号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

勇者であるべき

アニメ「結城友奈は勇者である」感想です。ネタバレです。

批判です。二期はまだ見てません。

 

辞書によると「勇者は勇気のあるもの」だそうです。

そして「勇気とは困難や危険を恐れない」だそうです。

つまりただの馬鹿でもいいと言う事になりますが、皆さんの感覚だと違うでしょう。つまり辞書が間違ってるか、説明が足りないのだと思っています。

ここでwikiで調べると、プラトンの「ラケス」の中に勇気についての話があるようです。この中では決着はつかないようですが、ためにはなります。

私はこの中である「恐ろしいものと恐ろしくないものを見分ける知識」が近いと思っています。

それをもっと進めて「恐れるべきもの と 恐れてはいけないもの を見分ける知識があり それを感情とは別に実行できる心」じゃないのかな? と思いました。

これは私の意見でしかないですが、これがあっていると信じてこの後は書きます。

 

だとしたら、始めは勇者部の皆は勇気がある訳では無いと言う事です。

つまり何も分かってないで行動してるからです。

しかし最後に友奈は全てを理解した上で行動をして、多くの人を助けようとする。この時に友奈は勇者になったのです。めでたしめでたし。

と簡単な話では無いですね。

東郷も全てを分かった上で行動をした。皆を殺そうとした。これも勇気ではないのか? つまりこれも勇者では無いのか?

例えば10万の国民を救うために、戦争をしてきた相手国20万人を殺した人も勇者ではないのか? と言う事です。

東郷は味方を生かすのではなく、生きるより辛いだろうと思う動けない状態よりは死んだ方が良いと思い、味方の死を得るために行動をするので分かりにくいですが、やってる事は先の20万の敵を殺す事と同じです。

恐れるべき事を理解した上で実行してるので、東郷の行動も勇気ある行動ではないのか? と言う事になるのです。

 

では恐るべきことを理解した行動自体が正しいのか? と言うとそれは別です。

しかし誰にとってか? によって答えは変わるので、一つの正解は無いですね。

一見、多くの人を助けるために少数を犠牲にするのは正解だと思いそうです。

それは自分を含めないで俯瞰で状態を見れば、生き物としてそれが正解でしょう。

しかし自分が含まれればまた違う。

例えば100人の村で食べるものが無く皆死にそうな時「あの10人の家族を食べてしまって生き残ろう」と残り90人が言い出したとする。しかしその10人の家族が怒って逆に90人の村人を殺したとする。では生き残った10人の家族は悪なのか?

この10人の家族が悪だと思わなければ、もしくは悪だけどその行動は間違って無いと思った方にとったら、東郷の行動も悪くはない言う事です。

 

このアニメの問題は東郷の行動は間違っていて、友奈の行動が正しいと思えるような物語になっている所ですね。これはどちらが正解の話では無いですね。

しかも最後なぜか皆助かる。これもただの誤魔化しで嘘ですね。

まどマギ」テレビ版なんかは最後まどかが犠牲になります。その犠牲もそんなに悪くないと思わせる作りな所が気に入らないのですが、それでもちゃんと犠牲になってるのでそこは誤魔化してない物語です。

しかしこっちのアニメはそこすら誤魔化してます。まるで勇気を見せればすべて上手く行くかの様な作りです。気持ち悪い作りですね。戦争で死んでも英霊として祭り上げるから大丈夫だよ、と言っているようで気持ち悪い作りです。

しかしこのアニメでも乃木園子が怪我だらけで祭り上げられているシーンがあり「これは気持ち悪いですよね?」という物語になっています。

つまり分かっているのに物語上ではそれを通してしまう。

これは考えるのをやめたのでしょう。皆にとって都合のいいラストに持っていっただけですね。理由もなく皆が見たくなるような都合のいい事が起きるラスト。私はこれを「ラッキースケベラスト」と名付ける事にします。

ラッキースケベエンドの方が語呂が良いですかね? ああ、どうでもいいですか?)

