号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

カラフル

アニメ映画、まどマギ「叛逆の物語」のオープニング曲「カラフル」について、少し書きます。

 

分かっている人には「何を今更」と言われそうですが、勘違いしてました。

テレビ版と、その総集編の映画版と、叛逆の物語の間の事を書いたのが「カラフル」かと思ってました。

しかしこれはエンディングテーマでしたね。「叛逆の物語」のエンディングであり、だからまどマギのエンディングでもあります(映画の映像は関係なく、音楽のみのカラフルの事です)。

君の銀の庭」もエンディングテーマであり、「カラフル」もエンディングテーマで、物語を挟んでいると言う事になります。

つまりまここでも「まどマギ」の終わりのお話だと、強く訴えていたのです。

この両方実は同じ内容で挟むと言うのは、テレビ版でもやってた事なんで、気が付くべきでしたね。

 

(21年4月20日、なぜ叛逆の前の歌じゃないかの理由を書いてなかったので、補足です。

「願い守り進めれば」とあるが、ほむらもまどかもキュゥべえさえも、魔女ほむらの世界が続く事は願ってません。

さやかは願ってたかもしれませんけど、ここで急にさやかの歌が出て来る訳が無い。

あとは魔女ほむらの願いですが、これもここでその歌を作って流したのだとしたら、どうかしてますよね? 例えそうだと考えても、同じ時を繰り返してるこの世界で「まだ誰も知らない明日へと」と歌うのはおかしいですね。

なので全てが終わった後のほむらの歌になります。

「手を伸ばしつなげば」とある事から、最後手つなぐ絵が出て来る「君の銀の庭」の後になります。

一見魔女ほむらの歌に聞こえると言う、この「カラフル」も上手いトリックでしたね)

 

では歌の内容です。

 

始めの音に時計の音が混ざっていました。(目覚ましも鳴ってます)

ほむらが繰り返してきた時が、止めていた時が、進み始めたのです。

 

「モノクロだった瞳の奥の景色捨てたら夢見付けた」とは、まどかがいないモノクロの世界を、悪魔ほむらになり捨てたら、一緒に生きていける夢を見付けた。

「裏返した日常で」とは、悪魔ほむらが最後作った異質な世界。

「願い守り進めば まだ誰も知らない明日へと」この世界を守り通せば、明日へ行ける。ほむらは知ってる毎日を繰り返したが、知らない明日へ行ける。

「光の糸は君包んだ」ほむらがまどかの手を掴んで、取り込んだ事ですね。

「間違えても信じた道は新しい景色を照らすだろう」間違えていると気が付いているが、それでも新しい道を作れる。

「たどり着いたはかない奇跡壊れないように 手を伸ばしつなげば ほら君のそばでいつまでも……」もう言う事もないですね。

 

「カラフル」は、ほむらの最後の気持です。

 

皆気が付かないですが、はかない奇跡の上で生きているのが全ての人です。

だからこのほむらも、そこまで不幸でもないかもしれません。

だからこの状態で生きているほむらを最後として、物語を終わらせる事も良いと思います。

時が動き出し、誰も知らない明日へ、可能性がある明日へ、行けるのですからね。

 

この歌が「叛逆の物語」の本当の最後に聞く歌だと思い、もう一度聞いてみて下さい。

ほむらの世界がカラフルであり続けますように、と願ってしまいますね。

 

しかしです。

これは個人的な感覚でしかないのですが、どうも決着を付けに来る可能性が出て来ましたね。

あのエヴァが綺麗に終わり。絶対ないと思っていたピンドラもまた動き出しました。

この二つが出て来れるのなら「まどマギ」もまだ出来る可能性があると、思わないでしょうか? じっとしてられるのか?

ただ、続きはとても難しいので、それが吉と出るか凶と出るかは分かりません。

誰も知らない明日へ……今は待つとしましょうか。

 

 

21年4月29日 追加

 

この歌の歌詞の内容に「透明だからこれから何色にもなれる」と言う意味が入ってます。

私は常々「白色」は色要素があると思っています。

例えば私は無宗教ですが、これは白です。これから何色にも染まる色などではなく、どの色でさえも白っぽくしてしまうのが白なのです。

赤い色を青くするのは難しいように、強い白を青くするのも難しいのです。勘違いしてはいけません。

だから透明こそが「何色にも染まる」と言う意味に近い気がしていました。

だからこの歌詞が好きなので、だからこそ見落としてました。

この透明はたぶんピンドラから来てはいないのか? と思えてきました。

 

ピンドラでは子供ブロイラーに行った子供は「透明な存在」になると言ってました。

これの言ってる事は良く分かりませんが、言いたい事は分かります。

「そこにいるのに、透明で誰からもいない様な存在になる」と言う事でしょう。

ピンドラでは陽毬は透明な存在にならず救われました。

では「まどマギ」では?

 

ほむらは透明な存在だと言う事です。ほむらは救われなかったのです。

しかし終わりではない。

透明な存在になってしまったほむらさえも、まだ可能性がある。未来がある。

「透明になっても、いや透明だからこそ、これから何色にも染まる事が出来るのだ」という歌だったのです。

 

ここではピンドラの向こうを行ってますね。超えて行っている。

やはり「叛逆の物語」は名作だと言う事です。