真ん中に見せようとしているが「自分が一番大事」と言う性格なのが、バレてないと思っているのが中二です)

 

99パーセント以上の世界を守っているのが、サイコパスではない人達です。

かえる君があなたの知らない所で戦っていたからこそ、あなたは生きている事に、気が付くべきなのは、あなたの方なのです(かえるくん東京を救う、からです)。

 

 

24年4月8日 追加

 

今更読み返したら、分かりずらかったので、少し追加します。

 

この監督、「君の名は」の後の皆の感想にショックを受けたとコメントがありました。

問題がない訳では無いだろうけど、「君の名は」なら他人の意見など気にしなくていいのにです。つまり他人の意見を気にする人なのです。

それでおかしくなり「天気の子」を作った。よくある事です。間違ってなかったと言いたいが為に、おかしな方に意地になる時が人にはあるが、大体はドツボにはまる。

更にそこの否定意見から「すずめの戸締り」を作ったのでしょう。天気の子みたく、ドツボにはまり、間違って無いのだと思いたいために、言い訳を入れて来たのです。

それが「いらない要素」だと言っているのです。

 

ダイジンもおばちゃんもイケメンも「自己犠牲」を表す者です。

その中で、おばちゃんの自己犠牲要素何ていらないのに入れて来た。客に自己犠牲の問題点を考えさせるためです。

ただ、そこにも気を使っていて、おばちゃんの自己犠牲が無駄だとは言わない。

しかし監督の気持が「無駄でもない」には入って無いのです。気持ち的に「自己犠牲は嫌だ」と言うのがにじみ出ていて、否定している様にしか見えない。

だからおばちゃんの所が異質なのです。

頭では全否定で無いのに、気持ちが追いついてなく、そのちぐはぐが見えてしまっている。

 

最後「結局ダイジンが犠牲になっていて、気に入らなかった」と言う感想の人が結構います。分かります。

しかしあれは「自己犠牲の肯定」ではなく「自己犠牲の否定」を見せる為に、わざとああしている。

わざと「ダイジン、可哀そう」と客に思わせる為に、ああしている。

そこがこすっからい。

だから器用な人が、器用なゆえに裏で誤魔化そうとしているように、見えてしまうのです。

 

なぜ大臣が可愛い猫の姿で、可愛い子供の声なのか?

それは可愛く見せ、だからこそ「可哀そう」と見えるように、わざとやっているからです。

 

しかし、みなの意見が「ダイジン、可哀そう」と言うよりも「ダイジンのあつかいが可哀そう」と見られてしまっている事に気が付きましょう。

つまり多くの人に「可哀そうに見せ、わざと雑に扱っている監督自身の気持ち」が薄っすら見えてしまっているのです。

「物語上そうなっている」のではなく「監督の言いたい事が強い」事に気が付かれてしまっているのです。

そしてその監督の言いたい事が五月蠅く、物語の足を引っ張っている。

だから「その要素は失敗している」と言っているのです。