 

物語上の世界で問題なのは大赦(たいしゃ)の連中が嘘を言ってる所ですね。

正直に言えばいい。それで中学生がいやだと言うのなら皆で亡べばいいのです。中学生の犠牲で成り立っている世界などなくなればいい。

漫画家の山田玲司さんがネット動画で「まどマギ」考察で言ってた事が印象的でした。まどマギを見て「すまない」と言う気持ちになると言ってました。中学生が裏で頑張って世界を救ってるの事についてです。

これは「物語にのれてるなあ」等と言う簡単な話では無いのです。なぜこの感情が出て来るのか? と言う事です。

まどマギはまどかが犠牲になる話です。それが世間にうけるわけです。どこかの中学生が犠牲になり世界が救われる話に皆が喜ぶ。なぜ気に入らないと思わないのか? 間違ってると思わないのか? と言う事です。

この「誰かが勝手に世界を救えよ」と言う世間の感情に「すまない」と言っているのが山田さんだったのです。

そしてこっちの勇者アニメも「誰か救えよ」アニメから脱却してません。それどころかそれを通して頑張れば皆が救われる、と言う嘘で誤魔化し終わらせてます。もっとたちが悪い。

しかもまどマギは映画版の叛逆物語でひっくり返します。間違ってた事を直しているのです。それが2013年。そしてこの勇者アニメは2014年。まだこんな事してるのですか? と思われても仕方ないですね。

 

さてさっき私は「誰かの犠牲で成り立っている世界などなくなればいい」と言いましたが、それは個人の感想です。

人の歴史の中で、誰かの犠牲で誰かが生き残る事なんてずっとやってきましたね。そしてそれで生き残ってきた人の末裔が私たちなので、あまり偉そうなの事は言えない。

だから良し悪しの話では無いのです。だからこそ難しい話になるのですが、難しい事を考える事を止めた人達が作っているみたいなので、上手く行かないわけです。

物語上大赦の人達は出てきませんね。直接話もしない。つまり逃げているのでしょう。直接この中学生達にあい、正直に言うか、言わないとしても自分で責任をもって嘘を言うべきです。覚悟が無いのです。

そして最後の方では、この中学生達には内容がバレているのだから、だからこそ直接出て行って合って話すべきですね。そして「犠牲になってくれ」と頼むべきです。じゃないと東郷みたく反旗を翻す可能性もあるじゃなですか。しかし合わないのは、考えも無いのです。気持ちもない。

大赦の連中は、考えも思いも覚悟も無いのです。私にはこの大赦の連中と、このアニメの制作者達とかぶって見えますが、皆さんはどうでしょうか?

 

このアニメは「まどマギ」と似ていると言われているようです。まあそう思うでしょうね。

そして似ている作品を比べると色々見えて来る訳です。やはりまどマギは良く出来てたのだな、と思う訳です。

まどマギも平凡な才能の人が作ったら、こんなアニメで終わっただろうと思えて仕方がなかったですね。

どこが問題か? というと沢山あり過ぎな気がして、考える事は止めました。いくつか直せばよくなる話でもないようです。ただ後半なんでのほほんとした話入れるかな? と思ったりはしました。腰を折るのが上手かったですね。

 

でも一つ「まどマギ」より優れてた所もありました。

それは問題がジワジワくる所です。体の一部がきかなくなってくると言う、ジワジワ来る恐怖ですね。

ティーブンキング原作の映画「痩せ行く男」を昔見たのですが、見る前は「痩せるだけで何がおもしろいのだろう?」と思っていました。しかし見て見るとジワジワ来る恐怖が強かったですね。ただ痩せるだけなのに、確かに怖さが出てる映画でした。「急に死んだりするより、ジワジワ来る方が怖いのだな」と言う、考え直させた映画でした。

なのでこの恐怖が出せてる所は、まどマギより良かったです。

もっとやろうとしたら、勝手に誰かが動かせるパワードスーツみたいのを着せられて、嫌がる中学生を無理やり戦わせる、と言う事も出来ましたね。そこまでしたらトラウマになり見たくはなくなりますけどね。

 

さて二期はどうなるのでしょう?

どうも少しは一期の問題点のフォローしているようなので期待します。

まどマギ、しかも叛逆の物語の後に書かれた作品なので、もっと頑張ってほしいですね。

勇気に必要なのは知識と行動だと思っています。それが足りないのです。

勇者になるべきは製作者なのです。