号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

けいじさん、難しすぎません?

アニメ 「ユリ熊嵐」 の感想です。ネタバレです。

 

まどマギ」の新房監督と「ユリ熊」の幾原監督は同年代だそうで(三歳違い)。

アニメーション制作会社 「J.C.STAFF」で1999年に新房監督は「宇宙戦艦ヤマモト・ヨーコ」のテレビ版を、幾原監督は「ウテナ」の映画版をやっていたそうです。

だからと言ってどこまで接点があったかは知りませんが、少なくとも知っていた筈です。

同年代でアニメ監督で同じ制作会社に同じ年にいた事があるなら、まるっきり意識しないなんて事はない。

2011年「まどマギ」が世に出てとても人気がでる。しかも魔法少女物でメタファー満載のアニメを、セーラームーンを作ってた幾原さんが見ない事なんてあるでしょうか? これで見てなかったら、それはわざとですね。

しかし普通に考えれば見てるはずです。

そして見ていて、あの「二手に分かれる道がある所の先の部分にある家」(紅羽の家)を出すと言う事はどういう事か? それはわざとかぶらせてると言う事ですね。

まどマギのほむらの家と同じです。これは元は有名な写真だか絵だかがあるようなので、たまたま同じ影響を受けたとも考えられますが、幾原さんが「まどマギ」を見ていたのならわざとだと言う事です)

これはカウンターですね。

見た目女の子で中身は男の物語の「まどマギ」。

その反対で女ばかりで中身は女の物語である「ユリ熊」です。

そして男の生きる道(まどマギテレビ版)の反対、女の生きる道を説いたのが「ユリ熊」なのでしょう。

私事で何なのですが、だからこそです。だからこそテレビ版「まどマギ」と「ユリ熊」、この二つが気に入らない訳です。左右の端にある片寄った物語のこの二つが気に入らない。もっと言うと「ピンドラ」を見てしまった後だからこそ、この片寄った正解が気に入らないのです。

 

毎度おなじみ、ニコニコ動画の(ニコニコチャンネルと言うのかもしれないけど)ヤングサンデーと言うチャンネルで、漫画家の山田さんが「ユリ熊」考察をやっとしてました。

これはありがたいですね。私は「ユリ熊」は考えようとすると脳が停止します。なのでこれを聞いて、やっと少し自分でも考える事が出来そうになりました。

物語は表が見れないとダメだと思います。どんなに裏で面白い事を言おうが、表が見れない時点で意味がありません。前に言った様に、私には「ユリ熊」は見れない話になっています。なので「ユリ熊」の裏を考察しようとすると「それに何の意味があるのか?」と自問自答が出てきて無理なのです。

 

表が見れるかどうかは個人の感覚です。なので正解はありません。

しかし今回の「ユリ熊」は、いったいどの位の人が見れる話になっていたのでしょうか?

今回は難しすぎましたね。ヤングサンデーに出てる人は「今回は分かりやすかった」と言うような事を言っていましたが、そうでしょうか?

「ピンドラ」は大きく大事な表の部分は分かりやすく、細かな事が分からなくても、大体は何が言いたいのかは分かる話になっていたと思います。

しかし「ユリ熊」は、大事な所が何を伝えたいか分からない作りになっていました。

作っている人は分かっているので「この位は分かってくれるだろう」と思いがちです。しかし思ってるより伝わらないものですね。知っている前提条件が違うので分からないのです。

今回はやりすぎですね。難しすぎる。だから「策士策に溺れる」だと思ったのです。

 

純花(すみか)がすぐ死んでしまいます。これは大事な人が亡くなった後の話をしたいが為ですね。その後の紅羽の話をする為なのでしょう。でも「まじめで間違ってない人でも弱いと死んでしまう」と言うメッセージに取られそうです。

銀子が間違いを犯す。これも間違ってもまだ明日がある。今後も生きていかなければならず、これで人生終わりではない、と伝えたいのでしょう。しかし「間違っても思いのまま生きていけばいいのだ」と思われてしまいそうです。

山田さんがこの話にあるのはアガペーだと言っていました。無限の愛、無償の愛、だそうです。これもとらえ方で危険だな、と前から思っていました。

人は間違っても終わりではない。誰かを失っても、生きる場所がなくなってもまだ終わりではない。と言いたいのだと思います。しかし気を付けないと「好き勝手よく考えないで本能のまま生きても、自分だけは神の無償の愛で救われるのでかまわない」ととらえる人がいるのです。人は自分だけは宝くじに当たると思うものなのです。

「空気を読む」のが悪い事だと言う描き方でした。これもそうで「おかしなものに何も考えず同調するのが良くない」し「それを強制するのがおかしい」と言う事です。「空気を読む」事事態は間違いではないし、必要です。

