号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

映画好きさんに向けて作るべきですね。

アニメ映画「映画大好きポンポさん」感想です。ネタバレです。

 

面白かったですね。良く出来てました。

見終わってみて振り返ると、単純でよくある内容でしたね。

でも「これでいいのだな」と再認識しました。

「感情に訴えかける事を忘れない」と言う基本を忘れなければ、いい作品になると言う好例でした。

元の漫画があるらしいですね。

単調になりそうな絵と物語なのですが、演出で映画らしく見てられる映画になってました。

 

さて、褒めたので、後は問題点を書いていきます。もちろん個人の感想です。

 

見る前ポンポさんは「映画内アニメキャラかな?」と思っていたら、ただの本当の子供でした。嘘っぽさ満載でしたね。

しかしこれで正解です。「この映画の内容なんて嘘だよ」と言ってるからこれで良いのです。

見てると映画作りや物作りにおいて「なるほど」と思えそうな事をいいます。

しかし「たぶん映画作りをした事は無い人じゃないのかな?」と見えますね。

映画作りの日々の細かな内容は端折ってる内容でした。大枠だけが映画作りらしかっただけでしたね。映画作りの現場にいた人ならもっと細かなネタを入れて来ると思うので、たぶん知らないのだと思います。

もちろん「知っててわざと全て外した」可能性もありますが、それならもったいないですし、そんな事しますかね?

ただ私は前から「知らないのなら誤魔化せばいい」と思っています。全ての業種や世界を知っている人はいないのだから、誤魔化しを入れた方が良いと思います。

誤魔化しを入れないでやると「知ったかぶりの馬鹿なのかな?」と思い、それがノイズになり見てられなくなるんで、始めから「ウソだよ」と言う事を言った方がいいのです。

これは「客の期待を裏切るな」と言う事ですし「客との約束は守れ」と言う事です。

始めからポンポさんが嘘満載なので、嘘映画でも見てられるのです。

 

だからこの「ご都合主義な映画も見てられる様になっている」と言いたい所なのですが、いくら何でもご都合主義過ぎましたかね? ちょっと始めの方は耐えれれない位ご都合主義に見えます。

これは何なのか?

このリアルさと言うのは「漫画」なら多くの人に対し成り立つのです。

だからアニメにした時に嘘っぽさがまして、見てられにくい映画になりましたね。

元の原作は漫画なのでこれでも良い。それを元でアニメ化なので、そこまで変えられないでしょうからアニメ監督もしょうがない。だとすれば誰が悪かったのか?

私は前から思ってますが、誰が悪いではないが良く無い事には変わりはないので、皆で共有する必要があると思っています。

小説、漫画、アニメ、実写は、同じ内容だとダメだと言う事です。成り立つリアルさやテンポがまるっきり違う事を、皆が理解して物作りに挑む必要がありますね。

 

アニメだと、あまりにも上手く行きすぎる内容は、もう少し抑えた方が良かったと思います。

ジーンを採用したのも「良さそうだったから」だけではなく「会社に金が無かったから」とか。

新人女優を抜擢するのも、金がないとか他の理由もある方が良いですね。

最後賞をもらうのもやりすぎですね。あれもらう必要ありますかね?

他に例えば、実は近未来でポンポさんも3DCGであり(ノイズが出るので周りの皆は知っているけど)何処かから遠隔操作されている。ベットの上とか、車いすとかで。それで最後映画をエンドロールまで見る車いすの謎の彼女が、ポンポさんの元だと分かるとかね(流石に子供ではなく、もう少し年上とかね)。

など、内容としてもう一ひねりあっても良かったかな? とは思います。

 

ちなみに映画オリジナルキャラクターのアラン。あれはあれで出した意味は分かります。

「ちょっと物語から浮いていて、いらなかった」と言うネットでの感想もありましたけど、まあいても良いでしょう。浮いてはいましたけどね。

映画作りにのめりこんでいるジーンだけだと、やはり特殊な人だと言う事になる。

だから反対の人も出す。学生時代はリア充だったが大人になり上手く行かない奴をです。つまりジーンの反対の人です。ジーンが白黒なら黒白の人と言う事です。

一部が普通で一部は恵まれている存在であり、ジーンの恵まれてる所と残念な所の両方ともが反対であり、だから特殊なジーンが無い要素を埋める存在です。

それで仕事も会社員と言う普通の人にして、ジーンに乗れない客の感情に共感させる存在を出したのでしょう。

私などの年よりは、会社員のアランがいたからこそバランス取れ共感が出来ました。アラン自体にと言うよりは、ジーンとアラン二人で皆の要素をそれぞれ持っていて、共感出来る様になっていたと言う事です。

 

ちなみに「映画作りがリアルじゃないだろう」と言いましたが、だからこそ映画作りの映画ではなく、もっと普遍的な「何かに向けて頑張る」と言う物語になっていると言う事です。

だからアランも必要になるし、だからこそ皆が共感できる物語にもなるのです。

映画作りだけなら興味がない人だと乗れなくなるから、物語のフォーカスは実はそこではない事がきいてくるのです。

 

内容で気になった事として「切り捨てる物語に見える」と言う事です。

他は嘘っぽいのにここだけ妙にリアルでした。

原作者と監督のどちらか、もしくは両方ともこの感覚はあった事でしょうから、どうしてもリアルさがここだけ違いましたね。

映画作りで「最後どのシーンを切るのか?」が大事でした。映画の中の映画でも何かを得る為に家族を捨てる話でした。ジーンは体調を気にせず頑張りました。

まあそうでしょう。何かを得ようとすれば代償がある。大きな普通だと手にはいいらない物を手に入れようとすると、何かを失うものです。

でも物語としたらどうでしょうね? ジーンは死ぬかもしれなじゃないですか? 庵野さんですか? 私は認めませんね。死んだらお終いだからです。

「何かを得れば、何かを失う」と見える所が問題ですね。

何と何かを選びどちらかを取る。つまり「どちらかを選び、手に入れたのだ」と言う物語にすべきです。

これはただの言い方の問題ですが、言い方も大事です。

失う事ではなく、得る事を勘定していくべきです。

そうすれば、死んだら何も得れないと気が付きませんですかね?

「名作を得て、家族や命を失う」ではなく「名作を手に入れる為に必要な事は?」と普通に考える事が大事だと思います。

失う事を念頭に置いていると「何を失うか?」が前提となり、失う事の言い訳にしてしまう。悪魔との契約の様に「これを失えば、これが得れるのだろう?」と失う事への心の逃げになるのです。

 

さて、もう一度言いますが、やはり「客の感情に訴えかける物語」が基本だと思わせる物語でした。

どうもこの基本を忘れている人が多すぎる気がしますけど、どうでしょうか?

自分に向かって作ってる人多い気がします。

映画好きなら、映画のどんな所が客が好きか? をもう一度考えてみるべきです。

ジーンはポンポさんに向けて作ってました。あれは一人でしたが、客は客です。

映画は客に向かって作るべきです。