これらの事が勘違いしやすい物語になっています。物事の多様性を説いてきた幾原さんにしては雑な気がしました。一方の正解を言って、その他方の間違いを気をつけろと言わなければ、勘違いしてしまいます。物事を知らない子供に向けての物語なので、その辺は気を付けないといけないと思います。これで勘違いしない分かっている人には、そもそも何か伝えたい物語自体必要ないのですからね。

なので正しい事と間違った事が一緒くたになっている、難しい物語になっていますね。

 

他に気になった事ですが、あいまいなのでこれが正解かどうか怪しい事を書きます。

山田さんがイクニさんのアニメは「上に行ったり下に行ったりする」と言うような事を言っていました。ユリ熊も螺旋階段で上に行ったりしてました。これは形而上と形而下の事を表しているかもしれませんね?

裁判が出てきます。これは「論理的に難しい事を言う」と言うメタファーです。しかしこの事は幾原さんは思って作ってないと思います。そして山田さんも前に漫画で裁判を入れてたと言ってました。つまり似てますね。そしてこのメタファーは同時に「難しいので伝わらないよ」と言うメタファーです。幾原さんも山田さんも気が付いていない、視聴者だけが分かるメタメタファーです。

銀河鉄道の夜」で宮沢賢治キリスト教っぽいのを入れながら、仏教要素も裏に入れているように見えるのだそうです。仏教徒ですからね。そして「ピンドラ」もです。では「ユリ熊」は? 妙にキリスト教っぽくないですか? ではその裏は?

裁判が良く出てきます。銀子と紅羽を合わせると七回あったと思います(ちなみにユリーカとるるが一回ずつある)。ライフセクシーの立ち位置、閻魔(えんま)っぽくないですか? 閻魔大王の所の裁判だと七回で決まるのだそうです(本当は閻魔は全部の裁判担当ではないらしいど)。

ライフセクシーが閻魔だとしたら同時に地蔵菩薩(じぞうぼさつ)だと言う事です。

地蔵菩薩は子供を救うのだそうです。

ユリ熊の世界は、せっせと壁を作っている世界ですね。でも妙にバラバラに作ってませんか? 飛び飛びで横だけでは無く奥にも飛び飛びに作っている。 これ三途の川(さんずのかわ)の積み石に見えませんか? 積み石の所で子供が苦しみながら石を積んでいる所に、地蔵菩薩が助けにくるそうですよ。

三途とは地獄、餓鬼、畜生の三悪道の事だそうです。三途の川とはそこと隔ててる川だと言う事ですね。人は人間道なのでそこと隔てる川だと思いがちですが、ほかの道から隔ててる川ともとれますね。例えば修羅道です。

紅羽の世界、人間道では無いですね。明らかにおかしい。イメージが「熊嵐」で「嵐が丘」(学校名)で「シャイニング」(壁の模様)で「サイコ」(紅羽の家)です。そして紅羽の世界でやっている事も含め、六道の修羅道そのものでは無いでしょうか?

畜生道(クマの世界)と修羅道(紅羽の世界)の話では無いでしょうか? そうすれば死も終わりではない。その後転生して閻魔(ライフセクシー)の裁判で通れば、人間道に行けるかもしれない。だからるるとみるんが(みたいのが)「さらざんまい」で出てくるのでしょう。ちなみに純花はアンシーですかね? あとの人は分かりませんが、確かなのは銀子と紅羽が最後死んだとしても「その後生まれ変わり人間になれたお話」とも見えますよね。

ちなみに、最後あたりのシーンで銀子側を丸い森の星で表してましたね。そして紅羽側は月ですね。月は修羅道の象徴な気がしませんか? それはまどかの事ですね。そして月に代わってお仕置きの人の事です。どっちも呪われた戦い続ける少女達です。

 

最後、紅羽と銀子はどこかに逃げて行ってしまいます。まどかの様に世界は救わずに。

でもこれで正解です。世界などそう簡単には救えないからです。そしてそれをしようとするとまどかの様に実態がなくなってしまう(アニメでは無く現実だったら死んでしまう)からです。

これは女の正解です。生きる所が無いのなら逃げてしまえと言う事です。逃げてでも生き抜けと言う事です。時には逃げる事も必要だと言うのです。

しかしこれも危ないのは「何もしないで逃げてしまえ」ととらえられてしまいそうだからです。正解は「死ぬくらいなら逃げろ」です。

女の正解が「ユリ熊」です。

男の正解が「まどマギ」です。

これはケースバイケースと言う事です。

この二つがあり、バランスを取っていくのが人の世の正解です。

まどかがクマになり「ガウガウ」言っているのが正解なのです。そしてペンギン帽をかぶったほむらが出てくるのでしょう。それから白と黒、合わさって完全体のカッパになって叛逆の物語になるのです。

シュールですね。形而上学ですかね?